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凡夫が浄土を観る方法

煩悩具足のまま背にある浄土を尊ぶ

【十界モニター】

「浄土」を実際に見ることはできるのですか?


 浄土真宗では、皆さんに「信心が肝要[かんよう]である」とお勧めするわけですが、これを聞いた多くの方々から「浄土の存在など信じられない」、「阿弥陀仏の存在など信じられない」といった疑問が寄せられます。そして皆さん異口同音に「自分のこの眼で浄土が見えるのなら信じるが、そうでなければ浄土など空想に過ぎないかも知れないではないか」とおっしゃるのです。
 もちろん不躾[ぶしつけ]には仰いませんが、気心が知れた頃に本音を聞いてみますと、皆さんそういう疑問がわいてみえる様子です。

 実はこれはとても重要な問題なのです。
 本当はこの問いは浄土真宗門徒の方々だけでなく、僧侶の皆さん全員にも聞いてみたいのですが、いかがでしょう。ご自身の眼で浄土を観られた経験はおありなのでしょうか? 少なくともああ、これが浄土のはたらきなのか!≠ニ、浄土の催しやその存在理由を身近に体験されたことはありますでしょうか?

 さて、このような問いを発しますと脅迫的に受け取られるかも知れませんね。実は、どちらでも良いのです。私は自分の眼で浄土を観たことがある≠ニ仰る方もみえればまだ観ておりません≠ニ仰る方もおられます。信受させていただければどちらでも良いのです。
 しかしここからが肝心なのですが、残念ながら浄土真宗教団内において「浄土を観る、観ない」ということで重要な思い違いをされてみえる方が少なくない、という点です。

 きれいな花を見る時は

 この思い違いとは――「釈尊や天親菩薩のような聖者なら浄土の詳細を観ることは適っても、私のような罪悪深重の凡夫は、この身がある限り実際に浄土を観ることはできません」ということ。もっとはっきり言えば、「凡夫なのに浄土が観えるなんてことはありえない。そんなことを言うのは異安心だ!」という決め付けです。

 これは誤解が幾重にもからまった結果そういう決め付けが生まれたのですが、浄土の経論釋をつぶさに読み解けばそうでないことは解りますし、実際に罪悪深重の凡夫であっても浄土を観ることは適うのです。

 もちろん、「観た」と仰る方の話もよくよく聞いてみると、単なる独影境[どくようきょう](妄念や妄想)である場合がほとんどなのですが、そうではない方もおられます。経典でいえば韋提希[いだいけ]も浄土を観られた方なのですが、彼女も罪悪深重の凡夫であり、妻として母として苦悩の真っ只中で浄土を観ることが適い、おかげで浄土に生まれたいと本気で願われたのでした。

 では、どういった経過をたどれば実際に自分の眼で浄土を観ることが適うのでしょう。もちろん観ることが適わなくても信受すれば全く構わないのですが、観る道程だけでも知っておけば誤解を解くことができるでしょう。

 ここで先師よりお聞きした解りやすい譬えを用います。

「きれいな花を見る時は」―― 見る側の私自身は、どのような心持ちであれば本当に花を見たことになるのでしょうか。視力があれば花の色形は見えますが、「見えた色形をどう受け取るか」を問います。

 第一は、「きれいな花を見る時は きれいな心で[]でましょう」という見方で、これが適えば、手にした木の実を観るように間近に浄土を観ることができます。これはごく順当な道理でありましょう。

 第二は、「きれいな花を見るたびに きたない自分が悔やまれる」という見方です。花がきれいであればあるほど、それに比べて自分の心は何ときたないことか≠ニ我が身が懺悔される。するとますます花のきれいさが際立って見えてくるのです。そしていつのまにか、きれいな花ときたない自分の両方を見る眼が育ち、同時に、この二つを見せしめている世界が我が身に満ちてくるのです。
 この時の認識は、煩悩具足の凡夫のまま背にある浄土を観る≠ニいうこと。煩悩具足の我が身や宿業を詳細に知らしめることが浄土のはたらきの一つですから、能所不二[のうしょふに]で、底知れぬ我が身の闇を見ることが、そのまま深きめぐみの浄土を観ることになるのです。

 このように、浄土を観るには大きく分けるとこれら二つの見方があり、おかげで聖者も凡夫も浄土を観ることが適うのです。以下その実際を明かしたいと思います。

 清らかな心になって浄土を間近に観る難行

「きれいな花を見る時は きれいな心で[]でましょう」というのは、客観的にいえば至極当たり前の話でしょう。
 絵や音楽を鑑賞する時も、作者と同様の体験があったり、共通の美意識があった方が理解しやすいわけですから、浄土も、経典に説いてある内容と同様の体験や境地に至れば浄土を観ることが適うわけです。

