平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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真宗では、何も出来ない私であっても、どうぞ助けて欲しいと、「南無阿弥陀仏」を称える。称名念仏すれば、必ず助け取ると誓われた第十八の願をひたすら拠り処として、仏の絶対他力を頼みとしている。
@ 上記を確認するために自己の世界に読み替えてみました。下記
ここでは寺の同朋社会としましたが、会社でも町内会でも同じこと。
A 私見としては、上記の18願の読み方では人に、特に集団に迷惑が及ぶと思います。
下記の読み替えで説明すれば、ただお寺の名を念ずれば足りることとなり、布施も寺の行事参加などの善は要にあらずとなる。これは金もいらないし楽でよい。現代の人は18願が解っている人が多いのかお寺とは接触しない、淋しいことですね、お寺へ来て一緒に話しましょうよ。
しかし、お寺の集団としてはそんな現代人はて゛きれば門徒からはずれてほしいのでは。
会社社会ならばリストラの対象となる、町内会なら村八分の人間になることとなる。会社および其の仲間にとって善となることをしたくない口だけというような人はリストラですよね。
18願を信じたためにリストラ、村八分という新たな「苦」が生まれてしまった。
布教師のお坊さんよこの責任とってくれよ。「それは親鸞様がおしゃつたから」なんて責任転嫁しないでね、あなたは仏の喜ばれる真の仏弟子なんですから。
「群生を教化して、五悪を捨てしめ五痛を去けしめ五焼を離れしめ、その意を降化して、五善を持たしめて、その福徳、度世・長寿・泥おん の道を獲しめん」と仏陀は言われている。
B 18願の心で諸善を修することが必要であるが、大事なことは諸善ではないか。
お寺で見かける仏前で「南無阿弥陀仏」を称え、10円を入れている土地持ちなんかどう思います。今日、10円ではお茶も飲めん。それでも本人は布施・報謝をしたと決めている。
現世では少なくとも口だけの人間は「苦」の贈り物があり、来世については仏陀のみぞ知る。
仏陀の言われる菩薩の諸波羅蜜を修することが足りなければ来世は輪廻して敗者復活戦に望めばよい。その敗者復活戦も何度でも用意されている。
以下は仏教2年生の浅学かつリストラ年代なる私の読み替え
十八 たとい私の寺の住職、仏を得んに、十方の門徒の人々、心を至し信楽して我が宗の同朋に生まれんと欲うて、寺の名と宗の名を乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。
十九 たとい私の寺の住職、仏を得んに、十方の門徒の人々、菩提心を発し、菩薩の諸波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)を究竟し、空・無相・無願三昧、不生不滅もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が宗の同朋に生まれんと欲わん。心が回転した時に臨んで、たとい門徒衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。
大経に曰く、宜しく自ら決断して、身を端しくし行を正しくし、益すもろもろの善を作りて、己を修し体を潔くし心垢を洗除し、言行忠信あって表裏相応すべし。
二十 たとい私の寺の住職、仏を得んに、十方の門徒の人々、寺の名と宗の名を聞きて、念をわが宗の同朋世界にかけ、もろもろの徳本を植えて、心至回向して我が同朋世界に生ぜんと欲せん。果遂せずば、正覚を取らじ。大経に曰く、汝等、ここに広く徳本を植え恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱精進にして心を一つにし智慧をもって転た相教化して、徳を為し善を立てよ。
以上ですがご指導お願いします。
十八願強調に疑問(再)
1月13日「掲示板」にご指導をお願いしたのですが「仏教青年Q&A」を記載漏れしていました。法話などで十八願が強調されることに疑問をもっています。
横超に18願に入るのが本当に仏の教えなんでしょうか。
仏はまずは19願、20願をやりなさい、それと同時に18願、17願にもなりなさいと教えてみえるのではないでしょうか。
「しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰す」(教行信証行巻68)なんかしたら仏が悲しむのでは。(リストラの対象人物でしかないかも)
仏は善根や功徳を修せよと言って見えても、これを無視して「努力せずに、何も出来ない私です、どうぞ助けて欲しいと、「南無阿弥陀仏」を称える。」、これどう思いますか。
あなたの人生の目的はお助けをうけることなんですか。
九品のいずれかには助かるかもしれないので地獄へは行かないとしても、これで菩薩になれるはずがないでしょうね。
双樹林往生は菩薩になれても、最初からなにもしなく称名念仏だけで善根や功徳を修しなく難思議往生した人は菩薩にはなれないと思うんですが。
私は皆さんと同じで仏の教えを少しでも身に付けたい、少なければ輪廻の中で続けたい。
次の「御文」などを法話でよく引用されるその心は何なんだろう。
「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすて て、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり」
17願から20願までは鶏と卵のようなものかもしれませんが、それならば17願から20願までは対等の評価となりますよね。
この馬鹿な奴に仏の教えの本当のところを知るヒントをお願いします。 合掌にて
掲示板に書き込んでいただいた通りの内容を転載しましたが、全体として、同感できる部分がある反面、基本的な誤りを解く必要を強く感じます。同感できる部分は煩雑になりますのでここで言及することは控え、真実信心について諸師や私の領解を交えてお話させていただきます。
さて、ご質問の前提として――
