還浄された御門徒様の学び跡 |
善導大師は、「定はすなはち息慮凝心なり」。
つまり息を凝らし心の動きを停止し、妄念をはらい、妄想を絶ちすべてを 一点に凝集させることといわれました。
善は善根であり、善=行でもあります。
したがって精神を一点に集中して行う行、それが定善である。と霊山勝海先生は「観無量寿経に学ぶ」の中で解釈されている。
観無量寿経は仏身を観想する、一心に念じて仏を観じ、如来を観ずる行を十三の観法として釈尊は説いておられます。日想観であり水想観であり真身観等であります。
この十三通りの観法が定善である。「仏の姿を観じ、仏の心をいただく」、ことであります。
散善とは、定善に対する言葉であり、「定」は精神を集中させる行であるのに対し、散漫な心で行う仏道であり、行であり、それによって浄土に往生できる道を散善と呼びます。
無量寿経で「三輩往生」が説かれています。
観無量寿経には九品の往生の行が示されています。
観経の十六種の観法のうち、第十四観(上輩観)、第十五観(中輩観)及び第十六観(下輩観)の三種の観法が散善にあたります。
無量寿経 | 観無量寿経 | |
---|---|---|
上輩観 | 第十四観 | 上品上生 上品中生 上品下生 |
中輩観 | 第十五観 | 中品上生 中品中生 中品下生 |
下輩観 | 第十六観 | 下品上生 下品中生 下品下生 |
前掲したように、この三種の観法を説かれるはじめに、「一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず」とあります。
ご開山聖人は、三心を二つにわけて、定善の三心、散善の三心とされているが、定善の三心とは、心を統一、精神を統一して乱れることなく、至誠心・深心・回向発願心でもって往生浄土を願うことである。とすればわたしたち凡夫がそのようなこころを持することは、はなはだ難しく、不可能である。やはり私たちには、散善の心しか保てないのであるとすれば、そこには散善の三心が示されることになる。
しかもわたしたちは、どのようにしても清らかな心は持ち得ない「悪性さらにやめがたく、蛇蠍(だかつ)のごとき心」の、「虚仮不浄(こけふじょう)のもの」なのである。
仏の教えに遠く離れているものに、このようにして心から浄土を願いなさい、そのようにすれば浄土に必ず生れますよという方便の道として自力のおしえをといてゆかれたことである。
十悪五逆の悪人が救われて行く念仏の教えこそ、私たちのために釈尊が特にこの経(無量寿経)を後の世に遺された慈悲が満ち満ちていると思われることである。その真の教えにいざなう方便の教えが観経の表面的な教えであり、真実
の道は第十八願のこころなのである。(隠彰顕彰の意)
定散諸機格別の
自力の三心ひるがへし
如来利他の信心に
通入せんとねがふべし
『浄土和讃』 (八一) 観経讃 「観経」意
[←back] | [next→] |