 仏教史上浄土に生まれる方法≠ヘ様々説かれてきましたが、順を追って説明しますと――
 第一には、親孝行し、恩師を敬い、慈しみの心をもち殺生をせず、十善業[じゅうぜんごう]を行う。
 第二には、仏法僧の三宝に帰依[きえ]し、もろもろの戒律を守り、規則に沿った正しい生活を保つ。
 第三には、無上菩提心[むじょうぼだいしん](どこまでも真実を求める心)を起こし、深く因果の道理を信じ、大乗の経典を称えて読み、他の人々にも大乗の法を教え勧める。

 以上三種の行は「三福[さんぷく]」といい、三世(過去・未来・現在)一切の仏がたが行われた浄業であり、正しく覚りを得る因なのですが、浄土教においては、三福だけでは済度[さいど]できない苦悩の特に多い人々≠竅A社会環境の悪化により苦しみが激しい時代に生まれた人々=i五濁悪世[ごじょくあくせ]の衆生)のために「特別の手だて」が説かれます。つまり、「三福」は大乗仏教までの内容であり、「定善[じょうぜん]」と「散善[さんざん]」の一部は浄土教独特の修行法と言えるでしょう。そして後に説明します「本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]」は宗教の総ざらい≠ニ言える内容で一切衆生の済度を適えてゆくのです。

 ちなみに、人類は時代を追うごとに苦悩が多くなり社会悪が増してゆくことは多くの経典に説かれていて、それゆえ末世になればなるほど浄土教が盛んになる≠ニいう予見は、人間業の道理からも、歴史的事実からも証明されてきました。

『仏説観無量寿経』には、浄土を観察する要点が十六種(十三種+三種)書かれてありますが、以下に述べます定善[じょうぜん]散善[さんぜん]は、日本における浄土教の歴史の中でも以前は主流をなしていた行でした。

初観[しょかん]日想観[にっそうかん]
姿勢を正して西に向かって座り、日没を観じて極楽浄土を思う……
第二観「水想観[すいそうかん]
水が清く澄みきり、氷が透き通ったようすをはっきりと心に想い描く。極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映りあう……
第三観「地想観[じそうかん]
(瑠璃の大地)一つ一つ想い描き、それがきわめてはっきりと見えるようにして、目を閉じても開いても目の前から消え失せない……
第四観「宝樹観[ほうじゅかん](樹想)」
極楽世界の七重の宝樹を想い描く。(参照:{大経・宝樹荘厳 }
第五観「宝池観[ほうちかん]八功徳水想[はっくどくすいそう])」
極楽世界の八つの池それぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであって、それはもっともすぐれた宝玉からわき出ている……(参照:{大経・講堂宝池荘厳 }
第六観「宝楼観[ほうろうかん]総観想[そうかんそう])」
楼閣の中には数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。空には楽器が浮んでおり、奏でるのもがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説く……(参照:{大経・道樹楽音荘厳 }
第七観「華座観[けざかん]
七つの宝でできた大地の上に蓮の花があると想い、その蓮の花びらの一つ一つが百の宝の色を持っていると想い描く……
第八観「像観[ぞうかん]
仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となる。阿弥陀仏を思い描くには、まずその像を思い描くのである。目を閉じていても開いていても、金色に輝く一体の仏像が、その蓮の花に座っておいでになるようすを常に想い浮べる。左側の蓮の花に観世音菩薩の像が座って、仏と同じように金色の光を放っているのを想い描き、また、右側の蓮の花に大勢至菩薩の像が座っているのを想い描く……
第九観「真身観[しんしんかん]ヘン観一切色身相[へんかんいっさいしきしんそう])」
無量寿仏の真のおすがたと光明を想い描く。無量寿仏のお体は百千万億の夜摩天の黄金のようにまばゆく輝き、その高さは六十万億那由他恒河沙由旬である……
第十観「観音観[かんのんかん]観観世音菩薩真実色身想[かんかんぜおんぼさつしんじつしきしんそう])」
観世音菩薩を想い描く。この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の円光がある。全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照らし、そのすがたがそこに現れている……
第十一観「勢至観[せいしかん]観大勢至色身想[かんだいせいししきしんそう])」
大勢至菩薩を想い描く。菩薩のお体の大きさは、観世音菩薩と同じである。全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。この菩薩が歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている…… 
第十二観「普観[ふかん]
自分が往生するという想いを起す。西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描く。また自分の目が開と、仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見る。そこではみな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している……
第十三観「雑想観[ざっそうかん]
池の上に一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると想い描く。無量寿仏の真のおすがたははかり知れないほどであるが、愚かな私のために、ときには大空一面に満ちわたるほどの大きなおすがたを現し、ときには一丈六尺、または八尺の小さなおすがたを現される。ただ仏の像を想い描くだけでも、はかり知れない功徳が得られる。観世音・大勢至の二菩薩は、ともに阿弥陀仏を助けてひろくすべての人々をお導きになる……