〉 真宗では、何も出来ない私であっても、どうぞ助けて欲しいと、「南無阿弥陀仏」を称える。称名念仏すれば、必ず助け取ると誓われた第十八の願をひたすら拠り処として、仏の絶対他力を頼みとしている。
ということを初めに書いていただきましたが、この部分で既に誤解の芽が顔をのぞかせているように感じます。失礼かも知れませんが、真実信心とは似て非なるものを感じざるを得ないのです。
この「感じ」というところですが、かつて妙好人の浅原才市さんが言われた次の言葉を思い起こします。
ちがうことは言うじゃない
このままとはちがいます
言葉はよいが胸に自力の根がのこる
はやくご縁にあいなさい
如来のご縁に本当に出遇えば、私の人生観はがらっと変る――と言いましても、別の人格になるのではなく、本来の私が底の底から立ち上がり、如来真実のいのちが私のいのちと重なり、如来真実の願いが私の願いとして添い遂げて下さる、ということが経験できるはずなのです。如来のいのちが私の中に根をはってはたらいて下さる。すると本当に大切なものが自ずと顕れてきますから、その大切なものを中心に生活を成り立たせていけば、現実に尊い価値を無限に生み出すことができるのです。
大切なものとは、<あらゆるいのちが肯定される心>とでも言いましょうか、しかし同時に、<あらゆる悪業とその積み重ねを見抜かれる眼>も持ちます。両面が同時に混乱せずに示されることで、私たちは現実社会で為すべきことを知ってゆくのです。つまり、<あらゆるいのちが肯定される心>を踏みにじることによって悪業が重ねられるのですが、その悪業をさらに<あらゆるいのちが肯定される心>が浄じていかれるのです。こうした経緯を私の人生といのちの歴史に学び、その徳を称え現わすことが生活の中心に据えられれば、自ずと周りに念仏の徳が広がってもいきます。
これは「正定聚不退転の位の菩薩」でなければ経験できない境涯なのですが、親鸞聖人はこれを「現生正定聚」と見抜かれ、如来回向の信心であり歓喜をともなうから誰でも生きている現在において経験できる(平生業成)、と経論の深い解釈と自身の経験から明言されたのです。
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
『高僧和讃』 結讃 (一一八)
ですから、「称名念仏すれば、必ず助け取る」という具体的な内容は、現実においては、<どんな悪世においても、たたえ尽くせぬ如来の功徳が念仏者の心身に満ちる>という境涯なのです。そしてこの境涯が死ぬまで続くことを如来は願われ、それを名号に込められました。私たちは「称名念仏」することでこの如来の悲願を日々刻々と味わい、我が苦悩の人生において願いが成就するのです。「称名」は「唱名」ではありません。「称える」というのは名に込められた仏の胸中を聞くことをいいます。名に託した如来のいのちや徳のいわれを聞き開くのです([諸仏称名の願] 参照)。そして同時に、この「如来」のいのちは決して絵空事ではない、ということも自分なりに理解できるのです。
如来のはたらきは「はかり知れない」のですが、そのはかり知れなさを「自分なりに領解」する。領解した内容は仏のいのちが種となったものです。そしてこの種が称名念仏・念仏を中心とした生活によってさらに心身に満ちてゆく、ということを通して、深く「如来のはかり知れなさ」を味わうことになります。さらに領解されていない仏の功徳も、既に私を含む一切衆生にふり向けられている、という真実を信じさせていただけるのです。はっきり理解できれば「信」ではなく「自覚」ですが、如来の慈悲や諸仏のはげましにより、自覚できなくても信じることはできるわけです。親鸞聖人が『正信念仏偈』で「たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」と譬えられたのも、そうした信の味わいだったのではないでしょうか。
また聖人は、「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに」と、果てしなく推される姿勢を貫かれました。
ある先師の言葉を借りますと、「生きてかいあり、死んで悔いのない」という「今日」、これが「必ず助け取る」の内容といえます。「生きてかいあり」が「正定聚不退転」の内容、「死んで悔いのない」が「滅度」の内容でしょう。そしてこの二つは、如来のはたらきを「現」と「当」、つまり「今」と「臨終」の二面に開いてあらわしているのですが、実は全く同じ意味であるということに気づく必要があります。「今は今であり、臨終は臨終」と別に思っているうちは、「必ず助け取る」の仏心を誤解していると言ってもよいでしょう。浅原才市さんは、「臨終まつことなし今が臨終」と味わわれました。私もこの文は遺言のつもりで書いています。
([必至滅度の願] 参照)
さらに言いますと、「何も出来ない私であっても」と最初に何気なく書かれていますが、ここを常識的に受け止めてしまって「どうぞ助けて欲しい」とたのめば、これはとんでもない自堕落な悪法になってしまいます。法然上人が『選択本願念仏集』を書かれて、それが誤解され、当時の仏教界において多方面より非難を浴びたことはご存知かと思いますが、浄土真宗を学ぶものが、当時の誤解と同じ過ちを繰り返していたのでは宗祖に申しわけが立ちません。私が今の浄土真宗全体に抱く危惧はこうした無策の放置にあります。如来からの呼びかけにじっと耳を傾け、仏意をたずね、行動にうつす、ということまで「何も出来ない」というのでは、仏縁は先細りになってしまいます。
聖人が『顕浄土真実教行証文類』を著されたのも、そうした常識的な視点の誤解を解くために、浄土経典の他に涅槃経や華厳経など多数の経や論釋を引用され、如来真実の教えが大無量寿経のいのちであることを証明されたのです。
「何も出来ない私」であろうが無かろうが、人間に生まれた以上、私は人間としてのいのちを全うするしか道はありません。これが仏道であり、その完成が仏です。しかし自分から計らって求めた心は自我煩悩に束縛されていて道を成すことが困難ですので、清浄無碍な仏法を聞き、理解し信じ実行するのです。これを「自灯明・法灯明」といいます。
