【十界モニター】
「花咲じいさん」の正体とは?
― 幸せは足元にありとポチは鳴く ―
先日、自坊の「春季永代経法要」において、「かごめの唄」の歌詞――かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?≠仏法として解釈した素晴らしい法話を聞かせていただいた。その休憩中ご講師さんと歓談の際、私が――
「かごめの唄に限らず、昔の童謡や民話には何がしか仏教の精神が反映されているようですね」と述べさせていただいたところ、
「何か具体的な話はありますか?」と質問を受けることとなった。
突然のことで少し口ごもりながら「そういえば……」と出たのは、以前どこかで読んだ『花咲か爺』の話。「ここ掘れワンワン」の「ここ」はどこかということがテーマだったはずだ。
「早速読みたい」と催促を受け、確かあの棚に本があったはず≠ニ探してみると、大抵の探し物は大事にし過ぎて物なくす≠アとが多い私なのだが、今回は珍しく早く見つかった。
午後のお勤めを終えて再び挨拶させていただくと、ご講師さんは「これは面白い」と絶賛。午後の法話でも少し触れていただいたのだが、法要終了後に私もじっくり読ませていただいて驚いた。以前読んだ時には部分的な印象しか残らなかったのだが、今読むと一つひとつの譬えが全て胸に入ってくる。全くその通りだ≠ニ同感できるのだ。このように貴重な体験をしたので、「花咲じいさん」について少しお話させていただきたい。
「花咲かじいさん」(花咲かじじい)は数多ある民話の中でも特に有名な話のため今さら紹介するまでも無いと思うが、細かい部分を忘れている人がいるかもしれないので、以下少しなぞってみる。
- 「はなさかじいさん」(花咲爺)あらすじ
- 昔あるところに正直者のお爺[さんが住んでいました。お爺さんは一匹の白い犬をとてもかわいがり大切に育てていました。ある日のこと、裏の畑で犬が「ここ掘れワンワン」と鳴くのでお爺さんが掘ったところ、大判小判の金貨がザクザクと出てきました。
この話を聞いて嫉[んだのが隣に住む欲張りな意地悪爺[さん。犬を無理に自分の畑に連れていき、「さあ、鳴け」と命令します。犬は仕方なく鳴きますが、そこを掘って出てくるものは瓦や欠けた陶器などのガラクタばかり。怒った意地悪爺さんは、犬を殴り殺してしまいました。
悲しみにくれる正直爺さんでしたが、犬の亡骸[を墓に埋めそこに一本の木を植えたところ、木は一日で大木に育ちました。すると白犬がお爺さんの夢に現れ臼[を作るように勧めます。お爺さんは素直に木を切り臼をつくって餅をつくと、つくたびに大判小判の金貨がザクザクと出てきました。
この話を聞いて嫉[んだのが意地悪爺さん。臼を無理に借りて餅をつきますが、出てくるものは瓦や欠けた陶器などのガラクタばかり。怒った意地悪爺さんは臼を焼いて灰にしてしまいます。
正直爺さんは灰を返してもらうと、やはり白犬が夢に現れ、桜の枯れ木に灰を撒[いてほしいと頼みます。この言葉にしたがって灰を撒いたところ、花は満開に咲き、ちょどそこを通りかかっていたお殿さまがこれを見て大いに喜び、お爺さんにたくさんの褒美[を与えました。
これを聞いて嫉んだのが意地悪爺さん。灰を奪ってお殿さまの目の前で撒きましたが、枯れ木に花は咲かず、灰はお殿さまの目に入ってしまいます。怒ったお殿様は意地悪爺さんを牢屋につなぎ数々の罰を与えました。
民話は地域により、また時代によって多少の変化はあるが、大体の完成形として以上のようにおさまったと思う。なおこの民話は明治34年、「はなさかじじい」として幼年唱歌となっているのでこちらも紹介しておこう。
「はなさかじじい」
石原和三郎 作詞 田村虎蔵 作曲
- 一、
- うらのはたけで ポチがなく
しょうじきじいさん ほったれば
おおばん こばんが
ザクザクザクザク
- 二、
- いじわるじいさん ポチかりて、
うらのはたけを ほったれば、
かわらや せとかけ
ガラガラガラガラ。
- 三、
- しょうじきじいさん うすほって
それでもちを ついたれば
またぞろこばんが
ザクザクザクザク
- 四、
- いじわるじいさん うすかりて
それでもちを ついたれば
またぞろかいがら
ガラガラガラガラ
- 五、
- しょうじきじいさん はいまけば
はなはさいた かれえだに
