平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
[index]    [top]
【仏教QandA】

法無我と仏の存在は矛盾する?

― 大乗の法は声聞・縁覚の二乗に堕ちることを避ける ―

質問:

1.龍樹菩薩は中論で空を人法二無我として説いていますが、一方、易行品で諸仏と念仏及び六波羅密を説いています。法無我の立場にたてば、仏の存在と仏への一心を説くのは矛盾していませんか?更に慈悲についても、空とどのような論理的関係を持つのでしょうか?小川一乗先生が、天親菩薩が唯識の立場で無の有として、仏の実体化をしたために仏教がインド古来のヒンズー教に埋没する契機となったと言うのはわかる気がしますが。

2.ついでに論注で曇鸞大師が世親の浄土教を龍樹菩薩の空思想から捉えなおしたと言われる所以は何でしょうか?前問との関係で教えてもらえると有り難いのですが。

返答

 無為の涅槃は常楽我浄

「法無我の立場にたてば、仏の存在と仏への一心を説くのは矛盾していませんか?」ということですが、法無我の立場に固執してしまえば、それは現実には声聞や縁覚の悟りに堕してしまうことになります。これは「地獄に堕ちるより悪い結果をまねく」と、さかんに警告されています。

「声聞」はもともと釈尊在世当時の弟子たち(舎利弗や阿難など)をさし、その最高位を阿羅漢[あらかん]といいます。しかし後に、ひたすら教えを守って自己の解脱のみを目的とする小乗の聖者たちの意味になり、これに対して大乗仏教では厳しい批判を加えています。
 これとは対照的に、阿弥陀如来は自らの成仏と衆生を成仏せしむるはたらきが同時であり、これが信心として私たちに回向される菩提心なのです。ですから、正しく浄土の経典等を学び真実信心を得る者には声聞はいない(声聞に留まることはない)のです。

 また「縁覚」は、師につかず自分勝手な解釈に満足して聖者を自認する者のことで「独覚」ともいいます。彼らは人々との関わりを避け、いつしか慚愧・懺悔の心を忘れ、変革すべき我執が残っていても「私は世の中をこう解釈しているんだ」と、孤立した世界観に満足している人間のことをいいます。大乗仏教ではこれは利己的態度であるいう点で厳しく批判を加えています。
 阿弥陀如来は、因位の時に法蔵菩薩と名乗り、世自在王仏のみもとにおいて師をほめ称えられ、浄土建立の基礎を学ばれました。念仏にはこの功徳が込められていて、信徒は常に慚愧・懺悔の中で正しく浄土の経典等を学び、人々と語りあうことができますので、真実信心を得る者には縁覚はいないのです。

 大乗仏教においては、この「声聞・縁覚の二乗に堕ちることを避ける」ということを一番の問題とせねばならないのです。この前提はよくよく心得ておいて下さい。
 ですから、法無我の立場に固執せず、仏の存在と仏への一心を説くことが大切なのです。あらゆる立場に立ててこそ、菩薩は菩薩足り得るのでしょう。仏教にいう「論」は、往生論註にも説明がありますが方程式や物理の法則や他の道の論とは異質のものなのです。

 また、『般若経』や『中論』にある空の内容を行じる人は堅固な志を持つ者であり、「不惜身命」を誓っている、ということが前提にしてあります。

もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。

『十住毘婆沙論』巻第五 易行品 第九【2】 より

意訳▼(意訳聖典 より)
もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。

 ここでも不惜身命という命がけでせねばならない理由が、やはり「声聞・縁覚の二乗に堕ちることを避けるため」と示されます。難行道は単に修行が難しいばかりではなく、この声聞・縁覚に堕る危険が非常に大きく、一たび堕れば二度と仏に成る道を断たれるからこそ不惜身命を誓わないといけないのです。ちなみに申しますと、この声聞・縁覚は現代の宗教界にも実に多く存在していますので、具体的に思い当たる節の人もあるのではないでしょうか。もっと言えば、念仏に出会っていない人々は容易に声聞・縁覚に堕る可能性があるともいえます。