特に『大無量寿経』に著された本願を学べは、覚りの智慧のはたらきが自ずと私を底の底からゆり覚まして下さいますので、この如来の呼びかけにお応えして道を歩むのです。そのためには、平生において「自策自励し常住を求める」、つまり自らつとめはげんで法を学び理解し、覚りの法と朋の成道を信じ、浄土の徳を社会に現わしていくことが肝心です。
これは「出来るか出来ないか」の問題ではありません、「するかしないか」の問題です。どこまでいっても完成はありませんが、完成をめざして如来とともに歩みを進める者こそが、正定聚・不退転の菩薩として諸仏よりたたえられ、諸仏の友として浄土のはたらきに参画させていただくのです。
浄土真宗を学ばれてみえる方々の中で、時々、どうしても正しい信心に結びついていかれない方をお見受けすることがあります。これは、教えを学ぶ基本的な姿勢が経典とずれているせいではないか、と推察するのです。衆生とともに歩むことなく大乗経典は読めませんし、浄土経典はなおさらです。
また、仏教は「仏の教え」である以上に「仏に成る教え」です。仏になるつもりの無い人は、いくら教えを学んでも絵に描いた餅を眺めているに等しく努力が実りません。スポーツ理論を学んだだけではそのスポーツが上手くなる訳ではないが、上手くなろうと努力する中では理論は力になるのと同じです。
そもそも仏になるとはどういうことでしょう。そして浄土とは何でしょう。また無辺際であるはずの阿弥陀如来の浄土が「西方にある」と示されているのはどういうことでしょう。
こうした問題を自分の課題としてとらえずただ理論を学んでも、砂上の楼閣を造るだけです。現実の荒波にのまれ社会悪の地震がゆすれば真っ先に倒れてしまいます。浄土真宗において、部分的にしろ、しばしば教学と現場が遊離している現状が指摘されますが、こうした事情が反映されているのかも知れません。
大乗仏教を学ぶ基本姿勢を表わしたものとして有名なものが『四弘誓願』でしょう。
衆生無辺誓願度 (衆生は果てし無けれども、誓ってみちびかんことを願う)
煩悩無数誓願断 (煩悩は量り無けれども、誓って断ち切らんことを願う)
法門無尽誓願学 (法門は限りなけれども、誓って学びとらんことを願う)
仏道無上誓願成 (仏道は極め難けれども、誓って成しとげんことを誓う)
『四弘誓願』(及び意訳)
この文言は『大乗本生心地観経』巻七にある内容に基いていますが、岡部和雄氏が短く解説をされてみえます――
菩薩は、自利をあえて犠牲にしても他の利益のために献身する(利他)。ちょうど船の艪[ろ]をこぐ船頭さんにたとえられる。彼は客を対岸の目的地に安全に送り届けることが仕事である。両岸の間を行き来するが、みずからは決して陸地にあがりきることはない。艪をこぐことが自利であり利他である。したがって菩薩はかりそめの安易な決心では目的を達成できないので、不退転の決意を固めなければならない。「弘誓[ぐぜい]の鎧[よろい]をきる」と言う。すべての菩薩が起こすべき誓願が、上にあげた四願(四弘誓願[しぐぜいがん])である。
何度も言いますが、大乗仏教経典を読む場合は大乗の菩提心を持たなければ読めません。浄土経典を読むには浄土の菩提心が必要となってきます ([浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?] 参照)。 衆生とともに歩む菩薩の心を持たずして成道はかないません。その元となる求道の初心が「四弘誓願」ですが、阿弥陀如来にとって「四弘誓願」に当る内容は『讃仏偈』に顕れています(▼資料1参照)。
師を称えながらも、師と同じように仏となり、一切衆生に大きな安らぎを与え、「たとえどんな苦難にこの身を沈めても、 さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」と結ばれていますが、これは本来私たちが起こすべき誓願を、私に先んじて明らかにして下さっている文言なのです。無明の闇に迷って苦に繋がれたまま道を求めても、真実の求道心を起こすことはできませんので、清浄真実な如来の誓願に導かれ自力の菩提心を捨て、如来よりわが心深くに回向された菩提心をよりどころとするのです。
また、浄土は、「無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいる」と、大経にあるように(▼資料2参照)、阿弥陀如来の本願が成就された功徳としてもたらされた世界であり、時空に特定された場ではありません。まして死後の楽を求める場ではないのです。
親鸞聖人は『涅槃経』を引いて、清浄の行因は如来について説くことに収まり、悪行の因は誤まった思想に収まり、無上のさとりの因は信心について説くことに収まる、ということを示されました。またさらに信心に二種があり、道心を持ち、意味内容を知って信じ、覚りを得た人の存在を信じ、正しい教えを信じ、因果の道理、仏・法・僧三宝の本質が一体であることを信じなければ完全な信とはいえない、ということも示されました。(▼資料3参照)
仏を定義すると「自覚覚他、覚行円満」といわれていますが、自覚・覚他・覚行それぞれに勝れた人は見受けられますが、全てを円満に成就している人というのは中々お目にかかれません。鋭い宗教的感性を持ってみえたり、熱意のほとばしる人、他を導くことに勝れている人、人格の勝れた人、創造的な生活に満ちている人等、それぞれに尊敬できる人は沢山みえるのですが、全てを円成してみえる方はごくわずかと言わなければなりません。
それでもぜひ真剣に「仏になる」と願っていただきたいのです。そう願えば、如来回向の菩提心に導かれ、必ず仏道を成就することができるのです。もちろんどこまでいっても私たちは未完成。課題を抱えながら、懺悔とともに如来の本願を仰ぎ続ける存在ですが、そのことが即ち願の成就を示しているのです。
前置きが長くなりましたが、以下、阿弥陀如来の第十八願と三願の関係について、親鸞聖人や諸師のお示しを学ぶことにしましょう。
まずは、[至心信楽の願] に掲載されてある文をじっくり読んでいただきたいと思います。諸師がたがそれぞれの領解を述べてみえますが、同じ第十八願についての記述であるのに、随分多方面からの理解ができることに気づかれることと思います。もちろんこの願につきましては他にも多くの先生がたが味わいを述べてみえるでしょうから、多くの法話を聞いていただきたいと思います。