ほうびはたくさん
おくらにいっぱい
- 六、
- いじわるじいさん はいまけば
とのさまのめに それがいり
とうとうろうやに
つながれました
3番では犬を殺すところが省かれ唐突に臼が出てくるが、幼年唱歌ゆえの配慮であろうか。また「ポチ」という名は民話には出てこないので、この歌で名がついたと思われる。
それではこの民話に登場する「花咲じいさん」や「意地悪じいさん」、「白い犬」、「宝」、「がらくた」、「大木」、「臼」、「灰」、「枯れ木」、「花」、「牢屋」は一体何を譬えているのだろう。先の本の一節を紹介する。
- 花咲じいさん
- それではこの地上には、どこにも幸福の宝はなく、われらは永遠に幸福の青い鳥をとらえることはできぬのであろうか。いな、そうではない。この地上に幸福の宝がないのではない。求め方が間違っており、われらが幸福と思って探してゐたものと、真実の幸福とは違っていたのである。幸せの青い鳥は山の彼方や海の底に住んでゐるのではない。幸福の宝は大地の中に深く宿されてゐるのである。ここほれわんわん、花咲じいさんのつれてゐた「ぽち」は、おじいさんが悲歎にしずんでゐると、いつもそういっておじいさんに力ずけてゐる。「ここ」とは、山のふもとか畑のすみか、どこかの特定の場所かと思ったら、そうではない。いつでもおじいさんの立ってゐるそこである。われらが幸福になれる宝は、どこかの路ばたに転がってゐるものでもなく、幸福の花はどこかの山奥に咲いてゐるのでもない。われらの立ってゐる足元に宿されてゐるのである。こことはいつでもわれらの立ってゐるそこであり、今日只今である。
なに! 幸福は足元にある? いくらほって見ても、ちょっとも出て来ない。宝らしいものはどこにもありはしない。出て来るものはだだぐちや不平の石や瓦ばかりだと、いじ悪じいさんはいう。だが、それは幸福の正体が解らず、その求め方も間違ってゐるのである。いじ悪じいさんは幸福の宝が欲しさに、そこらを手当たり次第に、無茶苦茶にほってゐる。少しほって見て、石ころに行き当たったといっては止め、労[つか]れたといっては止める。すべては気まぐれであり、遊び半分である。またほることは、幸福の宝を得るための単なる手段に過ぎぬ。随ってほることはいやいやであり、仕方なしである。彼の生活は倦怠そのものである。そんな所に幸福が見つかるはずがない。もしそこに見つかったとすれば、それは幸福をよそおった恐ろしい麻薬であり、自己を破滅におとしいれる毒虫である。
花咲じいさんは、口の先や手の先で世を渡ってゆく、いわゆる世渡り上手な人から見れば、馬鹿正直といわれる部類の人であるかも知れぬ。だがそれだけまたそのこと一つに命をかけることができる正直そのものである。正直は何よりも自己をいつわらぬことであり、「まこと」に忠実であることである。それは曇鸞大師いわれる「己を外にする」ことであり、宮沢賢治のいう「自分をかんじょうに入れぬ」心であろう。正直じいさんはそこに宝が埋ってゐるか、幸せが待ってゐるか、そんなことは全く頭にはない。ただぽちが「ここほれわんわん」と教えるから、声のままに一くわ一くわに力をこめてほって行ったのである。そうしたら思いがけぬ幸せの宝がそこにあったのである。まことに無我の生活、虚心の行によってのみ、自分もそして周囲も、幸せの花につつまれる。幸せは求めるものではない。自然に与えられるものである。しかし「たなからぼた餅」式に、ねておって果報は来るものでもない。ただまごころの自然[じねん]に与えられる自然[しぜん]のほうびである。
- 二つの愛
- もちろん正直じいさんも幸福を求めておらぬのではない。だがいじ悪じいさんの求めてゐた幸福とは、その内容が違う。いじ悪じいさんの求めてゐた幸せというのは、実は幸せになる材料であって、幸せそのものではない。この世に幸せの宝が二つある。一つは幸せになれる材料としての宝、一つは幸せそのものの宝である。前のは仮の宝であり、後のは真[まこと]の宝である。仮の宝はたといそれがあったから、手に入ったからといって、それだけでは決して幸せにはなれない。またたとい手に入っても、失われはせぬかという不安がいつもある。なければ困るし、あればあって困る。時にはそれがあれば幸せでおられるが、時にはそれがあるために却って不幸せになる。それだけではない、仮の宝にはいつも恐ろしい副作用がつきまとう。名誉も財産も、物も力も、学問も才能も、美貌も健康も、すべてこの仮の宝である。