 易行品ではこの後に、難行と易行の区別を紹介し、信方便の易行をもって速やかに不退転の位に至る道が示されます。この中で仏を憶念し仏への一心が説かれるのですが、方便だからといっても本質が変わる訳ではありません。仏が我々の常識的な判断で確認できるような存在ではない、ということは本質上注意しなければなりません。ただ、本質論にとらわれ方便を見下していると、結局は本質も方便も失ってしまいます。{※資料1▼ 参照}
 方便こそが、現実に平等を生み、我執を破く力となるのです。

 まだ常識的な判断しかできない私たちにとっては、まず如来の願いの確かさを聞き、また願いの成就のいわれの確かさを聞かねば、仏縁はむなしく滅びてしまいます。この私と世界のために言葉となり教えとなって下さった如来の心を信じさせていただいて、すみやかに無上菩提心を起こさなければ、覚りに至る道は閉ざされてしまいます。如来は常識的な意味の存在ではありませんが、確かなはたらきとして肯かざるを得ない状況、つまり真実信心に至って後、ゆっくり振り返って法無我ということを確認すれば良いのです。

 また、[空の概念と虚無の概念の違い]に説明しましたように、無我ということも空ということも無前提に「真理」にしてしまえば、思想は腐り果て人生を歩む邪魔になるだけです。

 さらに親鸞聖人は『涅槃経』を引用され――

如来にすなはち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり。

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 真門釈 引文【59】 より

意訳▼(現代語版 より)
如来には二種の涅槃がある。一つには有為[うい]の涅槃であり、二つには無為[むい]の涅槃である。有為の涅槃は常楽我浄の徳をそなえていない。常楽我浄の徳をそなえているのは無為の涅槃である。

大乗の涅槃は無為の涅槃であり、功徳は無我にとどまってはいないことを明かされます。

 阿弥陀仏の浄土に往生したいと願う人は、難行道では仏になる道を断たれた声聞・縁覚の人も、正しく浄土の経典等を学べばすぐに真実信心を得、浄土の功徳により大乗の菩薩として正定聚・不退転の位に至り、やがて八地以上の平等法身を得ることができます。この八地以上の平等法身を得るためにこそ龍樹菩薩や天親菩薩のように特別に優れた菩薩でさえ、なお阿弥陀仏の浄土に生まれることを願われたのです。

 『往生論註』について

「更に慈悲についても、空とどのような論理的関係を持つのでしょうか?」から「論注で曇鸞大師が世親の浄土教を龍樹菩薩の空思想から捉えなおしたと言われる所以は何でしょうか?」までの質問ですが、これらに完全に答えを出すためには、辞典なみの本を書かなければなりません。そこで充分ではないかも知れませんが、論註にある文章を少し紹介いたしますので参考にして下さい。

 ところで、「天親菩薩が唯識の立場で無の有として、仏の実体化をしたために仏教がインド古来のヒンズー教に埋没する契機となった」と言われるのは、方便で用いたものを固定化し、実体であると誤まって判断したことから起こったことです。『浄土論』なども、そうした誤った考えで理解すれば、すぐに外道の教えになってしまうでしょう。実は、日本における浄土教の理解は、多分にこうした実体化や固定化に汚されて続けてきました。

 親鸞聖人はその名の通り、天親菩薩と曇鸞大師の教えに本当に出会い、法名を変え、宗名も「浄土真宗」とされたのですが、その理由がこの『往生論註』との出会いにあります。法然上人がひたすら善導大師を仰がれたのに比べ、宗祖は実践面では師に従いますが、浄土や如来・菩薩の本質面の理解については主に曇鸞大師を仰がれました。

天親菩薩のみことをも
鸞師ときのべたまはずは
他力広大威徳の
心行いかでかさとらまし

『高僧和讃』 曇鸞讃(三一)

