還浄された御門徒様の学び跡 |
かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
『正像末和讃』 101
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
『正像末和讃』 104
このご和讃は、ご開山聖人が「愚禿悲歎述懐」としてお示しになった十六首のうちの二首であります。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつて そらごと たはごと、まこと(実)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄 18)のに、そしてその罪悪深重・煩悩燃え盛る衆生を救わんがための弥陀の本願であるのに、なにを迷い、逆らって、卜占(うらない)にたより、あらぬ神を信心し頼む僧俗のすがたに、親鸞聖人の悲痛なひびきが洩れてくるようなご和讃である。
今も、真宗門徒と言いながら、念仏を申しながら、神信心をし、厄除け参りに努め、ありとあらゆる現世利益を求めて走り、その一方平然として「わたしは信心深い者でございます」といっているわたしが多くいるのではないでしょうか。八百年近い年月をへてなお、ご開山聖人のこの悲歎が私たちの耳にとどかないというのは、なんとしたことでしょうか。
このことは、ひとえに、阿弥陀如来のご本願を私たちが正しくいただいていないことにほかなりません。いまこそ、そしてあらためて、浄土和讃 冠頭の次のご和讃のおこころを、深く、ふかくいただかねばなりますまい。
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
『浄土和讃』冠頭讃 1
[←back] | [next→] |