還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 12

還相の仏

【浄土真宗の教え】

 還相の仏

 昭和五十四年三月に父が還浄した。またその年の七月に妻の父が浄土に旅立った。同じ年にふたりの父親を失ったことになる。
 寝たきりではなかったが、それに近い晩年、しかし訪ねれば にこにこと嬉しそうにわたしの顔を眺める父であった。
 また、義父はいつも端然と座り、わたしを迎えてくれた人だった。義父が還浄する前夜、病室でわたしは独り義父に付き添って夜を過ごした。翌日、一寸部屋を出ている間に浄土に往ってしまわれた。言葉を交わすことが無かったが、そっと看取りながらの時間は深いえにし(縁)を想わずにはおれないものがある。
 そのふたりが、そろって還浄したときは、さすがに呼びかけても答える「生身の父親」のいないさびしさがしばらくわたしを包んでいた。 親をなくすることがこんなにさびしいものだったとは。
 父は脳塞栓で倒れ二年ほどの療養のあと、脳溢血の発作がおき、意識不明のまま三日ほどで亡くなった。
 その臨終に、父のそれまでごうごう轟々とかいていたいびきが消え、静かな、そして大きく、深くまた、吸うよりも吐く呼気のほうが深くながくなり、何も言はなかったが、八十四歳のいのちを自らいとおしむかのように、そして夜の浜辺の潮騒が静かに静かに小さなあぶくを残しながら潮が砂に沁みて引いていくかのように息を引取った。
 その時、その姿に、私は人のいのちの、なんと崇高なものか、そして、いのちは自分がつくったり、こわしたりするものではなく、大いなるはたらきのもとに委ねられたものであることをその姿から教えられたような気がする。

 その後、父の死に導かれるように仏の教えにより深く惹かれることになった。父は、私に阿弥陀仏の願いをきっちりと届けてくださった還相の仏に違いないと思うゆえんである。そんな縁をいただきながら、私は、聴聞しても表面の皮相的な領解しかいただけずにいたような気がする。その後昭和六十年に「浄土真宗聖典・原典版」が刊行され、その読み下し文を読み、学ぶうちに、ご開山聖人の教行信証には、まことに繰り返し繰り返し幾多の経文を引証し、一つの経言、ひとつの教えを確かなものとして示されているのに出会ううち、その帰納法的或いは演繹法的とも言える真実の教えの証明法に、私はあるとき、いっきに自分のおろかな疑念が雲散霧消するように感じた。
「そうなんや、ちゃんとご開山は証明ずみやん!」
 その時、私は心の中でそう叫んでいたようだ。
「もったいない。こんなご苦労をいただいているのに 何をわたしは目を閉じ、心を閉じていたのか」と、まことに慙愧にたえぬ思いであった。

 また、母が、父の死から十年して還浄した。母は、亡くなるまでの数年間、ノート六冊ほどに自分の聴聞の記録を書き残していった。
 どのページにも、つたない文字ではあるが、しっかりと法語が写され、またそれに添書してあり、母の折々の想いが書かれている。
 まこと、「一文不知の尼女房」であるが、大切な法語には「しっかりと聞く」「大切に聞く」「ありがたいねー」などと、一つひとつの法語を心底有り難くいただいていった母の想いが熱く伝わってくる。
 逃れ得ぬ「死苦」「別苦」を、病院で夜通し看取っていた私に示していった母もまた私を導いてくださる還相のほとけさまである。
(参照:{還相回向の願}

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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