平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

浄土真宗と祈り

「念」や「祈り」の中味が問題

質問:

浄土真宗が「祈りを認める」というニュースを聞きました。
俗人として,祈り(現世利益的な祈りも含めて)は避けて通れないと思います。「苦しくなれば,超存在的なものに助けを求めたくなる」のは,人間として自然なことであり,非難すべきことではありません。
本願寺新報で,真宗教団が観音信仰を嫌って折られる様子はよく理解しています。しかし,あえて下記の質問をお尋ねします。

(質問1)真宗と他の宗派の両方を信じることは,教義ではどのような扱いになっていますか? 例えば,浄土真宗と観音信仰の両方を信じることは禁じられていますか?

(質問2)釈迦の教えでは,他の宗教を同時に信じることを禁じていますか? 禁じているとすれば,それはどのような理由によるものでしょうか?

以上,よろしくご教示頂ければ幸甚です。

 この問題については、皆さまの関心が高く、反響も大きいようです。その中で、当HPの掲示板にも書き込みがあり(10日)、翌日返答させていただきました。状況を知っていただくため、まず掲示板でお応えした部分をコピーして、その上で今回いただいた質問にお応えさせていただきます。

返答1(掲示板から)

> 初めて投稿させて頂きます。
〉  今朝のネットニュース(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021210-00000179-mai-soci)で、
〉 本山が「祈り」を容認したという記事がありましたが、詳しい内容が知りたいので、本山のホーム
〉 ページにそれがあるのでしたら、お手数ですがアドレスを教えて頂けませんでしょうか。
〉 記事にもありますが、現世利益を容認したということなのでしょうか。

編集委員の一人から以下の情報を寄せていただきました――

―――――――――――――――――――――――――
「祈り」について
中仏通信教育部同窓会東海支部会報「共命の友」の12月1日号に五由出普教さんの寄稿文として下記が掲載されていますので該当個所スキャンして送ります。毎日新聞の記事は中外日報の記事からのコメントと思われますが、宗会の発言はホームページにも載らず、また殆ど洩れてきませんので詳細はわかりません。実はybaでこのことについての考え方が出るのをまっているところです.よろしくお願いします。 合掌

[浄土真宗本願寺派第二六九回定期宗会で、出口湛龍議員が「『祈る』を『念じる』と言い換えてもそれは言葉のすり替えにすぎないのてはないか」と、親驚聖人の『消息』の「念仏を御こころにいれてつねに申して、念仏そしらんひとぴと、この世、のちの世までのことを、いのりあはせたまふぺく候。」「ただひがうたる世のひとぴとをいのり、弥陀の御ちかいにいれとおぼしめしあはぱ、仏の御恩を報じまゐらせたまふなり侯ふぺし。」(聖典註釈版807、808頁)を引用し、「この言葉の使い方をどう考えているのか」と総局の見解を質した。これに対し、教学研究所の大峯顯所長は「『祈り』は宗教の本質。現世祈濤はごく一部の概念にすぎず、宗教学的に言えば『祈る』のは当然である」「『祈り』の核心は聖なるものと人間との内面的な交流てあり、これはすぺての宗教の核心をなす」と解説。また、聖人の『消息』について「念仏を御こころにいれてつねに申して」の前提に立っ「祈り」て、あり、「決して現世祈濤の意味て一はない」と指摘。]

これは平成十四年十一月十二日付けの『中外日報』に掲載された記事の抜粋てす。
……・以下略……
―――――――――――――――――――――――――

――ということですので、宗祖の言われる「いのり」は、現世祈濤の意味でも、一般的な意味の「現世利益」とも違います。
(本当の現世利益については↓参照)
QandA/01_10_15.html
QandA/00_02_11.html

私論を述べさせていただくと、
聖人の使われた「いのり」の意味と、世間一般で使われる「いのり」の意味は同じではない、という事実がある限り、無批判に容認するのは危険だと思います。
世間一般で「いのる」というのは、<自分の力ではどうしようも無い時に神仏の力にすがって、よい事が起こるように願う>というような意味で使われますが、何を願うか、ということに関して厳しく見つめようとはしません。
仏教で問題にするのは、「よい事が起こるように願う」の願う内容なのです。
私たちの願いはともすると、道理に合わなかったり、自我の欲望であったり、時として他人を蹴落としても、という願いを持ってしまいます。
こうした願いを、何か自分を超えた存在に託すのが「いのる」ということですから、基本的には批判眼を持って「いのり」を見つめる必要があるでしょう。ただし、この「いのり」を(※起こす気持ちまで)否定することはできない、というのが今回の主旨だと思いますが、もう少し詳細に情報を検討したいと思います。

