平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
仏教は自覚の宗教というイメージがありまして、宗派ごとに特異な行法があります。
真宗では絶対他力を主張していますが、具体的に救いを目指してどのような勤行をしているのでしょうか。
ただ、お経を読んで感謝の祈りをしているのでしょうか。(キリスト教に近しい関係?)
そうであるなら、誰でも家中で実践できるわけであり、態々、教団としてサンガを作らなくても成立していけると思うのです。
要は、個々の心の持ちようを毎日の習慣・勤行(報恩感謝の祈り)をとおして変容(生かされていることに気づかせていく)させようというのが真宗の狙いなのかと考えていますが、どうでしょうか。
ひとつひとつのご質問について、文章としては間違っていない部分でも、大まかにとらえすぎてきちんと分析されていない点が気になります。そこで、重箱の隅をつつくようですが、質問文を詳細に検証することによって答えを導き出していこうと思います。
〉 仏教は自覚の宗教というイメージがありまして、宗派ごとに特異な行法があります。
「仏教は自覚の宗教というイメージがありまして」という言葉は、間違いではありませんが、イメージではなく、まさに「仏教は自覚の宗教」なのです。このコーナーで前回、〔仏陀自身への帰依は否定しながら、三宝に帰依する訳〕 にも書きましたが、運命は自らを頼りにし自ら責任をもって切り開く他に道はないことを、釈尊は「自灯明」という教えで示されました。
釈尊以前の宗教は、「人間は愚かで価値のない者であり、絶対者はその愚かで価値のない罪人を救う」という信仰でした。それは、あるものに絶対服従したり、ご機嫌を損ねないようにしたり、決められた契約を守ることによって救われる教えです。
しかし釈尊は、歴史上初めて「天上天下唯我独尊」と人間存在の尊さを宣言され、この自覚の上に仏教は成り立ってきているのです。これが仏教の大前提です。
ただ、この人間存在の尊さに目覚めた眼は、同時に、生命の尊さを蔑ろにしている現実の五濁悪世の有様を自己自身に観ることになります。この五濁悪世に生きる衆生に、覚りを求める心(菩提心)を発こさしめることが覚った者の勤めでありましょう。阿弥陀如来はこの難事業を成し遂げていく主体であり、釈尊はこの精神を現実に転じた歴史上の先達なのです。
また、「宗派ごとに特異な行法があります」と書かれてみえますが、自覚を得るための方法が様々にあることを意識されてみえるのだと思います。しかし行法の違い以上に、目指すべき真理についての認識にも違いがある、と知っておかねばなりません。
私が本気で仏教を聞きだした十七、八の頃には、講師は「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を観むる」と、自力の禅宗も他力の念仏も、道は違ってもさとりは一つと説き、村人もそれに同調して、仏教もキリスト教も、宗教は皆究極の真理は一つであるといっていた。
しかし宗教を求める動機が違い、道が違えば、さとりも違う。
原始仏教が問題にしたことは、生死からの解脱、苦悩の解決で、その道は迷いを転じて「涅槃」の「悟り」を開くことである。その人は煩悩を断って、自己の独立を成し遂げた「アラカン」である。
初期の大乗仏教は、この世は形ある滅びて行く仮の世界であるとして、永遠に滅びることのない「法性真如」の世界を求めて「智慧と慈悲」を兼ね備えた「仏」を「覚り」とした。
後期の大乗仏教の『華厳経』は、人生が苦であろうが、無常であろうが、私たち人間にとってはさらに問題ではない。人間は未完成である。人間自身を完成することこそ一大事である。その完成の道は「人は人によって初めて人になる」と、五十三人の師に育てられて、「智慧と徳」を成就した「仏」になることを説いている。
親鸞が真実の宗教と称えた浄土教の『大無量寿経』は、さらに一歩を進めて、人間完成の道は人によるだけではない。「人は環境の産物である」と、自分がそこに置かれている歴史的現実に立って、主体的人間と環境を創造して止まぬ「無量寿国」の土徳の「四十八の願力」に乗じて、創造的世界の創造的前衛である「不退転の菩薩」となることを説いている。
これを見ても求道の動機が何であるかが、如何に大切か解るであろう。
島田幸昭 著 [仏教のさとり(八葉通信4号)]より
この文は言い得て妙ですので2・3度引用しておりますが、行の違いは方法の違いというだけではなく、目指すべきさとりにも違いがあるということ。またその違いが世界観の違いとなって現われていることにも注意しなくては、教えを誤解することになってしまいます。
〉 真宗では絶対他力を主張していますが、具体的に救いを目指してどのような勤行をしているのでしょうか。
〉 ただ、お経を読んで感謝の祈りをしているのでしょうか。(キリスト教に近しい関係?)