 誤解されていた『浄土論』を般若の思想に照らして、仏・浄土の固定化や実体化を避け、浄土の本当の意味を説かれたのが曇鸞大師です。親鸞聖人は大師を「宗師」と仰ぎ、『浄土文類聚鈔』においては「菩薩」とさえ称えて仰がれていました。ただしこれは、天親菩薩が間違っていたのでも、龍樹菩薩の思想と合体して『往生論註』ができたという意味でもありません。天親菩薩は龍樹菩薩の真意が分かっていた上で『浄土論』を書かれたのですが、曇鸞大師は理解不足の人々のために、龍樹菩薩の易行品や般若を持ち出されたのです。これによって浄土が本来のはたらきを取り戻したといえるでしょう。

『往生論註』では一番最初に『十住毘婆沙論』が引用されていますが、この部分だけではなく、全般的に浄土を実体化したり固定化することを避け、また自分が楽をするためだけに念仏することや自分勝手な解釈を批判しています。これは先に言いました「声聞・縁覚の二乗に堕ちることを避ける」ためです。

【104】   かくのごとくして巧方便回向を成就す。
 「かくのごとく」とは、前後の広略みな実相なるがごとくとなり。実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知れば、すなはち真実の帰依を起すなり。慈悲と帰依と、巧方便とは下にあり。

『往生論註』巻下 解義分 善巧摂化章

【105】   何者か菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、いはく、説ける礼拝等の五種の修行をもつて、集むるところの一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに、一切衆生を摂取してともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願するなり。
  これを菩薩の巧方便回向成就と名づく。

 王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

『往生論註』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈

【106】 障菩提門とは、
   菩薩かくのごとくよく回向を知りて成就すれば、三種の菩提門相違の法を遠離す。なんらか三種。一には智慧門によりて自楽を求めず。我心の自身に貪着することを遠離するがゆゑなり。
 進むを知りて退くを守るを「智」といふ。空・無我を知るを「慧」といふ。智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着することを遠離す。

【107】   二には慈悲門によりて一切衆生の苦を抜く。衆生を安んずることなき心を遠離するがゆゑなり。
 苦を抜くを「慈」といふ。楽を与ふるを「悲」といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに衆生を安んずることなき心を遠離す。

【108】   三には方便門によりて一切衆生を憐愍する心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離するがゆゑなり。
 正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を 憐愍する心を生ず。外己によるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離す。
  これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。

『往生論註』巻下 解義分 障菩提門章

意訳▼(聖典意訳 七祖聖教 上 より)
【104】  是[か]くの如[ごと]くにして巧方便回向[ぎょうほうべんえこう]を成就す。
 「是くの如く」というのは、前の三厳[さんごん]の広[こう]も、後に出した一法句[ぽっく]の略も、みな実相[じっそう]である。その所観[しょかん]の実相と能観[のうかん]の心とが不二になることである。実相に達するから、三界の衆生の実相にそむくすがたを知る。衆生の実相にそむくすがたを知るものだから、これを救おうという真実の慈悲をおこす。真実の法身すなわち実相を知るものだから、菩提を求めようとする真実の帰依をおこすのである。その慈悲と帰依と巧方便とは下に示されてある。

【105】  何者か菩薩の巧方便回向[ぎょうほうべんえこう]なる。菩薩の巧方便回向とは、謂[い]わく(さきに)説ける礼拝等の五種の修行をして集むる処[ところ]の一切の功徳善根をもって、自身の住持[じゅうじ]の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲[おも]うが故なり。一切衆生を摂取[せっしゅ]して、共に同じく彼の安楽仏国[あんらくぶっこく]に生ぜんと作願[さがん]するなり。是れを菩薩の巧方便回向成就と名づく。
 王舎城[おうじゃじょう]において説かれた《無量寿経》のうえを考えてみると、往生を願う上・中・下の三類の人の中で、その修行には優劣があるけれども、いずれもみな、無上菩提心[むじょうぼだいしん]すなわち他力の信心をおこさないものはない。この無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度[さいど]しようとする心である。衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂[おさ]めて仏のまします浄土に生まれさせる心である。こういうわけであるから、かの安楽浄土[じょうど]の往生を願う人は、かならず無上菩提心すなわち信心を起こさねばならぬ。もし人が、この信心をおこさずに、ただかの浄土の楽しみを受けることが絶えまのないということを聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うような者は、また往生はできぬのである。そこで、「自身の住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲うが故なり」といわれたのである。「住持の楽」とは、彼の安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によってたもたれて、楽しみを受けることが絶えまがないということである。
 およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果[ぶっか]に向かわせることである。
 「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を摘[つ]んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便[ぎょうほうべん]と名づける。
 いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、つに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。