なお、真実の願いを求める究極に、真実の側からのはたらきとして「阿弥陀如来の四十八願」が建てられた、ということが浄土真宗の基本的な教義です。
仏が仏として真実の姿に成る、という経緯を通して、私が本来的な自己の在り方を求める、人が人として真実の姿を求める、社会が社会として真実の姿を求める、ということです。
こうした課題と方向性を持って、念仏者は本願を聞き開いていくことが肝要でしょう。

(※註:補足しました)


返答2(今回の質問について)

◆ 祈りではなく願い

〉 浄土真宗が「祈りを認める」というニュースを聞きました。
〉 俗人として,祈り(現世利益的な祈りも含めて)は避けて通れないと思います。「苦しくなれば,超存在的なものに助けを求めたくなる」のは,人間として自然なことであり,非難すべきことではありません。

 まずはじめに、<浄土真宗が>ということですが、発言されたのは大峯顯所長個人であり、また記事は所長の意図とは異なった部分が拡大解釈されて書かれていました。つまり、新聞の報道にあるような<浄土真宗が公認した>というような大げさな問題ではないのです。ただ、今回の発言は少し説明不足で、各方面に誤解を与えかねない表現が含まれていたように思います。

 さて、「苦しくなれば,超存在的なものに助けを求めたくなる」ということが、一般にいう「祈り」の姿だと思いますが、祈ることによって真に解決を見るのであれば、誰も非難(正確に言えば批判)しません。ところが、祈ることによってさらに混迷の度を深めていく、というのが現実ではないでしょうか。これは世人においても厳しい批判がなされる事柄です。

【祈る】: 取るに足らないことが明々白々なたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則を廃棄してくれるように頼む。

アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』より

「苦しいから助けてほしい」との祈りは、同情はしますが、少し考えてみれば実に道理にかなわない行為であることが分かります。しかも、たまたまこの祈りが叶えば、ますます他律的な祈りに甘えるようになり、自律した人生からは遠ざかってしまいます。
 どうにもならない物事をどうにかしようと欲望をかきたて、人生において本当に解決しなくてはならないことから逃げ、遠ざかってしまう。解決できる問題を先送りしてしまっているのが、現実において為される祈りの大半の姿ではないでしょうか。浄土真宗で、欲望にもとづいた祈りを批判するのはこうした理由からです。

 なお、これは浄土真宗というより、仏教の基本的な姿勢でもあります。自灯明・法灯明が原則の仏教としては、他律的な欲望成就の祈りは受け入れ難い外道の行為でありましょう。

 なんじら、聴くがよい。ここに四つの真理がある。曰く、苦の真理、苦の集[おこり]の真理、苦の滅[ほろび]の真理、苦の滅への道の真理が、それである。
 苦の真理とは何であろう。曰く、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。愛する者と別れるも苦である。憎むものと会うのも苦である。求めて得ざるも苦である。略して説けば、われらが生をなす総てのものは苦である。これが苦の真理である。
 苦の集[おこり]の真理とは何であろうか。充足と欲貪をともない、到るところに満足を求める心、すなわち渇愛こそは、輪廻をもたらし、苦の起こりきたるところである。これに欲の愛と有の愛と無有の愛とがある。これが苦の集の真理である。
 苦の滅[ほろび]の真理とは何であろうか。この渇愛を、あますところなく捨て去り、離れ去り、解脱して執著することがなければ、また苦の起こりきたることもない。これを苦の滅の真理とする。
 苦の滅にいたる道の真理とは何であろうか。それは八つの正しい道であって、正見と正思と正語と正業と正命と正精進と正念と正定とである。これが苦の滅にいたる道の真理である。

『中阿含 204』

 このように説かれた法に問えば、「充足と欲貪をともない、到るところに満足を求める心」が「祈り」になれば、それは「苦のおこり」を引きずりながら、さらにその炎を他に託してかきたてて責任逃れをする、ということになるのではないでしょうか。

