「浄土」を実際に見ることはできるのですか?
浄土真宗では、皆さんに「信心が
もちろん
実はこれはとても重要な問題なのです。
本当はこの問いは浄土真宗門徒の方々だけでなく、僧侶の皆さん全員にも聞いてみたいのですが、いかがでしょう。ご自身の眼で浄土を観られた経験はおありなのでしょうか? 少なくともああ、これが浄土のはたらきなのか!≠ニ、浄土の催しやその存在理由を身近に体験されたことはありますでしょうか?
さて、このような問いを発しますと脅迫的に受け取られるかも知れませんね。実は、どちらでも良いのです。私は自分の眼で浄土を観たことがある≠ニ仰る方もみえればまだ観ておりません≠ニ仰る方もおられます。信受させていただければどちらでも良いのです。
しかしここからが肝心なのですが、残念ながら浄土真宗教団内において「浄土を観る、観ない」ということで重要な思い違いをされてみえる方が少なくない、という点です。
この思い違いとは――「釈尊や天親菩薩のような聖者なら浄土の詳細を観ることは適っても、私のような罪悪深重の凡夫は、この身がある限り実際に浄土を観ることはできません」ということ。もっとはっきり言えば、「凡夫なのに浄土が観えるなんてことはありえない。そんなことを言うのは異安心だ!」という決め付けです。
これは誤解が幾重にもからまった結果そういう決め付けが生まれたのですが、浄土の経論釋をつぶさに読み解けばそうでないことは解りますし、実際に罪悪深重の凡夫であっても浄土を観ることは適うのです。
もちろん、「観た」と仰る方の話もよくよく聞いてみると、単なる
では、どういった経過をたどれば実際に自分の眼で浄土を観ることが適うのでしょう。もちろん観ることが適わなくても信受すれば全く構わないのですが、観る道程だけでも知っておけば誤解を解くことができるでしょう。
ここで先師よりお聞きした解りやすい譬えを用います。
「きれいな花を見る時は」―― 見る側の私自身は、どのような心持ちであれば本当に花を見たことになるのでしょうか。視力があれば花の色形は見えますが、「見えた色形をどう受け取るか」を問います。
第一は、「きれいな花を見る時は きれいな心で
第二は、「きれいな花を見るたびに きたない自分が悔やまれる」という見方です。花がきれいであればあるほど、それに比べて自分の心は何ときたないことか≠ニ我が身が懺悔される。するとますます花のきれいさが際立って見えてくるのです。そしていつのまにか、きれいな花ときたない自分の両方を見る眼が育ち、同時に、この二つを見せしめている世界が我が身に満ちてくるのです。
この時の認識は、煩悩具足の凡夫のまま背にある浄土を観る≠ニいうこと。煩悩具足の我が身や宿業を詳細に知らしめることが浄土のはたらきの一つですから、
このように、浄土を観るには大きく分けるとこれら二つの見方があり、おかげで聖者も凡夫も浄土を観ることが適うのです。以下その実際を明かしたいと思います。
「きれいな花を見る時は きれいな心で
絵や音楽を鑑賞する時も、作者と同様の体験があったり、共通の美意識があった方が理解しやすいわけですから、浄土も、経典に説いてある内容と同様の体験や境地に至れば浄土を観ることが適うわけです。
仏教史上浄土に生まれる方法≠ヘ様々説かれてきましたが、順を追って説明しますと――
第一には、親孝行し、恩師を敬い、慈しみの心をもち殺生をせず、
第二には、仏法僧の三宝に
第三には、
以上三種の行は「
ちなみに、人類は時代を追うごとに苦悩が多くなり社会悪が増してゆくことは多くの経典に説かれていて、それゆえ末世になればなるほど浄土教が盛んになる≠ニいう予見は、人間業の道理からも、歴史的事実からも証明されてきました。
『仏説観無量寿経』には、浄土を観察する要点が十六種(十三種+三種)書かれてありますが、以下に述べます
以上十三種の正観は
という功徳が得られるからです。これは自らの人生を顧みつつ『仏説無量寿経』に説かれた本願成就の経緯≠聞き開くことでその道理を得ることができるのですが、ここでは詳細は略します。
『仏説観無量寿経』ではこの後、
上記の「
しかし実際に「心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行」というのは、「はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない」のが現実です。親鸞聖人はじめ多くの修行者が定善に挫折されたことは皆様ご存知の通りです。
ただし、定善の観法に間違いがあるわけではありません。
ここで親鸞聖人の信心の根幹とも言える「三一問答」を聞いてみましょう。
- 註釈版
- 【21】 また問ふ。字訓のごとき、論主の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈- 現代語版
- また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した
天親菩薩 のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。[
答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推 しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、[ 煩悩 に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の[ 三業 に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。[
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。
- 註釈版
- 【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈- 現代語版
- 次に
信楽 というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち[ 他力回向 の至心を信楽の体とするのである。[
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪 りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。[