また、[至心発願の願]、[至心廻向の願] についても熟読していただきたいと思います。
どの先生の領解が最も心に残りましたか? まずは自分が納得できるお話からでよろしいですから、心に刻んでみて下さい。そこから親鸞聖人の経験された三願転入と、さらに三願の並びに注目して菩提心の展開を見てみたいと思います。
親鸞聖人の著された『顕浄土真実教行証文類』は、私たちがそのまま直接理解できるほど簡単な書物ではありませんで、日本文学史上最も難解な書のひとつに数えられているほどです。しかしこれは常識や自力に留まって理解しようとするから難解なのであって、浄土経典と同じで、仏智より導かれた言葉、浄土を心深くにうち建てられたところから言葉が出てきてみえる、ということを心得て読めば、決して読めない書ではありません。この書を読む度に心の底からの感動が私を包みます。
浄土からの視点をいただくつもりで読んでみましょう。
まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 真門釈 結示
▼意訳(現代語版より)
いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』に、「自力のものは仏の恩に報いる思いがなく、行を修めてもおごり高ぶる心がおきる。それは、いつも名誉や利益を求めているからであり、<わたしが>というとらわれの心におおわれて、同じ念仏の行者や善知識に親しみ近づくことがないからであり、好んでさまざまな悪に近づき、自分および他人が本願の名号をいただいて浄土に往生する道をさまたげるかあである」といわれている。
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力念仏に帰することなく、自力の心にとらわれているから、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三願転入
▼意訳(現代語版より)
このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、久しく、さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、永く、双樹林下往生から離れ去り、自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心をおこした。
しかしいまや、その方便の真門からも出て、選択本願の大海に入ることができた。速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、難思議往生を遂げようとするのである。必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、まことに意味深いことである。
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。
これによりますと、親鸞聖人は自力聖道門を捨てて法然門下に入った最初の段階は、『第十九願』・『観無量寿経』に顕れた『万行諸善の仮門』・『双樹林下往生』・『要門諸行による方便化土への九品往生』=「さまざまな行や善を修める方便の要門」(自分が定善散善の様々な善根功徳を積み、その力で浄土に生まれようとする)に留まってみえた。
次に祖師方の導きにより、『第二十願』・『阿弥陀経』に顕れた『善本徳本の真門』・『難思往生』・『真門自力の称名による方便化土の疑城胎宮への往生』=「自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心」(念仏を称えることが救われる道であると気づき、心を励まして称え、その力で浄土に生まれようとする)に進まれた。
最後に、『第十八願』・『無量寿経』に顕れた『弘願念仏による真実報土への往生』・『選択の願海』・『難思議往生』=「選択本願の大海に入ることができた」(如来より回向された清浄な仏のはたらきが身に満ち、真実の報土に生まれる)――
ということが著されています。
これは親鸞聖人個人の経験なのか、それとも念仏者が必ず通るべき道筋なのか、もっと言えば人類の歴史的な歩みさえ象徴しているのか、様々に意見があるところですが、とにかく聖人の本願理解は「至心・信楽・欲生」の三心理解(三一問答)に究められました。これは、「信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」と衆生に一心を示しながら、経典において三心に開かれた意味を追求されてみえます([本願の三心] 参照)。これは「育ち」の問題がからんでいるのですが、詳細は [至心信楽の願] に学んで下さい。
(一八)設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(一九)設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
(二〇)設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心回向欲生我国不果遂者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願 より
ところでこの三願とその意を現わす三経の関係ですが、「第十九願」・『観経』と「第二十願」・『小経』はともに「顕彰隠密の義」、つまり表面に顕れている意味と奥に隠されている意味が重なって示されている、ということをつぶさに知らなければなりません。いいかげんに聞いて「大経だけに真実が顕れている、観経や小経は文字として表面に出てる意味は信用してはいけないんだ」などと考えていたら、二願も二経も、もっといえば第十八願や大経の意味も受けとることが困難になります。「つぶさに」知ることが肝心なのです。
『観経』の三心と『大経』三心、『小経』の一心と『大経』の三心との関係については、『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本)・三経隠顕(▼資料4 参照)に示され、最後にこう結んでいます。