 なお、「苦」とは「自分の思い通りにならないもの」という意味もありますが、初転法輪でこのように説かれた真理は、本来、あらゆる宗旨で尊ばれなくてはなりません。特に「苦の真理」と「苦の集の真理」については、基本的にそのまま受けとる内容でしょう。生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を合わせた八苦は、どんなに祈っても変えることはできません。人生において、思い通りにならない事柄は、どのようにもがいても思い通りにはならない、という真理は受け入れなければならないでしょう。
 ただし、これは出家者に説かれた法ですから、苦の滅[ほろび]の真理は実行者には真理ですが、世俗において実行することはできません。

 また、仏教が歴史を重ね発展するにつれて、世俗の生活者が真理に到る方法が重要な課題となってきました。また、苦の問題について、消極的な面では苦と見ながら、積極面では楽と見、それを肯定します。
 これは大乗仏教全体の特徴であり、積極的な人生観を与え得る宝なのですが、ある意味誤解を生みやすい教えですから、少し説明させていただきます。

 大乗の『涅槃経』哀歎品において――
 釈尊入滅が迫った時、比丘たちは、自分たちの到達した境地を釈尊に申し上げ指示を仰ぎます。「無我なるものを我と思い、苦を楽と思い、無常を常と思ってとらわれている私の顛倒を破くため、無我・苦・無常を観じ修得しました」と。
 すると釈尊は、「それはよいことだ」とほめます。しかしまた、「それだけでは十分でない」とも言われます。
 楽でないものを楽と思い、常でないものを常と思い、自我でないものを自我と思い、清浄でないものを清浄と思っているので、修行者は、苦相・無常相・無我相・不浄相を修するが、しかしまた、常なるものを無常と思い、我なるものを無我と思い、清浄なるものを不浄と思い、楽を苦と思っている間違いを指摘します。
 ここでは有為の四顛倒と無為の四顛倒が語られ、常楽我浄の四顛倒は消極面では否定しますが、積極面ではそれを肯定します。現象の世界は、無常・苦・無我・不浄ですが、永遠の世界では、常・楽・我・浄であるということです。
 そして「無我とは生死のことであり、我とは如来のことである。無常とは声聞・縁覚のことであり、常とは如来の法身である。苦とはすべての外道のことであり、楽とは涅槃のことである。不浄とはこの世界の在り方であり、浄とは仏菩薩の正法である」と不顛倒の境地を現します。

 さらに、同経典の四諦品では、仏教の基本理念である四諦(したい・苦・集・滅・道)について、如来常住無有変易という観点から説明をしています。
 釈尊は言われます、「一般に言う苦を苦聖諦とは言わない。(中略)善男子よ、もし人があって、如来の深い境地の常住不変の法身を知らず。『これは相対の身で、法身ではない』と言い、如来のすぐれた徳や威力を知らないならば、これが苦である。なぜなら、不知であるからだ。この人は法を法でないと見、法でないものを法と見ている。この人は地獄におち、生死界を流転し、多くの迷いを増し、苦悩を受けるであろう。もし如来は常住で変化のないことを知り、あるいは『常住』という二字の音声を一度でも耳に聞いたら、天上に生れるであろう。そして後に解脱を得る時、本当に如来は常住で変易のないことをさとるのである。(中略)このように知るなら、本当に苦を修したことになり、利益を得ることが多い。これを苦を知るといい、苦聖諦と言うのである」と。
 このように大乗仏教では、苦悩を克服してこそ「人生は苦である」と見とおすことができる、と積極的に苦諦を理解します。
 また『集諦』についても、「非法を正法とみなすことが苦を集める因であると知ること」
『滅諦』は「如来蔵があるのを見ることができなくても、煩悩を滅せばそこに入ることができる」
『道諦』については「仏法僧の三宝も解脱も常住であり変易することはないと知ることである」
と説かれます。さらに同経典の迦葉品には――

論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。
▼意訳
議論のために、他の人よりすぐれたいために、利益のために、世俗的な目的のために、それを読んで人に説くのは、完全な聞ではない。

と、如来の尊い功徳のいわれを聞く聞き方や目的を問題とします。

 つまり、修すべきことがらを修し、如来より回向された心をよりどころとするならば、苦は克服され、人生は決して思い通りにならない難物ではなく、すべての願いはかない、永遠の寿を得ることができるのですが、重要なのは、この願いは決して衆生の欲望を無批判に肯定したところにはなく、あくまで如来法性より回向された願いである、ということです。現象面では四苦八苦は決して翻ることはありません。
 例えば、釈尊入滅の間近に迫ったことを人々は知り、「まだ私たちは悟りを得ていないから」と入滅を翻意させようとします。人々の「入滅してほしくない」という気持ちは、いわゆる「祈り」でしょう。「できることなら、もう少し長く生きていて欲しい」という祈りです。しかしこの祈りが通じる道理はありません。釈尊は入滅されます。ただ、この入滅は現象面では諸行無常を示しますが、そのこと自体に如来法身が常住であることが示されているのです。
 人々にとって「入滅」・「無常」というのは最大の苦のひとつですが、これを真理と見る法こそが「常」なるもので、これを受け入れ、法を勧める姿が本当に苦を脱する方法なのでしょう。