【106】  障菩提門というのは、
  菩薩は是[か]くの如[ごと]くよく知り回向成就[えこうじょうじゅ]すれば、即ち能[よ]く三種の菩提門相違[ぼだいもんそうい]の法を遠離[おんり]すべし。何等[なんら]か三種なる。一つには智慧門[ちえもん]によりて自楽[じらく]を求めず、我が心自身に貪着[とんじゃく]するを遠離する故なり。

 菩提の道に進むことを知って、二乗[にじょう]の自利に堕ちることから身を守るのを「智」といい、諸法[しょほう]は空無我[くうむが]なりとさとるのを「慧」という。その智によるから自分の楽しみを求めず、慧によるから我が心が自分に執着することを遠く離れるのである。

【107】  二つには、慈悲門[じひもん]に依[よ]りて一切衆生の苦を抜き、無安衆生心[むあんしゅじょうしん]を遠離[おんり]する故なり。
 苦しみを除くのを「慈」といい、楽しみを与えるのを「悲」という。慈によるから一切衆生の苦しみを除き、悲によるから人を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。

【108】  三つには、方便門[ほうべんもん]に依[よ]りて一切衆生を憐愍[れんみん]する心をもって、自身を供養恭敬[くようくぎょう]する心を遠離[おんり]する故なり。
 正直にして偏[かたよ]らないのを「方」といい、己[おのれ]を先とせぬのを「便」というのである。この偏らない正直によるから、すべての衆生をあわれむ心を生ずる。己を先とせぬから自分を利養[りよう]し愛重[あいちょう]する心を遠く離れるのである。
  是れを、三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。

 実相を知ったがゆえに実相を知らない衆生に真実の慈悲を起こす、それは菩提心を求めようとするところに帰依する、ということです。この無上の大信心は「自分が仏になろうと願う心」つまり願作仏心であり、これはそのまま「衆生を覚りに導く心」つまり度衆生心です。これは、念仏が「法悦」のような自慰行為ではなく、自らの功徳を「一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして」用いる心であり、「自分の身を後にしてしかもその身が他の衆生よりもさきに成仏する」ために方便というのです。

 智慧というのは、「智」とは声聞・縁覚の二乗に陥ることを避け自分の楽しみを求めないこと。「慧」とは空無我を覚り自分に執着することを遠く離れることをいいます。これはそのまま「一切衆生の苦しみを除き、人を安らかにすることのない心を遠く離れる」慈悲の心となります。それは「偏らない正直」な心ですべての衆生をあわれみ、「己を先とせぬから自利愛重の心を遠く離れる」という「方便」につながるのです。これほど見事に「方便」の真意を現わされた言葉は他にあるだろうか、と思えるほど見事な解釈でありましょう。

【109】   順菩提門とは、
  菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の菩提門に随順する法の満足を得るがゆゑなり。なんらか三種。一には無染清浄心なり。自身のために諸楽を求めざるをもつてのゆゑなり。

 菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求むれば、すなはち菩提に違せり。このゆゑに「無染清浄心」はこれ菩提門に順ずるなり。

【110】   二には安清浄心なり。一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑなり。
 菩提はこれ一切衆生を安穏にする清浄処なり。もし心をなして、一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめざれば、すなはち菩提に違せり。このゆゑに「一切衆生の苦を抜く」はこれ菩提門に順ずるなり。

【111】   三には楽清浄心なり。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑなり。衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑなり。
 菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめざれば、すなはち菩提に違せり。この畢竟常楽はなにによりてか得る。大乗門による。大乗門といふは、いはく、かの安楽仏国土これなり。このゆゑにまた「衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑなり」といへり。      これを三種の菩提門に随順する法の満足と名づく、知るべし。