三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。三経一心の義、答へをはんぬ。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三経隠顕 より
▼意訳(現代語版より)
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入る因とする。そのため三経のはじめには、「如是」と示されているのである。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。いまこの三経をうかがうと、みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。その真実の心とは他力回向の信心である。この信心は、たぐいまれな、もっともすぐれた、真実の、清らかな心である。どうして信心の大海には入ることが難しいのかというと、この信心は仏力によっておこるからである。しかし、真実の浄土に往生することはとてもやさしい。それは本願のはたらきによってただちに往生できるからである。いま、『無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と『阿弥陀経』に説かれる一心とが同じか異なるかを論じようとするのは、このことをあらわすものである。これで三経に説く教えはみな他力の信心をかなめとするということについて答えおわった。
とにかく、『大無量寿経』や『顕浄土真実教行証文類』を一言ひとこと、ゆっくり読んで味わってみて下さい。すぐに理解できなければ何度も読んで下さい。如来のお心は測りがたいけれど、測ってみなければ「測りがたい」という意味も分かりません。聖人のお言葉には実に深い意味が込められていますが、理解を試みなければ「深い」と実感できません。
「人間の分別に依ってはならない」と『大智度論』に書かれてありますが、自分流の読みかえはまさに人間の分別・はからいそのもので、これでは依りどころを示すことにはなりません。また浄土を現実の何かに置き換えることは、よほど慎重にしないと仏意を損ねます。真実信心の上から譬えを用いることは方便としては有用ですが、不信の人が自分の譬えによりかかって仏意を批判するというのは、誤解を固定しかねず、有用とはいえません。
人間の分別・はからいを依りどころとして聖典を読むのではなく、「人間の分別・はからいでは覚りは得られず、覚りの側からの道理・はからいによって覚る」といういわれを、まずは人間の努力によって読むのです。聖人は、「弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいてむかえんと、はからわせたまいたるによりて」と『自然法爾の章』で述べてみえます。
究極的にいえば、凡夫のはからいによる努力も、「浄土からの喚びかけのもよおし」が縁を結んで下さったのでしょう。理解を深めるためにみずから勤め励んで行なうのですが、しかしその努力によって得られる思いには執着せず、浄土の側からのはたらきに気づかされ、その喚び声に乗ずることが尊いのです。
ご質問にあった蓮如上人の御文も、「雑行雑修自力」というのはこの執着であり、「一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なき」ということが、如来の喚び声に乗ずるということでしょう。本願のお心に肯くうちに、如来の功徳が心身に満ち、それは行者の人相にまで影響を与えるのです。
私は仏性とか如来とか、本願とか浄土といわれるものは、魂の地下水だと思っています。地下水は地球のどこにも行き渡っていますが、そのままでは自分のものになりません。「わが魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の」四十八願の願いを開発する作業が、聞法であり求道です。
上記の文も、[至心信楽の願] の解説にあるのですが素晴らしい譬えだと思います。人間の努力はいわば呼び水でしょう。呼び水は清らかな地下水があふれてくれば必要なくなります。
ただし譬えは譬えであり、浄土そのものではありません。聖典を読むというのは、こうした譬えを様々に読み、浄土のはたらきを仰ぎながら、その譬えに執着せずに、そのお心を知る。「教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない」と、やはり『大智度論』にあります。
聖典は読み飛ばすことなく、一生をかけて真意を求めてみて下さい。そうすれば、ご質問の一々について当方で正す必要はないと思います。そして、念仏者が世の中の宝となることは、自らの人生で証明してほしいと願っています。
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし
『仏説観無量寿経』 流通分 より
▼意訳(現代語版より)
もし念仏する人がいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となり、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生まれるのである。
最後に、三経隠顕で第十九願も第二十願も彰すところはみな同じ、ということを受け入れたなら、さらに三願に開かれた意味をもう一度味わう必要があります。つまり、開かれた願の順番から言えば、三願転入という意味だけではなく、三願展開の意味も持つ、ということです。四十八願は極めて時間をかけて計画され、順を追って建てられている以上、第十八願から第十九願・第二十願に進む面も否定できないのではないでしょうか。
ちなみに、この展開に関しては否定的な意見もあるようですが、否定する意見の問題点は、転入時の二願の「顕」の面をもって為されていることです。第十八願で如来の真意を明らかにされたことを受けての第十九願ですから、ここに示された「十方衆生発菩提心」の「菩提心」は、「彰」の面で言えば、十方衆生の自力ではなく如来の先手、如来より回向された菩提心であると理解できます。第二十願の「十方衆生聞我名号」も、「顕」の面では自力の念仏ですが、「彰」の面では他力の念仏のはたらきによるものと理解することも、あながち間違いとはいえません。