 以上十三種の正観は定善[じょうぜん]とよばれる三昧[ざんまい]の修行法(精神を集中統一して修する息慮凝心[そくりょぎょうしん]の善)であり観法でありますが、なぜこのように浄土や仏・菩薩を観察することが大事なのかといいますと、浄土や仏・菩薩を観察すれば――

という功徳が得られるからです。これは自らの人生を顧みつつ『仏説無量寿経』に説かれた本願成就の経緯≠聞き開くことでその道理を得ることができるのですが、ここでは詳細は略します。

『仏説観無量寿経』ではこの後、上輩生想[じょうはいしょうそう](上品上生・上品中生・上品下生)・中輩生想[ちゅうはいしょうそう](中品上生・中品中生・中品下生)・下輩生想[げはいしょうそう](下品上生・下品中生・下品下生)の三観が説かれますが、これらは定善[じょうぜん]が行えない人たちのために説かれた散善[さんぜん](日常の散り乱れた心で行う廃悪修善[はいあくしゅぜん]の散善観)であり、散善は前に述べました「三福[さんぷく]」と内容が重複しておりますので、浄土教独特の修行法ではなく、全般的な仏教修行(いわゆる八万四千の法門・自力聖道門[じりきしょうどうもん])が基礎であり、三福の過程や結果において阿弥陀仏や極楽浄土を観る内容となっています。ちなみに、散善の中では「上品上生」の者以外は浄土や仏・菩薩を観るのは臨終[りんじゅう]を待たねばなりません。

 煩悩具足のまま背にある浄土を観る易行

 上記の「定善[じょうぜん]」は、今で言う「イメージトレーニング」に似た修行法でしょう。仏は仏の覚られた境地をあえて色や形で表現し、修行者は表現された色や形を通し同体験によって覚りの世界に入るわけです。
 しかし実際に「心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行」というのは、「はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない」のが現実です。親鸞聖人はじめ多くの修行者が定善に挫折されたことは皆様ご存知の通りです。

 ただし、定善の観法に間違いがあるわけではありません。散善[さんぜん]も正しい教えであることは確かです。さらに言いますと、定善・散善は罪悪深重[ざいあくじんじゅう]の凡夫にとっても重要な導きであることは忘れてはならないでしょう。なぜなら、定善・散善はその裏に本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]に入る門を宿しているからです。つまり逆から言えば、本願一乗海に入るためには、定善・散善の裏を観ずる方法も有力なのです。先にも申しましたように、底知れぬ我が身の闇が見えれば、見えた闇と観ている眼はともに分かち難い(能所不二[のうしょふに])わけですから、これがそのまま闇を闇と知らしめて衆生を招喚[しょうかん]する深きめぐみの浄土≠観る眼となるのです。

 ここで親鸞聖人の信心の根幹とも言える「三一問答」を聞いてみましょう。


註釈版
【21】 また問ふ。字訓のごとき、論主の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
 答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈
現代語版
 また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した天親菩薩[てんじんぼさつ]のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。
 答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを[]しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩[ぼんのう]に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業[さんごう]に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
 この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。


註釈版
【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈
現代語版
 次に信楽[しんぎょう]というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向[たりきえこう]の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、[むさぼ]りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土[しんじつほうど]にいたる正因[しょういん]となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。


註釈版
【39】 次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈
現代語版
 次に欲生[よくしょう]というのは、如来が迷いの衆生を招き[]びかけられる[おお]せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。まことに、これは大乗・小乗の凡夫や聖者などの定善[じょうぜん]散善[さんぜん]の自力の回向ではないから、不回向[ふえこう]というのである。
 あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力(利他)真実の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。

 私はじめ全人類はその存在の奥深くに本音の中の本音≠フ願いを持ちながら、私はじめ全人類は我執と無明に迷い、つねにこの純粋なる願いを裏切り続けてきました。
 だからこそ、この純なる願いは人々の業を待たず、願いの側から姿を現し、言葉を示し、我執と無明を打ち破って一切衆生の人生を成就させる本願(四十八願)となりました。そしてその主体である如来は、本願を寿[いのち]とした永劫の修行を一切衆生の身心において行じ、穢土[えど]の泥田の中に自らの王国を願土として完成させました。これに釈尊が安楽国とも極楽浄土とも名をつけられた(ただし真実は、浄土みずからが名を示した)のです。

 ですから、成就した浄土が言葉や色や形で人々に示されれば、ああ、私が心底望んでいた世界はこれだったのだ!≠ニ感嘆の声があがるのは当然でしょう。そして私たちは既にはるか昔から本願の呼びかけを聞いていたのだった≠ニ、耳慣れた声を新鮮な感動をもって聞きなおし、本願の催しの上に、懺悔しながら自らの人生を築くことになるのです。
 すると、願いを裏切り続けてきた自分自身の姿と、自分自身の姿を見る眼と、その背後に浄土が願いの世界≠ニして存在することが見えてくるではありませんか。