『往生論註』巻下 解義分 順菩提門章

意訳▼(聖典意訳 七祖聖教 上 より)

【109】  順菩提門[じゅんぼだいもん]というのは、
  菩薩は是[か]くの如[ごと]き三種の菩提門相違[ぼだいもんそうい]の法を遠離[おんり]して、三種の随順菩提門[ずいじゅんぼだいもん]の法満足するを得[う]る故[ことがら]なり。何等[なんら]か三種なる。一つには無染清浄心[むぜんしょうじょうしん]、自身の為に諸楽[しょらく]を求めざるを以ての故なり。

 菩提は、染[けが]れのない浄らかな境地である。もし自分のために楽しみを求めるならば、それは菩提にそむくであろう。こういうわけであるから、汚れなき清浄心は菩提に順ずるのである。

【110】  二つには安清浄心[あんしょうじょうしん]、一切衆生の苦を抜くを以[もっ]ての故[ゆえ]なり。
 菩提は一切衆生を安穏[あんのん]にする清浄な境地である。もし心を用いて一切衆生を救うて生死の苦しみを離れさせなかったならば、すなわち菩提にそむくであろう。こういうわけであるから、一切衆生の苦しみを除くのは菩提に順ずるのである。

【111】  三つには楽清浄心[らくしょうじょうしん]、一切衆生をして得[え]しむるを以[もっ]ての故なり。衆生を摂取[せっしゅ]して彼の国土に生ぜせしむるを以ての故なり。
 菩提は、この上なき常住安楽[じょうじゅうあんらく]の境地である。もしすべての衆生に最上の常住安楽を得させなかったならば、菩提にそむくであろう。この最上の常住安楽は何によって得るのかといえば、大乗に至るの門によるのである。その大乗に至るの門とは、すなわちかの安楽の仏の世界がこれである。こういうわけで、また「衆生を摂取して彼の国土に生[しょう]ぜしむるを以ての故なり」といわれたのである。
  これを三種の随順菩提門の法満足すと名づくと知るべし。

 ここでは、障菩提門を裏から明かすという形で順菩提門そのものが説かれます。つまり先に菩提心をさまたげることを離れる、ということが説かれて、次に菩提心に順じる「無染清浄心」・「安清浄心」・「楽清浄心」が説かれるのです。「無染清浄心」は、身のために楽を求めない心、「安清浄心」は一切衆生を安穏にする清浄な境地、「楽清浄心」は一切衆生を捨てない心であり「大乗に至るの門」すなわち弥陀仏の浄土に往生せしむる心です。

【112】  名義摂対とは、
  向に説く智慧と慈悲と方便との三種の門は般若を摂取し、般若は方便を摂取す、知るべし。

 「般若」といふは、如に達する慧の名なり。「方便」といふは、権に通ずる智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずればすなはちつぶさに衆機を省みる。機を省みる智、つぶさに応じてしかも無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省みる。しかればすなはち智慧と方便とあひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動の静を失せざることは智慧の功なり。静の動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、般若は方便を摂取す。「知るべし」といふは、いはく、智慧と方便とはこれ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法、すなはち成就せずと知るべしとなり。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにする時は、すなはち顛倒に堕す。もし方便なくして法性を観ずる時は、すなはち実際を証す。このゆゑに「知るべし」といふ。

【113】  向に我心を遠離して自身に貪着せざると、衆生を安んずることなき心を遠離すると、自身を供養し恭敬する心を遠離するとを説けり。この三種の法は菩提を障ふる心を遠離す、知るべし。
 諸法におのおの障礙の相あり。風はよく静を障へ、土はよく水を障へ、湿はよく火を障ふるがごとし。五悪・十悪は人天を障ふ。四顛倒は声聞の果を障ふ。このなかの三種の不遠離は、菩提を障ふる心なり。「知るべし」といふは、もし障ふることなきことを得んと欲せば、まさにこの三種の障礙を遠離すべしとなり。