真実[まこと]の宝は、それさえあればいつでもどこでも幸せであることができて、決して不幸せになることのない宝である。
いじ悪じいさんの求めた宝は仮の宝であり、正直じいさんの求めた宝は真の宝である。仮の宝は求めずして偶然にあたえられるか、さもなくば求めてゆく向うにあるものである。けれども真の宝は決して偶然にあたえられるものではなく、自らの手によって産み出し、造り出すものである。また求めてゆく向うにあるものでもない。常に求めてゆく一歩一歩の足下[あしあと]にあるものであり、求めてゆくそのことの内にあるものであり、身についたものである。正直じいさんは幸せを得ようとして、幸せを得たのではない。ただ一くわ一くわを楽しんで行ったのである。一くわ一くわを楽しむ、そこに幸せの花が自然に咲いたのである。
随っていじ悪じいさんの求めた幸福は、財産とか名誉とか、健康とか美貌とかという所にしかない幸福であるが、正直じいさんの求めた幸福は、貧乏の中にも病気の中にも、順境にも逆境にも、いつでもどこにでもあるという幸福である。その真の宝とは、もちろんものでもないが、また知識でもない。それはただ智慧であり徳である。どんなものでも楽しめる心である。あらゆるものの中から尊いものを見出すことの出来る智慧であり、常に他と共にある徳である。こういう打ち出の小槌が手に入りさえすれば、不幸せのどん底にあっても、その打ち出の小槌をふりさえすれば、いつでもどこでも、そこに幸せの花が開くのである。われらの祖先は自らの生活体験を通して、真の幸福の花は、ただ無心に自らの立ってゐる足下をふみしめて、一歩一歩を楽しんでゆく所にある。それがためにはこの人生は外の誘惑、内の誘惑にみちてゐるのであるから、常に「ここほれわんわん」と教えてくれる「ぽち」をつれておらねばならぬと、人生の門出に当って生活の指針を、ねもの語りに、われらに教えてくれてゐるのである。「ここほれわんわん」と教えるぽちとは、南無阿弥陀仏のことである。
島田幸昭著『極楽』上巻 より
以上を味わっていただけば感動とともに譬えの内容は解ると思うが、蛇足ながらまとめさせていただくと――
- 花咲じいさん
- 真実の呼び声に素直に応じ、正直にまごころで生きている人。順境にも逆境にも、人生の一歩一歩のうちに楽しみや尊いものを見出す智慧を得、常に人々から信頼される徳を身につけている。仏教で言えば、覚りを開いた正定聚・不退転の菩薩や真実信心者のこと。
- 意地悪じいさん
- 口八丁手八丁で一見世渡り上手なのだが、嘘つきで真心なく、順境ばかり追うためかえって逆境に弱くなり、心が定まらず迷走する人。幸せを彼方にばかり求め、他人を嫉[んで他人の功徳を横取りし、幸せになる材料や条件や手段ばかり追っているうち、何が本当の幸せか解らなくなった人。仏教で言えば、迷妄を脱しない不定聚・邪定聚の人のこと。
- 白い犬
- 真実が先祖代々の真心を通して形をあわわし名を示し、自らのうちに顕現した教法のこと。常に人々に宝のありかを示して覚りに導く。「白」は「白法」「清白の法」「白道」のように善を意味する。(「白」はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり)
- 宝
- 彼方ではなく、人生の一歩一歩のうちに見出される真実の宝。仏教でいう功徳や覚りや幸せそのものを象徴している。努力して後に宝を得るばかりでなく、努力そのものが一番の宝となるため、常に今ここで私自身が受領することができる(参照:{「今、私が、ここにおいて」の具体的な内容は? })。
- がらくた
- 仏教でいう雑善のこと。幸せを彼方にばかり求め、他人の手柄を横取りし食い散らかしているうち、肝心な今の自分自身を忘れ、足元にある宝がガラクタに変ってしまったことを譬えている。努力そのものを宝としないため、宝は一瞬で過ぎ去り、生活は倦怠[のガラクタで満ちている。
と理解できるだろう。
前節によってこの民話の基本は領解できたが、まだ「大木」、「臼」、「灰」、「枯れ木」、「花」、「牢屋」等の意味は明らかになっていない。島田師の言葉もここまでである。したがって残った課題は各自の領解に基づいて明らかにすると良いのだが、一応私なりの理解を示すので批判があれば正しておいてほしい。