 最後に『安心決定鈔あんじんけつじょうしょう』を引いてみますが、<依報えほうは、宝樹ほうじゅの葉ひとつも極悪ごくあくのわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報しょうぼうは、眉間みけん白毫相びゃくごうそうより千輻輪せんぷくりんのあなうらにいたるまで、常没じょうもつの衆生の願行円満がんぎょうえんまんせる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり>。「意訳:浄土は、宝樹ほうじゅの葉ひとつにしても、極悪ごくあくの私たちのためでない葉は一枚もないのだから、極悪のあり様を懺悔した信心と浄土の内容は表裏一体であって、これが南無阿弥陀仏なのである。阿弥陀仏や菩薩衆は、眉間みけん白毫相びゃくごうそうから千輻輪せんぷくりんのあなうらにいたるまで(三十二相すべて)、常に無明・我執に没している人々の上に本願が成就した姿なのですから、やはり仏・菩薩の姿と人々の信心のあり様は表裏一体なのであって、これが南無阿弥陀仏なのである」とまで言い切られています。

 ところで、蓮如上人の書かれた『御文章』にも「機法一体」という言葉が多く登場するのですが、その内容はたのむ機とたすける法を別に見た上で、この二つが南無阿弥陀仏の中で一体に成就されている≠ニ解釈ができ、随分単純化した図式で書かれていることが分かります。すると『御文章』と『安心決定鈔』は内容が異なるのかと申しますと、実は『安心決定鈔』は「蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなしている」のです。
 このあたり、時代や環境の制約で教えを単純化せざるを得なかった上人の御苦労がしのばれます。

【6】 念仏三昧ねんぶつざんまいにおいて信心決定しんじんけつじょうせんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地・水・火・風の四大しだいよりあひてじょうず。小乗には極微ごくみ所成しょじょうといへり。身を極微ごくみにくだきてみるとも報仏ほうぶつの功徳のまぬところはあるべからず。されば機法一体きほういったいの身も南無阿弥陀仏なもあみだぶつなり。こころは煩悩ぼんのう随煩悩等具足ずいぼんのうとうぐそくせり。刹那刹那せつなせつな生滅しょうめつす。こころを刹那せつなにちわりてみるとも、弥陀みだ願行がんぎょうへんせぬところなければ、機法一体きほういったいにしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲みだだいひのむねのうちに、かの常没じょうもつの衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが迷倒めいとうのこころのそこには法界身ほうかいしんの仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報えしょうにほうもしかなり。依報えほうは、宝樹ほうじゅの葉ひとつも極悪ごくあくのわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報しょうぼうは、眉間みけん白毫相びゃくごうそうより千輻輪せんぷくりんのあなうらにいたるまで、常没じょうもつの衆生の願行円満がんぎょうえんまんせる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法どうしんにほう三業さんごう四威儀しいぎ、すべて報仏ほうぶつ功徳くどくのいたらぬところなければ、南無なも阿弥陀仏あみだぶつ片時へんじもはなるることなければ、念々ねんねんみな南無阿弥陀仏なり。さればづる息る息も、仏の功徳をはなるる時分じぶんなければ、みな南無阿弥陀仏のたいなり。縛曰羅冒地ばざらぼじといひしひとは、常水観じょうすいかんをなししかば、こころにひかれてもひとつの池となりき。その法にみぬれば、色心正法しきしんしょうぼうそれになりかへることなり。

『安心決定鈔』

 資料

【72】 まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 両重因縁

▼意訳(現代語版より)
いま 知ることができた。慈悲あふれる父とたとえられる名号がなければ往生の因が欠けるであろう。慈悲あふれる母とたとえられる光明がなければ往生の縁がないことになるであろう。しかし、これらの因縁がそろっても信心がなければ浄土に生まれることはできない。真実の信心を内因とし、光明と名号の父母を外縁とする。これらの内外の因縁がそろって真実報土のさとりを得るのである。


【34】 宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義四二七)といへり。いかにいはんや、無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同四三三)といへり。「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕

▼意訳(現代語版より)
 善導大師[ぜんどうだいし]の説かれた『観経疏[かんぎょうしょ]』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教[ぜんぎょう]頓教[とんぎょう]もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができるようになる(玄義分)といわれている。
 しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性[しんにょほっしょう]をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性[しんにょほっしょう]を観じようとするなら、それは、神通力[じんずうりき]のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
観経疏[かんぎょうしょ]』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門[しょうどうもん]のことである。「超えている」のは本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]の教えであり、他力浄土門のことである。


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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)