『往生論註』巻下 解義分 名義摂対 より

意訳▼(聖典意訳 七祖聖教 上 より)
【112】  名義摂対というのは、
  向[さ]きに説ける智慧と慈悲と方便との三種の門は般若[はんにゃ]を摂取[せっしゅ]す。般若は方便を摂取すと知るべし。

 「般若」とは平等の一如をさとる慧[え]の名であり、「方便」とは差別の事相に通ずる智[ち]をいうのである。平等一如に達すれば、心のはたらきが寂滅[しずか]である。差別の事相に通ずれば、くわしくあらゆる機類[きるい]をよく知る。あらゆる機類を知る智は、よろずの機に応じつつ、しかも無分別平等である。一如をさとった静かな慧は、また無分別平等であって、しかもくわしくあらゆる機をよく見る。そうであるから、智慧と方便とは互いに縁[よ]って動[どう]であり、たがいに縁って静[じょう]である。あらゆる機類を救う活動をしながら、しかも一如を見る静けさを失わぬのは智慧の徳であり、一如を見る静かな智慧であって、しかも衆生を済度する活動をやめないのは方便の力である。そこで、そこで智慧と慈悲と方便とは般若を摂[おさ]め、般若は方便を摂める。「知るべし」といわれたのは、智慧と方便とは菩薩の父母であって、もし智慧と方便とに依[よ]らなかったならば、菩薩の修行の法が成就できないことを知るべきであるということである。なぜかというと、もし智慧がなくて衆生のために動くときは、それは迷いに落ちてしまう。もし衆生済度の方便がなくして、偏[かたよ]ってただ真如法性[しんにょほっしょう]を観[かん]ずるのみならば、それは二乗[にじょう]と異なることのないさとりを證[しょう]する。こういうわけであるから、「知るべし」というのである。


【113】  向[さ]きに説ける「我が心自身に貪着[とんじゃく]するを遠離[おんり]する」と「無安衆生心[むあんしゅじょうしん]を遠離する」と「自身を供養恭敬[くようくぎょう]する心を遠離する」と、この三種の法は菩提[ぼだい]を障[さ]うる心を遠離するなり。
  知るべし。

 ものにはそれぞれさまたげる相がある。風はよく静かになることをさまたげ、土はよく水の流れをさまたげ、うるおいは火のもえるのをさまたげ、五悪・十悪は人[にん]・天[でん]の果[か]を受けることをさまたげ、無常・苦・無我・不浄を常・楽・我・浄とあやまる四顛倒[してんどう]の考え方は、声聞[しょうもん]の果[か]をさまたげるようなものである。ここに挙げた三種の心を離れなかったならば、これは菩提をさまたげる心である。「知るべし」というのは、菩提のさまたげのないことを得ようと思うならば、この三つの障碍[しょうげ]を離れねばならぬということである。

 ここにおいて、智慧と慈悲と方便と般若の関係が明らかにされます。智慧の「智」とはあらゆる機に通じる方便であり、「慧」とは平等一如をさとる般若です。智慧と方便は互いに縁って現実に力を発揮し、しかも一如を見る静けさを失わないのです。それぞれに尊い意味を持ちながらも、それ一つだけでは完全には力を発揮できず、時として破綻を招きますので、互いに縁ってはたらくのです。智慧と慈悲と方便と般若が関係を結んではじめて菩提心に順じたはたらきができるのです。
 ですから、「智慧と慈悲と方便とは般若を摂め、般若は方便を摂める」と説かれるのです。もし智慧と方便とに依らず、真如法性を観ずるばかりでは、菩薩の修行の法が成就できないし、「声聞・縁覚の二乗に堕ちることを避ける」という大乗の法を実行できません。

 以上、一例をあげてご説明させていただきましたが、往生論註の「願生」について(不一不異の道理)や、往生論註「願生」について 2(有限の身に満たされる無限の功徳) にも同様の内容について触れておりますので参考にして下さい。

 聖典等資料

※資料1

自然法爾の事
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
 弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
  正嘉二年十二月十四日 愚禿親鸞八十六歳

『親鸞聖人御消息』(14)


▼意訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社 より)
自然法爾ということ
 自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。然とはそのようにさせるということであります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。
 言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。
 如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。
 阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)