「真宗はキリスト教(特にプロテスタント)に近い」という見方は、実はキリスト教側が勝手に誤解したものです。聖書のみに救いを見出した彼らの教えは、一見すると弥陀一仏に帰命する真宗と同様の印象を(特にカソリックの信者は)持ったのでしょう。また実際、真宗門徒や、下手をすると僧侶までこの誤解に惑わされている場合がありますので、注意しなければなりません。
浄土真宗でいう「他力」は「如来の本願力」であり、決して天地創造の神の力ではありません。仏教では神の存在を否定も肯定もしておりませんが、創造された(もしくは自ずと形造られた)天然自然の世界に無自覚に従うのは弱肉強食を肯定する畜生の生活であり、この無明性を脱却することこそ仏教の目的なのです。
この無明の大地に、無上真実の願いを打ち建て、新たに自覚覚他の世界を成就する道を示したのが『大無量寿経』で、この願いの真実性に肯き、願成就のいわれを聞き開き、如来の真実義を理解し領解し体解することが、念仏の行者の勤め(勤行)でありましょう。この道に完成はありませんが、完成を目指して歩むことが念仏人生の成就なのです。
また、お経を読むのは、如来のお心を学び知るためであり、称名念仏は、仏心が常に私たちの生活に入り満ちていることを覚らせていただく行なのです。もちろん、私たちの覚りには限界があり、如来のお心は称え尽くすことはできません。しかし例えば、無称光というのは称えることができない智慧というのではなく、称えても称えてもさらに称える言葉が後から後から湧き出してくる、という事実であるように、私たちは領解させていただく分は覚りを得ているのであり、領解を言葉などで表現することで自他に明らかになり、やがて皆が如来と同等の覚りを得ることが期待され、確固とした金剛の信を味わうことになるのです。
さらに、私が感謝していようがいまいが、如来の願力は私の心に入りつつ現実の苦難を乗り越え、さらに新たな地平を提示するはたらきがあります。ですから、こうした私の奥底で立ち上がった主体的な私は、「他力」としか言いようがない深い心なのです。この心は、地下水のように普ねく衆生に遍満していながら、それを汲み取る術を知らない人には、味わうことが難しい境涯なのでしょう。
〉 そうであるなら、誰でも家中で実践できるわけであり、態々、教団としてサンガを作らなくても成立していけると思うのです。
仏・法・僧の三宝が一体となっていない法は真実の法ではありません。仮に三宝の別を説くことはありますが、サンガとして集いを持たない教えは現実に力を発揮できません。現実に力を発揮できない教えは声聞・縁覚の二乗に堕ちる教えであり、それは大乗の精神からいえば「地獄に堕ちるより悪い結果をまねく」と警告されています。
これは、衆生とともに迷っていれば、いずれ大乗の菩提心を起こすことが期待されるのですが、個人的な二乗の道に入った者は、迷っている衆生を軽蔑し、大乗の菩提心から遠く離れてしまうからです。(〔法無我と仏の存在は矛盾する?〕 参照)
〉 要は、個々の心の持ちようを毎日の習慣・勤行(報恩感謝の祈り)をとおして変容(生かされていることに気づかせていく)させようというのが真宗の狙いなのかと考えていますが、どうでしょうか。
入門者のある日一日の心境としては否定しませんが、入門した後もこのままの状態に留まっているのでは、念仏に出遭った甲斐がありません。実際、門の近辺にばかり人が集まり、法の奥深さを求める人が少ないので、他の人が不審に思い、宗門が廃れ始めているのかも知れません。
本当は、讃仏偈にもあるように、奥深い真理の世界を究めつくし、限りない深遠な真理を体得しておられる如来のお姿を追い、迷える衆生を済度し、諸仏を供養しながら仏の道を求めて進む、という願いに肯いてゆくべきであり、その願いが私の願いとなって至り届いていることに気づくべきでありましょう。
大乗の菩提心や浄土回向の菩提心は、感謝で終る道では決してありません。如来の悲願である「五濁悪世に浄土を建立し、一切衆生に浄土の功徳を振り向ける」という大事業に参加する道が見えてこなくては、念仏のお心をいただいても本物ではありません。それでは浄土に往生したと思っていても辺地(つまり自我の念に閉じた浄土)であり、つぼみの中に隠れて仏を見たてまつることができません。
自力の修行者は、往相の三昧を経験し覚りを開いてから還相に入るのですが、如来回向の信心を得た行者は、往相の菩薩のまま還相の菩薩のはたらきを持ちます。煩悩具足の凡夫という自己の無明を歎きつつ、この歎く心が如来の心であると知れ、ここにおいて世の無明を破く如来のはたらきが私の信念として立ち上がってくるのです。
南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には
還相回向に回入せり
往相回向の大慈より
還相回向の大悲をう
如来の回向なかりせば
浄土の菩提はいかがせん
『正像末浄土和讃』51・52
さらに言いますと、「生かされていることに気づかせていく」ということと「他力」と同義に見る人は多くいますが、これには大いに問題があります。こんな事は浄土三部経や教行信証のどこにも書かれていません。
「生かされていることに気づかせていく」ということは、ひとつの気づきとしては重要でしょう。人は一人では生きていけませんし、空気や水がなければ一瞬もいのちを留めることはできません。しかし、「生かされている」だけでは生に隷属している状態であり、気づきがあっても行はありません。しかもその生かされている場は弱肉強食の畜生世界の影響を受け、衆生はそのままでは餓鬼の状態を脱していませんから、結局、「無明の地獄世界に生かされている」状態なのです。
この地獄世界・五濁悪世に生かされている私が、如来の本願に出遭うことで、見失っていた本来の我が確立され、無上菩提心が回施され、如来真実の心が種として宿り、誠として身に満ち、やがて仏世界に報われた人間関係を社会に実現させていくことができるのです。これが本当に「生かされて・生きる」ということなのでありましょう。「生きる」がないまま「生かされている」では、「自灯明」さえ失った人生といえましょう。
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
『高僧和讃』結讃 118
「真宗の狙い」というのは、それぞれの行者の領解の中にありますので一概に結論を言うことはできませんが、<如来回向の菩提心を身に満たし、正定聚・不退転の菩薩として諸地の行を現す活動をさせていただくことにある>というのが今の私の領解です。
親鸞聖人は「身」という言葉を度々使われますが、単に心の救いのみを求め、法悦にひたりたがる私たちに、「現実に生きるこの身をこそ問題としなさい」というお示しであろうと思われます。そして身を問題にするとは、家庭や社会に浄土の功徳が実際に反映されているかどうかを問題にすることであり、無明の業の歴史を転じ浄土の業の歴史を創造することを目標としている現われではないでしょうか。
〔浄土真宗の教え〕 に、如来の本願について、また教学について詳説してありますので、参考にして下さい。