還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 2

後生の一大事

【浄土真宗の教え】
[釈勝榮/門徒推進委員]

 後生の一大事

 ご門主は、教書で

 宗教は、人間のかかえている究極的な問題、すなわち、老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。釈尊が出家される機縁となったのも、その問題であり、老病死が迫っていることに気付く時、人間は、今ここに生きていることの意味を問わずにはおれません。……

と示されています。

 人は、みな生れたことにより、かならず死ぬことは約定事であります。そして、そのことは、いつ誰の身の上にも突然起こりうることである。そうであるならば、その解決にかかわる宗教について、わたしたちは「正しい宗教」と正対して、自分自身が独り生れ、独り死ぬ道すがらを、正しく問うて行かなければならない。 それは年齢の老若を問わず、また男女であることを区別するものではなく、等しくこの世に生を享けたものすべてに対して課せられた一生の命題であります。

人道に生ずるを得るは難く
 寿を生ずるも また得がたし
世間に 仏あるは難く
 仏法を聞くを得ることは難し

『法句経』

 わたくしたちが、この世に人として生れるということを、そして私が、「わたし」として生れることを考えてみましょう。それは途方もなく小さな小さな確率でしかなく、また遺伝子論的に考えれば、途方もなく膨大な数の先祖があることになります。 そのことを前に挙げたように、もっとも古い釈迦の教えとして伝えられている「法句経」には、説かれています。
 このようにわたしたちが、この世に生をうけることは、まことに不可思議な因縁であり、まれな縁(えにし)を受けたことなのであります。 そして、お釈迦様は無量寿経の巻下末尾に「如来の興世にまうあ値ひがたく、見たてまつること難し…」と説いていかれました。 また、この末世を予見して、「慈悲をもってあわれみ、特にこの無量寿経をこの世にとどめよう」と仰せになられました。

「教書」の後段に

阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、浄土で真のさとりに至るのが浄土真宗であります。このみ教えを聞き、それに信順して生きぬくところに信心の行者のすがたがあります。その生活は如来の本願を究極の依りどころとして仰ぐとともに、罪悪生死の凡夫であることにめざめた喜びと慙愧の信心生活であります。……

とご門主のお示しになったこの「本願力」「信心」「念仏」について、わたしたちは本当に正しい理解をしているといえるのでしょうか。

*後生: 後世あるいは来世のこと
*後生の一大事: 生死(しょうじ)の問題を解決して後生に浄土に往生すること


 編集註

「法句経」に関して、「もっとも古い釈迦の教えとして伝えられている」という説明ですが、「初期の段階で編纂された」ということは言えるでしょう。ただし、現存する『法句経(ダンマパダ)』は仏滅後数百年は経過した時点で文字化されたものですので、「釈尊の生の声を正確に」という訳にはいかないでしょう。またこの経典は、出家者中心の環境で編纂されていますので、遅れて結集された大乗経典が在家者への教説も含めて編纂されているのと比べて、多少出世間的な偏りがあり、「社会性や歴史性を踏まえた人生観に乏しい」という指摘は否めません。もちろん『法句経』には珠玉の言葉が多くつらなっていて、仏教徒のみならず世界中の宗教者に大きな影響を与えている経典であることは確かです。
(※ [経典結集の歴史] [大乗仏教は釈尊の説ではないのですか?] 参照)

「後生」について、「後世あるいは来世のこと」という説明はその通りなのですが、これを霊魂不滅的な輪廻と結びつけると誤解が生じてしまいます。如来はあくまで個別的な実体としての霊魂観を批判し、一切衆生に心開かれた場において「摂取不捨」と呼びかけられます。そしてその声の響くところを浄土といい、先手で一切衆生に呼びかけられ、教法の届く時を待っているのです。
(参照:{後生の一大事について}

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