平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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事物が事物として現される理由は何ですか
なぜ今、存在しているのでしょうか目に見えるものであろうと
なかろうと、なぜそれが在るのでしょうか一番初めの存在とはどういう存在なのでしょうか
最終的に目的となっている事とは何なのでしょうか、どこから始まったのでしょうか、その理由とは
なんなのでしょうか、私とは周りとは一体そのすべての存在の根源はなんなのでしょうか
そもそも最後に到達する目標というものはあるのでしょうか
なにを目指して生きるべきなのでしょうか、結局は完全に洗練され永遠の至福にいたる事が目標なのでしょうか
それは本当に永遠なのでしょうか、それともそういうものも個が付け足した満足感なのでしょうか
いったいどういうように生きればいいのでしょうか
すべての始まりと最終地点とはどういうものですか
どうか教えてください
存在の有無や意義について、存在の根源や始まりについて、最終地点とは何か、というご質問ですが、仏教では「戯論を廃す」ということが基本にあります。ですからもし、知識上の興味で質問されてみえるのであれば、ここでお応えする必要は無いと考えます。 釈尊もそのような問いには同じ態度でありました。戯論に固定的な回答を与えれば迷信に堕してしまい、時として人を害する思想になってしまうからです。実際、こうした悪思想によって、破壊的カルトや宗教戦争などの多くの悲劇がおきています。
しかし、もしこれらの事柄が、ご質問者にとって「切羽詰った問い」ということでしたら、真摯に受け止め、お応えする必要があるでしょう。直接お会いしておりませんので確認できませんが、同じような事柄に悩む人もみえるでしょうから、「こうした問いに切羽詰って悩んでいる人が居る」という前提で、以下お話させていただきます。
上記についてもう少し補足しますと、たとえば有名な一休宗純の逸話で、「屏風に描かれた虎を捕えてみよ」という謎かけに対し「捕えますから、屏風の中から虎を出して下さい」と答えた、という話があります。この逸話が事実かどうかということはさておき、この問答は、仏教の範疇、つまりは宗教の範疇、ひいては「人が本当に問わねばならない物事」についての範疇に、重要な示唆を与えてくれます。
屏風に描かれた虎は、捕まえる必要はありません。危険ではないし、第一、自他の人生に関わってくる問題ではないからです。しかし、虎が本当に目の前にいたり、その危険性があるなら、捕まえたり身を守る手段を考えなければならないでしょう。「戯論」とは、屏風に描かれた虎を捕まえる手段を問うことであり、仏教はそうした戯論を厳しく廃しているのです。
このようなことは初期の経典にも登場します。
『マッジマ・ニカーヤ』
また西洋でも、たとえばトルストイが『人生論』の中で、水車と川のたとえ {※資料1▼ 参照} を用いて警告していますように、考察の目的が考察すべき順序を決定するのであり、その肝心な目的は、正しく自分の人生をよりよくするものである、という意を述べています。
「事物が事物として現される理由」や「すべての始まりと最終地点とはどういうものですか」という問いを追求しても、大概は堂々巡りに陥ります。さらには、誰かがこうした問いに無理やり答えを出すことがあり、それを皆に信じ込ませるようになるとまさに洗脳であり、この縛りから抜け出せなくなる可能性があります。なぜなら、生きとし生ける者にとって、これは自他の人生に直接関わってくる問題ではないので確認のしようが無く、確信を持った論者に対しては反駁する術が無いからです。
人は時としてこうした形而上の問題に悩む事があります。そしてこうした問いが、学習を促したり充実した人生を送る縁となったりもしますが、逆に学習の障害になったり人生を棒に振るきっかけになってしまうこともあります。
この違いがどこにあるのか分かる、ということが、実は、ご質問にお応えする以上に重要なことであり、また事実上、頂いたご質問にお応えすることにつながるのです。
金子大榮師は、「相手の問いに答えてはいけない。問いの中に答はある。相手の問いを深めてゆけ」と述べてみえました。ですから、ご質問にお応えする以前に、またそれ以上に、「なぜこのような問いに悩むのか」ということを問うことこそが答えを導き出す最良の手段だろうと思いますので、まず問いを深めていくところから始めたいと思います。
存在の有無や意義について、存在の根源や始まりについて、最終地点とは何か、などの疑問が、切羽詰った真剣な問いになるということは、<目の前に展開されている現実に手ごたえが感じられない>ということであり、<現実がただ素通りしていくだけで、生きている意味が見出せない>ということではないでしょうか。知識上の興味ならいざしらず、真剣に問わねばならないということは、「生きている生まな現実に意義を見出せない私がいる」と、叫んでみえるように感じます。
