平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

モラルについて

どこに自信の裏付けを求めるのか

質問:

日本人の精神的レベルが低いと報道されています。

しかし、私はほとんどの人は、清らかな精神を持っていると思っています。
ただ、それに対する誇りを持てずにいるように思います。そして、自信のなさがモラルの低下を招いていると思うのです。自信があれば、恥ずかしい態度はとれないと思います。周りの目も、気になると思います。どうせ私は○○だから、という気持ちがモラルを低下させていると思います。

私は間違っているのかどうか。
そして、私に、社会に、宗教に何ができるのか、アイデアをいただきたいです。
よろしくお願いします。

返答

 このご質問は、まさに宗教の意を得た問いと言えましょう。真に宗教を論ずる場合、基本となるのは「いのちの尊厳」であり、その具体的な相を自他において見出す努力がなされなければ、現実に善法を展開することは適いません。

 さらに、「自信があれば、恥ずかしい態度はとれない」ということが、モラルにつながっていく方向性は大いに賛成です。ただし、この自信が机上の空論であっては、崩れた時は逆にモラルハザードに陥ってしまうでしょう。
 自信の裏付けをどこに求めるのか。「清らかな精神を持っていると思っています」という曖昧な期待だけでは、一生を通しての裏付け、また社会や国家や世界といった大きな問題を背負うことはできないでしょう。

◆ いのちの尊厳

 仏教では、「天上天下唯我独尊」と釈尊が宣言されて以来、<この尊厳をいかに各自に見いだし、その尊厳にふさわしい人生を創造していくか>を中心テーマに据えて活動し、経論釋が作成されてきました。例えば『涅槃経』(大乗)には「一切衆生悉有仏性(一切の衆生は仏性を有す)」と記され、「奇なるかな、人々はみな、仏の智慧と功徳をそなえている」とあらゆる人々を讃えられました。他にも――

 アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

『大パリニッバーナ経』より


随所に主と作れば、立処皆な真なり。境来たるも回換すること得ず。縦い従来の習気、五無間の業有るも、自ら解脱の大海と為る。

臨済義玄 著『臨済録』示衆 より

意訳:どんな所でも自分が主人公ならば、その場は真実の場となる。どんな境遇もそれを替えることは出来ない。たとえ過去の煩悩の名残や、大罪があっても、それこそが解脱の大海となってしまうのだ。


大凡[およ]そ宗教を扶竪[ふじゅ]せんには、、須[すべか]らく是れ英霊底[えいれいてい]の漢なるべし

『碧巌録』 第五則 雪峰尽大地 垂示 より

意訳:およそ宗教に真剣に関わるのは、当然ひいでたる人物であるべきである。

等、生きる基本が自律的な尊厳にあることを示しています。

 これは非常に重要なことで、他の宗教、特に西欧における宗教が、人間の存在を罪と定めていて、原罪の払拭に躍起になっていることと全く逆なのです。詳しい道理はここでは省略しますが、人間を「罪の子」と断定してしまったため、結果として今も宗教戦争が絶えない状況になっているのです。