このように、第十八願によって如来より回向された心が、現実の生活や社会にどのように展開するのか、という面が、今後は浄土真宗の教学の課題になっていくべきだと思います。
光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの焔明、ともに等しきものなし。
日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし。
如来の容顔は、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。
戒と聞と精進と三昧と智慧との威徳は、侶なくして、殊勝にして希有なり。
深くあきらかに、よく諸仏の法海を念じて、深きを窮め奥を尽して、その涯底を究む。
無明と欲と怒りとは、世尊に永くましまさず。人雄獅子にして神徳無量なり。
功勲広大にして、智慧深妙なり。光明の威相は、大千を震動す。
願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
布施・調意・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。われ誓ふ、仏を得たらんに、あまねくこの願を行じて、一切の恐懼〔の衆生〕に、ために大安をなさん。
たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
たとへば恒沙のごときの諸仏の世界、また計ふべからざる無数の刹土あらんに、光明ことごとく照らして、このもろもろの国に遍じ、かくのごとく精進にして、威神量りがたからん。
われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん。
国泥オンのごとくして、しかも等しく双ぶものなからしめん。われまさに哀愍して、一切を度脱すべし。
十方より来生せんもの、心悦清浄にして、すでにわが国に到らば快楽安穏ならん。
幸はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、これわが真証なり。願を発して、かしこにして所欲を力精せん。
十方の世尊、智慧無碍にまします。つねにこの尊をして、わが心行を知らしめん。
たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 讃仏偈 より
▼意訳(現代語版より)
世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
その光明には何ものも及ぶことなく、
太陽や月の光も宝玉の輝きも、
その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、
さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。
持戒と多聞と精進と禅定と智慧、
これらのお徳は並ぶものがなく、とりわけすぐれて世にまれである。
さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、
その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、
人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておいでになる。
その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ、
輝く光のお力は、世界中を震わせる。
願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように
迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、
このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、
その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、
それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、
固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏たがの世界があり、
はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、
わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、
おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、
涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜びに満ちた清らかな心となリ、
わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびトウ利天、なにによりてか住する」と。仏、阿難に語りたまはく、「第三の焔天、乃至、色究竟天、みななにによりてか住する」と。阿難、仏にまうさく、「行業の果報、不可思議なればなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによくしかるのみ」と。阿難、仏にまうさく、「われこの法を疑はず。ただ将来の衆生のためにその疑惑を除かんと欲するがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 十劫成道 より
▼意訳(現代語版より)
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界やトウ利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」
すると釈尊が阿難に仰せになった。