結論から先に申しますと、宇宙的・根源的な規模をもつ思想や考察も、全てこの中に解答があるのです。この中に含まれないあらゆる考察は、人生の考察としては意味をなしません。思考が空回りしているだけです。
私たちは、かつてのどの時代より多くの情報を得る手段を持っていますが、過剰で雑多な情報が飛び交い、生身の痛みや喜怒哀楽が希薄になってきています。つまり、自らの身心が明確な目的を渇望せず、情報が目標を失って空回りしているのです。
先人たちが必死に生きつつ求めたものは、身心に刻まれた「娑婆」とか「堪忍土」といわれる苦難の現実に光をもたらす方法であり教えでした。自らの苦悩のうちに解決すべき問題を数多く抱えていた先人たちは、ここを起点として正しく歩むべき道を求めたのでしょう。この自らの問題の解決を求める姿勢が大切なのです。
これは、かつて 釈尊が「天上天下唯我独尊」という意を述べられ、『涅槃経』には「自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず」とあり、臨済義玄は「随所に主と作れば、立処皆な真なり」と述べ、『碧巌録』には「大凡そ宗教を扶竪せんには、須らく是れ英霊底の漢なるべし」と記されている通りです
({モラルについて} 参照)。
もう少し抽象的な言い方をすれば、「無限円の中心は無数に存在する」ということです。哲学的な問題も肉体的な問題も、この場(事柄)に居る私が世界の中心なのです。そして、あらゆる場はすべてこうした中心性を持ちます。中心に居ないものは何一つ無いのです。ですから、この中心の場に居る私の問題は、中心性をもった全ての問題でもあるのです。「中心性をもった問題」こそが人生や生命の問題なのです。しかし、私が中心の場に居ないような考察は、自他あらゆる問題に対しても無益なのです。
生命について考える時でも、何者によっても引きかえることのできない私、代役不可能な中心性をもったいのち、という視点を持たなければ、宗教でさえ戦争の道具に成り果ててしまうのです。
時間についても、「今」こそが世界の出発点であり、同時に最終地点でもあります。いずれ「完全に洗練され永遠の至福にいたる」という夢や理想を描いても、今ある現実を否定している中では人生がどんどん痩せ細ってしまいます。
「過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ」と『中部経典』にあるように、過去は過ぎ去ったものであり未来はまだ到っていませんので、「今」という一瞬のみが本当に存在する時間なのです。ただし、その「今」の内容は過去の因縁全ての最終地点であり、同時に「今」が起点となって未来の全てが始まるのです。今に至らない過去はありませんし、今を経験しない未来はありません。「今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものです」と 島田幸昭師が述べてみえる通りです。
また、生きとし生ける者、一瞬先のいのちは分りません。私もご質問者も、明日生きている保証は無いのです。ですから、私がこうしてご質問にお応えしている今こそが私の最終地点であり、この文章も私の最終地点であります。 浅原才市同行が「臨終まつことなし/いまが臨終/南無阿弥陀仏」と詠まれている通りでしょう。そして、今から歩む次の一歩こそ全ての始まりであります。今がすべての最終地点であり、そして始まりなのです。
ただし、「今」も「ここ」も、「瞬間」・「一点」のみでは日常生活に降りてきませんので、「今」は「一念」とか「一食」などという長さを想定し、「ここ」も私の関わる場(事柄)を想定して現実に力を発揮するのです。
このように、仏教では「いま、ここで、私が」という三つが重なった問題を考察するのであり、これに関連しない課題については考察しません。他を論じている時でも、常にこの課題に裏打ちされているのです。そうすると、「中心性をもった全ての問題は、結局私の問題である」という視点も開けてくるでしょう。世界中で起こっている人生や生命に関わるあらゆる問題は、私と無関係なものは一つもありません。手が届く届かないに関わらず、あらゆる問題が自らに問われている課題であり、私たちはその全てに無関心でいることはできないのです。
ですから、『涅槃経』にある「自灯明」は「法灯明」と一体であり、一切衆生一人一人が「唯我独尊」という引きかえることのできない生命そのものなのです。
念仏の教えで言いますと、「南無」とは「自灯明」であり私の成仏の問題、「阿弥陀仏」とは「法灯明」で一切衆生の成仏の問題、この機と法が一体となって「南無阿弥陀仏」の名号が成就し、成就したはたらきを私たちが生きるのです。