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土 にいたる[ 正因 となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。[
- 註釈版
- 【39】 次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈- 現代語版
- 次に
欲生 というのは、如来が迷いの衆生を招き[ 喚 びかけられる[ 仰 せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。まことに、これは大乗・小乗の凡夫や聖者などの[ 定善 ・[ 散善 の自力の回向ではないから、[ 不回向 というのである。[
あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力(利他)真実の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。
私はじめ全人類はその存在の奥深くに本音の中の本音≠フ願いを持ちながら、私はじめ全人類は我執と無明に迷い、つねにこの純粋なる願いを裏切り続けてきました。
だからこそ、この純なる願いは人々の業を待たず、願いの側から姿を現し、言葉を示し、我執と無明を打ち破って一切衆生の人生を成就させる本願(四十八願)となりました。そしてその主体である如来は、本願を
ですから、成就した浄土が言葉や色や形で人々に示されれば、ああ、私が心底望んでいた世界はこれだったのだ!≠ニ感嘆の声があがるのは当然でしょう。そして私たちは既にはるか昔から本願の呼びかけを聞いていたのだった≠ニ、耳慣れた声を新鮮な感動をもって聞きなおし、本願の催しの上に、懺悔しながら自らの人生を築くことになるのです。
すると、願いを裏切り続けてきた自分自身の姿と、自分自身の姿を見る眼と、その背後に浄土が願いの世界≠ニして存在することが見えてくるではありませんか。
最後に『
ところで、蓮如上人の書かれた『御文章』にも「機法一体」という言葉が多く登場するのですが、その内容はたのむ機とたすける法を別に見た上で、この二つが南無阿弥陀仏の中で一体に成就されている≠ニ解釈ができ、随分単純化した図式で書かれていることが分かります。すると『御文章』と『安心決定鈔』は内容が異なるのかと申しますと、実は『安心決定鈔』は「蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなしている」のです。
このあたり、時代や環境の制約で教えを単純化せざるを得なかった上人の御苦労がしのばれます。
【6】念仏三昧 において[ 信心決定 せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地・水・火・風の[ 四大 よりあひて[ 成 ず。小乗には[ 極微 の[ 所成 といへり。身を[ 極微 にくだきてみるとも[ 報仏 の功徳の[ 染 まぬところはあるべからず。されば[ 機法一体 の身も[ 南無阿弥陀仏 なり。こころは[ 煩悩 ・[ 随煩悩等具足 せり。[ 刹那刹那 に[ 生滅 す。こころを[ 刹那 にちわりてみるとも、[ 弥陀 の[ 願行 の[ 遍 せぬところなければ、[ 機法一体 にしてこころも南無阿弥陀仏なり。[ 弥陀大悲 のむねのうちに、かの[ 常没 の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが[ 迷倒 のこころのそこには[ 法界身 の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の[ 依正二報 もしかなり。[ 依報 は、[ 宝樹 の葉ひとつも[ 極悪 のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。[ 正報 は、[ 眉間 の[ 白毫相 より[ 千輻輪 のあなうらにいたるまで、[ 常没 の衆生の[ 願行円満 せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが[ 道心二法 ・[ 三業 ・[ 四威儀 、すべて[ 報仏 の[ 功徳 のいたらぬところなければ、[ 南無 の[ 機 と[ 阿弥陀仏 の[ 片時 もはなるることなければ、[ 念々 みな南無阿弥陀仏なり。されば[ 出 づる息[ 入 る息も、仏の功徳をはなるる[ 時分 なければ、みな南無阿弥陀仏の[ 体 なり。[ 縛曰羅冒地 といひしひとは、[ 常水観 をなししかば、こころにひかれて[ 身 もひとつの池となりき。その法に[ 染 みぬれば、[ 色心正法 それになりかへることなり。[ 『安心決定鈔』
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 両重因縁
▼意訳(現代語版より)
いま 知ることができた。慈悲あふれる父とたとえられる名号がなければ往生の因が欠けるであろう。慈悲あふれる母とたとえられる光明がなければ往生の縁がないことになるであろう。しかし、これらの因縁がそろっても信心がなければ浄土に生まれることはできない。真実の信心を内因とし、光明と名号の父母を外縁とする。これらの内外の因縁がそろって真実報土のさとりを得るのである。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕
▼意訳(現代語版より)
善導大師 の説かれた『[ 観経疏 』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。[ 漸教 も[ 頓教 もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができるようになる(玄義分)といわれている。[
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性 をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて[ 真如法性 を観じようとするなら、それは、[ 神通力 のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。[
『観経疏 』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力[ 聖道門 のことである。「超えている」のは[ 本願一乗海 の教えであり、他力浄土門のことである。[