 世間では「神仏のおかげ」といわれて、神と仏の区別がはっきりしていませんが、神と仏はどうちがうのでしょうか。
 神は原始の昔から人類の発生と共に存在していたようですが、仏といわれるものは、今から二千五百年昔、北インドに誕生したシッタルタ・ゴータマが、三十五才の時、ボダイ樹下において「天上天下唯我独尊」の自覚を得て、「我は仏となった」といった。それが初めてであると聞いています。しかもシッタルタ(釈尊)その人が仏であって、自分以外に神も仏も必要としなかったのです。自らをあらゆる権威、あらゆる束縛から解放して、完全な独立者、自由人となることに成功したのです。これによって今までの「神あり」神を信ぜよという救済の宗教をくつがえして、「我あり」自らを信ぜよ、人間よ心の眼を開けという、自覚の宗教をうち立てたのです。この世始まってこのかた、あれだけ暴威をたくましくしていた神や魔も、完全にその王座から転落せねばならなくなったのです。何とすばらしい、何と痛快な大事業ではありませんか。人間にとってこれほど大きな喜びがどこにあるでしょうか。
 シッタルタの成し遂げたことは、インドという特殊な地域の民族宗教の革命に止まらず。まさに人間の解放であり、歴史の開眼ではないでしょうか。仏釈尊の誕生はそのまま人間の誕生であり、主権の大革命でしょう。
<中略>
 第一、神はその正体をたしかめる必要はありません。それどころか「神さまを見たら目がつぶれる」と、見ることを禁じられてさえいるのです。それは神になることを説くのではなく、神の「ご利益」にあずかる宗教だからです。しかし仏教は仏になることを教える宗教です。何はともあれ、まずその目的の仏とはどんなものかを明らかに示さなければならず、また「一切衆生悉有仏性」といわれる、私たちに本来具わっている仏になる可能性が、どのようにして開発されるかということを明らかにせねばならぬ道理でしょう。それにもかかわらず、そういう仏教にとって根本的な問題が、全く闇から闇に葬られているのは、今日の真宗が神の宗教に転化しているからではないでしょうか。
<中略>
 親鸞聖人は七百余年の昔、その当時の日本仏教界を歎いて、「五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」といっておられますが、今日の私たちも、もう一返このお言葉を、反省して見なければならぬのではないでしょうか。

島田幸昭 著 『真宗開眼 二十の扉』12 神と仏のちがいについて より

◆ 日本人の精神史を知ること

> 日本人の精神的レベルが低いと報道されています。

 さて、「日本人の精神的レベルが低い」という報道は確かに聞きます。戦後はマッカーサーの「精神年齢12歳」発言が有名ですが、現在、政治経済等の分野で改革を阻む要素として、精神的レベルの低さを挙げる声もあります。
 しかしこの報道を鵜呑みにすることはできないでしょう。日本の歴史は確かに問題も多いが、素晴らしい人間や文化を産み出してきた事実を無視できません。ただし現在、「問題も多い」という事実を受け入れ改革する熱意が枯渇しているのも事実です。これはどこに原因がるのでしょう。

 まず指摘したいのは、<今の日本人の精神状況は日本の歴史に根ざした場にない>ということがあります。こうなったのが戦後なのか、経済成長以降なのか、景気破綻以降なのか、それとももっと以前からなのかは定かでありませんが、まるで切花のように軽やかで清潔そうで、しかし根の無い刹那的な趣を感じます。歴史の土臭さを捨てて見た目は良いのですが、大きな課題を背負ったり、苦境になると脆くも倒れてしまいそうです。逆境に正面から向きあうには、先人たちの智慧を体得した上で、新たな課題に挑戦しなくてはなりません。いくら「清らかな精神を持っている」とか「誇りを持とう」と言っても、日本の歴史、特に日本の精神の歴史を知らなくては抽象論でしかありません。とりわけ、言葉に根ざす深い心を知ることなく、時流に流されているだけの人が多すぎます。

 例えば「すみません」という言葉ひとつとっても、これには深い意味があります。人からされたことを受け入れ、心を無駄にせず、自己と他人に感謝を広げてゆく、「このままでは済みません」「済ませません」という実に積極的な言葉であって、謝るだけの意味ではありません。
 また、他人の好意を「ありがとう」と受け入れるのですが、これは「当たり前ではない」、文字道理「有り難い」多くの縁が施されていることに気付いた言葉です。
 さらに「おかげさまで」という言葉がありますが、これは、自分が努力したことでも、その奥に自分の努力の何十倍・何百倍という縁が整って為されたのだ、という深みに気付いた言葉です。「陰」に隠れて見えないが、私の現在立つ場も私を支え励まして下さっている。その土壌に生き生きと根を生やしてこその成功でしょう。表だけでは分からない世界に先人たちは頭を下げたのです。
 これらは、一見現在の問題とは関係ないような事柄ですが、皆が改革に邁進しようとする際、「どこにその熱意の根源を見いだしていくのか」と問われた時、隠れた根が見えないのでは熱意が長続せず、ひとときのブームに終ってしまいます。「自信を持とう」と思っても、すぐに化けの皮が剥がされるようなところに根拠を置いても適いません。日本の歴史に深く根ざしたところから改革が為されなければ本物ではないでしょう。