「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」
阿難が釈尊にお答えする。
「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」
釈尊が仰せになる。
「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」
阿難が申しあげる。
「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」
『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。〈一切の梵行の因は善知識なり。一切梵行の因無量なりといへども、善知識を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。わが所説のごとし、〈一切の悪行は邪見なり。一切悪行の因無量なりといへども、もし邪見を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。あるいは説かく、〈阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといへども、もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ〉」と。
またのたまはく(同・迦葉品)、「善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといへども、推求にあたはざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏法僧ありといはん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性異なりと言ひて、もろもろの邪語、富蘭那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏法僧宝を信ずといへども、三宝同一の性相を信ぜず。因果を信ずといへども得者を信ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。この人、不具足信を成就すと。乃至 善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。なんらをか四つとする。一つには勝他のためのゆゑに経典を読誦す。二つには利養のためのゆゑに禁戒を受持せん。三つには他属のためのゆゑにして布施を行ぜん。四つには非想非非想処のためのゆゑに繋念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人、かくのごときの四事を修習せん、これを、没して没しをはりて還りて出づ、出でをはりて還りて没すと名づく。なんがゆゑぞ没と名づくる、三有を楽ふがゆゑに。なんがゆゑぞ出と名づくる、明を見るをもつてのゆゑに。明はすなはちこれ戒・施・定を聞くなり。なにをもつてのゆゑに還りて出没するや。邪見を増長しキョウ慢を生ずるがゆゑに。このゆゑに、われ経のなかにおいて偈を説かく、〈もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する。この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて、解脱を得といへども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く。これを暫出還復没と名づく〉と。
如来にすなはち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり。〔乃至〕この人深くこの二種の戒ともに善果ありと信ず。このゆゑに名づけて戒不具足となす。この人は信・戒の二事を具せず。所修の多聞もまた不具足なり。いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」と。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 真門釈 引文 より
▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
『涅槃経』に説かれている。
「すでにこの経に説いたように、すべての清らかな行いの因は善知識すなわち如来である。すべての清らかな行いの因は数限りなくあるけれども、如来について説くだけですべてその中に収まってしまうのである。
私がこれまで説いてきたように、すべての悪い行いは誤まった考えによる。すべての悪い行いの因は数限りなくあるけれども、誤まった考えについて説くだけですべてその中に収まってしまうのである。
あるいはこの上ないさとりについて説くなら、それは信心を因とする。さとりに至る因も数限りなくあるけれども、信心について説くだけですべてその中に収まってしまうのである。
また次のように説かれている(涅槃経)
「善良なるものよ、信には二種がある。一つには、教えをただ理解する信であり、二つには、教えにしたがって道を求める信である。教えをただ理解しているだけで、教えにしたがって道を求めることがないのは、完全な信ではない。
また信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。
また信には二種がある。一つには、たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、二つには、その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない
また信には二種ある。一つには、正しい教えを信じるのであり、二つには、よこしまな考えを信じるのである。因果の道理があり、仏・法・僧の三宝があると信じるのを、正しい教えを信じるという。因果の道理がなく、仏・法・僧の三宝の本質が一体ではなくそれぞれ別のものであるといって、さまざまなよこしまな考え、たとえば富蘭那などの言葉を信じるのを、よこしまな考えを信じるという。仏・法・僧の三宝があると信じても、三宝の本質が一体であることを信じておらず、また因果の道理を信じても、さとりを得た人がいることを信じていないのは、完全な信ではない。この人は、不完全な信しか得ていないのである。