- 大木
- 意地悪爺さんは他人の手柄を横取りして宝を得ようとするが果たせず、嫉妬に狂って犬を殴り殺してしまう。これは、心定まらぬ者にとっては真実の法が疎[ましくて仕方がないことを譬えている。歴史的に言えば、暴君や圧制者による廃仏毀釈[は常のことであり、身近な例で言えば、真実を求めずごまかしの人生を歩む者は善なる行為を褒めず、わざと誤解して行者を責め、真実の法を蔑ろにしがちなので、そうしたことを白犬の殺生で譬えているのだろう。それでも正直爺さんは意地悪爺さんを責めず、人類全体の宿業として悲歎しつつ事実を受け入れる。犬の亡骸[を墓に埋めるのはこれを言うのだろう。続いて、犬の亡骸の上に一本の木を植えると木は一日で大木に育つ≠ニいうのは、真実の教法はいくら誤解を受け破壊されても、様々に形を変え、また顕現し、速やかに大木に育つことを象徴している。また仏教では「樹木」は「行」を象徴している(参照:{道場樹の願} {『仏説無量寿経』14})。様々な妨害に遭っても迷わず、仏法に根ざした行に励んでいれば、それこそが普遍的な大成果ということを表しているのだろう。
- 臼[
- 臼は日常生活を譬[えている。真実の教法がいくら尊くとも、大木のままでは役立たない。そこで白犬はお爺さんの夢に現れ臼[を作るように勧めるのである。木を切り臼を作って餅を搗[くつくというのは、永遠真実の法が日常生活の場にまで降りてくることをいうのだろう。つくたびに大判小判の金貨がザクザクと出たというのは、実際に教法が日常生活の場で具体的な智慧となって役立つものであること、功徳を生み出す教法であることを象徴する。
- 灰
- 灰は仏教においては灰身滅智[や無余灰断[を象徴している。これは「無余依涅槃[のさとりに入って心身共に全く無に帰させること」であり、小乗仏教ではこれを最終目標とする。しかし大乗仏教では――「灰身滅智の無余の証なれども、二万劫尽きてまた心を生ず」とあり、また「そういうさとりは個人的であり、完全な人間の救いにはならない。人間は人と人との関係の中に生きているものである。その人間としての人格を完成することこそ大切なことであると、自らの人格を高め、人生を創造するその人を正定聚といい、その理想的人間像を、五十二段の仏とした」(参照:{必至滅度の願})ため、灰になった≠ナ話は終わらない。
- 枯れ木
- 枯れ木は老体・老境を譬えている。そもそも正直爺さんも意地悪じいさんも老い先は短く、この世での希望を無くしかけているので、それを枯れ木で表している。
- 花
- 人間としての花が開くことを花に譬えている。青春は若さの花が開き、壮年期は仕事の花が開くが、本当の人間としての花が開くのは老年期である。人生の花が開くことを仏教では荘厳というが、太陽も夕日の頃が最も美しいように、人生を終えようとする最終期が実は人間として一番輝いている時期だ。西田幾多郎博士は、「愛宕山入る日の如くあかあかと 燃やし尽くさん残れる命」と感動的な歌を残されたが、正直爺さんも老境においてまごころの花≠ェ咲き、人生を荘厳することができた。これを枯れ木に花が咲く≠ニ表現しているが、正直爺さんはいよいよ「花咲か爺さん」となり、殿様はじめ大勢の人たちから賛辞が贈られ、心安らかに最期を迎えることができる。
- 牢屋
- 枯れ木に花が咲くことは正直爺さんを見て解ったが、意地悪爺さんの人生は全て借り物の人生であったため、語り継ぐような智慧や功徳はさらになく、死を前にただ絶望に打ちひしがれている。またふと見渡せば、今まで貯めた金品ももはや使い道はなく、欲張りで意地悪だったため他人はよりつかず信用もない。それでも俺の人生を語っておこう≠ニ皆を集め人生訓を一節ぶってみたが、これも他人の受け売りであることは近親者はお見通しである。灰を撒いても花は咲かず殿さまの目を傷めるだけで罰を受ける意地悪爺さんのように、借り物の人生で過ごした老人の言葉など誰も耳を貸さず、鬱陶[しがられ馬鹿にされて心に傷を負う。子や孫にまで見捨てられ俺の人生は一体何だったのか≠ニ歎くような、味気ない閉塞的な老境を牢屋に譬えているのだろう。
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