ただし、以上のことは、決して他の世界観を否定する論拠にするものではありません。あくまで自らの人生と社会を成就させる最も勝れた善なる智慧の導きなのであり、その智慧を私たちに勧められるのは、人生成就を果たされた先人たちの大慈悲の発露でありましょう。
もうひとつ、「諸法無我」といいまして、全てのもの(存在・非存在・相対・絶対にかかわらず)に固定的実体は無い、という世界観・基本的考察があります。この教えの重要なことは、「なぜそれが在るのか」という問いも、「すべての始まりと最終地点」という問題についても、固定的・実体的な解答は与え得ない、ということにあります。この「固定的・実体的な解答は与え得ない」ということは、「解答が無い」という意味ではなく、これは法執を避けつつ末通った永遠の教えとなる根本なのです。これを真の我とするのです。
以前、{空の概念と虚無の概念の違い} という中にも、「この世界のありようは、あるとかないとかでは捉え切れないということです。有でも無(虚無)でもない空がこの世界の実相である、あるいは有と無に先立ついわば「生成の世界」が空であって、そこから有と無がともに生まれてくる」と掲載しましたが、存在の理由を問う必要はなく、さらにいえば、存在の有も無も、断定すれば最終的には矛盾に行き当ってしまいます。
このことは、「最後に到達する目標」という課題に対しても同様です。「固定的・実体的」な解答は仮のものに過ぎません。しかし解答が無いのでもありません。
ジャン・エラクル師は、{十字架から芬陀利華へ} の中で、「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」と述べてみえます。この「真摯な求道」と「目的」は決して別々のものではないのです。種には芽や茎や葉や花に成る原因が含まれているように、出発点でありながらそこに最終地点が含まれている。未完成でありながら、そのままが完成なのです。
『雑阿含経』には、「善き友、善き仲間を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてであるのである」とあります。
{※資料2▼ 参照}
また、曇鸞大師は『往生論註』の中で、回向や方便ということを示して、「自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏する」と、常に願が未完でありながら、そのままが最終地点であることを示しています。これこそが、素晴らしい覚りの表現なのです。
{※資料3▼ 参照}
ですから、一般常識では仏教の最終地点は「覚りを得ること」と理解されていますが、覚りを求める心こそが全てなのであり、それを「無上菩提心」と顕しているのです。もちろんこの「無上菩提心」も「固定的・実体的」なものではありませんが、菩提心の内容を開いてみると、「願作仏心」(仏になろうと願う心)と「度衆生心」(衆生を
水車が唯一の生活手段であるような人間を想像してみよう。この男は、父も祖父も粉ひきだったので、粉を上手にひくには、水車をどう扱えばよいのかを、あらゆる部分にわたって、ききおぼえでちゃんと承知している。この男は、機械のことはわからぬながら、製粉が手際よく上手にゆくように、水車のあらゆる部分をできるだけ調節してきたし、生活を立て、口を糊してきたのである。
ところが、この男がたまたま水車の構造について考えたり、機械についてのなにやら怪しげな解釈を耳にしたりすることがあって、水車がどうしてまわるのかを観察するようになった。
そして、心棒のネジからひき臼に、ひき臼から心棒に、心棒から車に、車から水除けに、堤に、水にと観察をすすめ、ついには、問題はすべて堤と川にあることをはっきり理解するにいたった。男はこの発見に喜んだあまり、以前のように、出てくる粉の質をくらべながら臼を下げたり上げたり、鍛えたり、ベルトを張ったりゆるめたりする代りに、川を研究するようになった。そのため、彼の水車はすっかり調子が狂ってしまった。粉ひきは、見当はずれのことをしていると言われるようになった。彼は議論し、なおも川についての考察をつづけた。こうして、永い間ひたすらその研究をつづけ、思考方法の誤りを指摘してくれた人たちとむきになって大いに議論した結果、しまいには当人まで、川がすなわち水車そのものであると確信するにいたった。
彼の考えを誤りとするすべての論証に対して、このような粉ひきはこう答えるだろう。どんな水車だって水がなければ粉をひけない。したがって、水車を知るには、どうやって水を引くかを知らなければならないし、水流の力や、その力がどこかわわくかを知らなければならない、したがって、水車を知るには川を知らなければならないのだ、と。