> 私はほとんどの人は、清らかな精神を持っていると思っています

 「清らかな精神」は、言わば「生まれたての心」や「無垢な心」を言いますが、年齢を重ねれば当然「汚れた心」や「悪業」の問題と相対していかねばなりません。もともと無垢であっても、今の状況が無垢でなければ過去を誇っても仕方ありません。愛情も深くなればなるほど憎悪を増すように、生きるということはすべて矛盾を抱えた行為なのです。この純粋な心と、それと相反する心も同時に見て、深く思惟を重ねることで、そのどちらにも執着しない一本の道が見えてくる。その道を勇気をもって進んで行かれたのが過去の仏教徒であり、多くの日本人でした。単なる勧善懲悪でない文化が日本の中で展開していたことを、今の日本人は知っているのでしょうか。

◆ 他のいのちにも見いだされる自信

> どうせ私は○○だから、という気持ちがモラルを低下させていると思います。

 このご指摘は重要です。「どうせ私は・・・」と歎いた途端に、全ては朽ち果ててしまいます。逆に「かけがえのない私・・・」と驚いた時に、本来の私が生きてくるのです。そして「だからこそ・・・」と逆境さえ順境に転じる行動を起こすことになります。

 しかし、「どうせ」と歎かせる要素が社会には多すぎます。職種や民族や国籍などで劣等感を持つ人もいるでしょう。「どうせ私は劣等生だから」、「どうせ私は不細工だから」、「どうせ根性なしだから」、「どうせ女だから」等という言葉は私に重く覆い被さり、それを真に受けて落ち込む人もいるでしょう。さらに、開き直って言い訳に使うこともあるでしょう。挙句は「どうせ親が・・・」、「どうせこんな社会だから・・・」と、最初から問題解決を断念する人もいます。

 相対的な劣等感を押し付けられると、多くの人々は歎くしかありません。そして、ほんの一握りの人のみが優越感に浸れますが、その幸せを維持することが、他人を押しのけ踏みつける行動につながりかねません。競争することは大切ですが、相対的な評価を絶対化することは避けるべきでしょう。互いに敬う中でこそ競争が生きてきます。

> 私に、社会に、宗教に何ができるのか、アイデアをいただきたいです

「かけがえのない私」と自覚するためには、どうしても自分だけで覚ることはできません。特に、人々を踏みつける環境の中では中々適いません。絶対的なはたらきに出遭ってこそ自覚できるのです。そしてそれを、<心の奥底から湧き出てくるはたらき>として、喜びを伴って自覚できてこそ本物といえるでしょう。仏教徒はまさにその歓喜地を当面の目標とします。そして念仏者は、阿弥陀如来の誓願を聞き、法蔵菩薩の修行を世界に見開いていくことで身に満たしていくのです。
 (ご本願を味わう 参照)

 本当の自信は、他のいのちにも見いだされる自信であるべきでしょう。そうした智慧で見いだされた深い底に安心できる時、自信が他への慈悲となって世界に広がっていくのではないでしょうか。

たとえば、蓮華は清らかな高原や陸地に生えないで、むしろ汚い泥の中に咲くように、大きな我見を起こすものでこそ、はじめて道を求める心も起り、悟りもついにうまれるであろう。

『維摩経』


汚い身体の中にも、穢れた煩悩の底にも、仏性は蔵されている。

『涅槃経』


法蔵とは
どこに修行の場所があるか
みんな私の胸のうち
なむあみだぶつ

(栃平ふじ)


浄土は、苦しみと迷いの世界からの逃避ではありません。阿弥陀仏の救済活動に参加することを意味します。

(至徳.A.ペール博士)


自分自身の深いところに仏さまの根をもっておるということを教えるために、『大無量寿経』に、法蔵菩薩ということを教えてくだされたのである。

(曽我量深)


“見えない”労働に対して、敏感になれるかなれないかが、成熟した社会へ移行できるかどうかのわかれ目になるのではないだろうか。

(増田れい子)


どんな人間でも助かる法でなければ自分自身は助からない

(大河内了悟)



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