問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。「発三種心即便往生」といへり。また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)15 三経隠顕 より
▼意訳(現代語版より)
問うていう。『無量寿経』に説かれる至心・信楽・欲生の三心と『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心の三心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密[けんしょうおんみつ]の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕[あらわ]すものであり、往生するものについて上・中・下の三輩の区別をし、至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生まれるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰[あらわ]すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。
このようなわけで『観無量寿経』には、「わたしに清らかな世界をお見せください」と説かれている。「清らかな世界」とは本願成就の報土である。
また「わたしに極楽の世界のすがたを想い描く方法をお教えください」と説かれている。これは往生のための仮の手だてのことをいうのである。
また「極楽世界のすがたとわたしの心が一つになり、観が成就する方法をお教えください」と説かれている。これは他力金剛の信心のことをいうのである。
また「清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきり想い描くがよい」と説かれている。これは本願成就の尽十方無碍光如来を信知すべきであるということである。
また「極楽世界のすがたを想い描くためのさまざまな方法を説く」と説かれている。これは定善の十三観をいうのである。
また「そなたは凡夫で、能力が劣っている」と説かれている。これは悪人が浄土に往生すべきものであることを彰すのである。
また「仏がたには特別な手だてがある」と説かれている。これは、定善・散善のさまざまな善が説かれるのは、他力念仏に導き入れる仮の手だてとしての教えであることを顕すのである。
また「仏の力によてその世界を見ることができる」と説かれている。これは、仏の力、すなわち他力によって往生することを顕すのである。
また「釈尊が世を去られた後の世の衆生は」と説かれている。これは、未来の衆生すなわち凡夫こそまさに浄土に往生すべきものであることを顕すのである。
また「経典に説かれることと合致するなら、粗々は極楽世界を見たということができる」と説かれている。これは、定善を成就することが難しいことを顕すのである。
また「この身のままで念仏三昧に入ることができる」と説かれている。これは、定善の観察が成就して得られる利益は他力の念仏三昧であることを顕す。すなわち定善の観察を方便の教えとされるのである。
また「至誠心・深心・回向発願心の三心をおこして往生する」と説かれ、また「三種の行を修める人々があって、みな往生することができる」と説かれている。この二つの文によって考えると、上輩・中輩・下輩の三種類の人について、それぞれ定善の自力の三心・散善の自力の三心・弘願他力の三心があり、また真実報土への往生と方便化土への往生とがある。
これによって、まことに知ることができた。すなわち『観無量寿経』には顕彰隠密の義があることを。『無量寿経』の三心と『観無量寿経』の三心が同じであるか異なるかを述べるにあたっては、よくこのことを考えなければならない。この二つの経は顕の義によれば異なるが、彰の義によれば同じである。よく知るがよい。
また問ふ。『大本』(大経)と『観経』の三心と、『小本』(小経)の一心と、一異いかんぞや。
答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。二十願なり 機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)37 三経隠顕 より
▼意訳(現代語版より)
また問うていう。『無量寿経』や『観無量寿経』に説かれる三心と『阿弥陀経』に説かれる一心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
答えていう。いま方便真門の誓願についてみると、行と信がある。また真実と方便がある。その願とは植諸徳本の願(第二十願)である。その行には二通りの名がある。一つには善本であり、二つには徳本である。その信とは至心・回向・欲生の心である。この行を修めるものに、定心のものと散心のものとがある。そして往生とは、難思往生であり、その仏とは化身である。その浄土とは疑城胎宮である。
『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思の往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々に世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは顕彰の義をあらわすものである。『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」とと説かれている。「執」の言葉は心がしっかり定まって他に移らないことをあらわしている。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた経典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。