論理的には、粉ひきのこの考察には反駁しえない。粉ひきの迷いをさましてやる唯一の方法は、どの考察においても大切なのは、考察そのものよりむしろ、その考察の占める地位であること、つまり、みのり多い考え方をするためには、何を先に考え、何をあとで考えるべきかをわきわえなければならぬということを教えてやることだ。また、理性的な活動が不合理な活動と区別されるのは、もっぱら、理性的な活動は、どの考察が一番目で、二番目、三番目、十番目はどれであるべきかといった具合に、重要さの順に応じていろいろの考察を配置する点であることも、教えてやらねばならない。ところが、不合理な活動は、この順序を持たない考察なのである。さらに、この順序の決定は、偶然ではなく、考察の行われる目的によるのだということも、教えてやる必要がある。
すべての考察の目的がこの順序をも決定するのであり、個々の考察が理性的なものになるためには、それらがこの順序に従って配置されなければならない。
そして、すべての考察に共通する目的に結びつかぬ考察は、たとえどんなに論理的なものであろうと、不合理なのである。
粉ひきの目的は、うまく粉がひけることである。だから、彼がそれを見落さぬかぎり、臼や、車や、堤や、川についての考察の、明白な順序や一貫性は、その目的が決めてくれるであろう。
<中略>
人が生命を研究するのは、生命がよりよいものになるためにほかならない。知識の道で人類を前に押しすすめる人たちは、まさにそのように生命を研究してきた。しかし、そうした人類の恩人や真の教師とならんで、考察の目的を放棄し、その代わりに、どうして生命は生ずるのか、なぜ水車がまわるのかといった問題を詮索する判定者は常にいたし、現在もいる。ある者は水のためだと主張し、他の者は構造のせいだと主張する。議論は白熱し、考察の対象はますます遠くへ押しのけられ、縁もゆかりもないさまざまの対象にすっかりとってかわられてしまう。
トルストイ 著『人生論』序 より
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、釈迦族のサッカラという村にあられたことがあった。その時、アーナンダ(阿難)は世尊のあらゆる処にいたり、世尊を拝し、世尊に白[もう]して言った。
「大徳よ、私どもが善き友、善き仲間を有するということは、これは、聖なる修行のすでになかばを成就せるにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「アーナンダよ、そうではない。そのような考え方をしてはならぬ。アーナンダよ、善き友、善き仲間を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてであるのである。アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘においては、八つの聖なる道を修習し、成就するであろうことは、期して俟[ま]つことができるのである。
アーナンダよ。このことによっても、それを知ることができるではないか。
アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。
『雑阿含経』27、726 より
おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
『往生論註』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈【105】 より
意訳▼
およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果 に向かわせることである。[
「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を摘 んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから[ 巧方便 と名づける。[
いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、つに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。
王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。
曇鸞著『往生論注』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈 より
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 に引用
意訳▼
王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂 め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。[
総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。