人間は
物を要求するが
仏は物をみる眼を
与えようとされる

(足利浄圓)

 私たちは様々な物、つまり「商売繁盛」や「無病息災」、「受験に受かりますように」とか、「家内安全」「交通安全」等を求め、神仏にそれ託して祈ります。しかし、如来が私たちに与えるのは、そうしたものをねだる私たちの浅ましい顛倒した姿を見抜く眼なのです。そして何を求め、何をよりどころとして生きるべきか、という基本姿勢を学ぶことが仏教ではないでしょうか。

ある日自分へ

おまえさんな
いま一体何が
一番欲しい
あれもこれもじゃ
だめだよ
いのちがけで
ほしいものを
ただ一ツに的を
しぼって
言ってみな

(相田みつを)

「いのちがけでほしいもの」という問いは、漫然とした欲望や祈りから一心の願いに純化される導入となります。
「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と親鸞聖人が述べてみえますが、この究極において、個人の欲望を超え、理性の行き詰まりを超え、一切衆生の歴史を背負った如来の願いが一人一人に至り届いて成就するのです。この具体的な現れが仏の名号・南無阿弥陀仏なのです。

◆ 観音勢至もろともに

〉 本願寺新報で,真宗教団が観音信仰を嫌って折られる様子はよく理解しています。しかし,あえて下記の質問をお尋ねします。

〉 (質問1)真宗と他の宗派の両方を信じることは,教義ではどのような扱いになっていますか? 例えば,浄土真宗と観音信仰の両方を信じることは禁じられていますか?

〉 (質問2)釈迦の教えでは,他の宗教を同時に信じることを禁じていますか? 禁じているとすれば,それはどのような理由によるものでしょうか?

 浄土真宗の信心のあり方が、「観音信仰を嫌って」いる訳ではありません。むしろ、「ひとすじに阿弥陀仏の名号を称える人には、観音・勢至がいつも影のようにつきそって護ってくださり、親しい友となってくださるということを明かす」と、善導大師著『観経疏』(資料1▼参照)に書かれてあり、また親鸞聖人は一光三尊仏(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の三尊像)を礼拝されてみえた([本尊と御真影について] 参照)のですから、観音信仰にご縁が無いわけではありません。
 ただし、聖人の信心の中心は、あくまで阿弥陀如来であることは間違いなく、また観世音菩薩を礼される場合は、必ず勢至菩薩とともに礼されてみえることに注意しなくてはなりません。

観音・勢至もろともに
慈光世界を照曜し
有縁を度してしばらくも
休息あることなかりけり

『浄土和讃』 讃弥陀偈讃(一九)

 ご存知の通り、観世音菩薩は阿弥陀浄土の慈悲の面を示す菩薩で、勢至菩薩は智慧の面を示す菩薩です。ともに名が体を顕しています。観世音菩薩は世の音を観察する、つまり人々の苦悩の声を聞き慈悲の心を起こす菩薩であり、勢至菩薩は勢いが至上、つまり慈悲の心を実行するため最高の熱意を発揮する菩薩です。

 面白いことに、ともに阿弥陀浄土の菩薩でありながら、日本では観音信仰は古来より一般に盛んですが、勢至信仰はあまり聞かれません。これはある意味、日本人の信仰の方向性、宗教的動機のあり方([求道の動機と理性の役割] 参照)を雄弁に物語っているとも言えましょう。
 世の声を聞き慈悲の心を起こす菩薩には人々も思いが到るのですが、その慈悲を現実に解決に導く熱意を発揮する菩薩には用事が無い、ということです。これは、日本人は他人の苦悩を見て同情し涙は流すが、その苦悩を本当に解決するために熱意を永続させて関わる苦労は引き受けたがらない、という姿を象徴しているのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなふれば
観音・勢至はもろともに
恒沙塵数の菩薩と
かげのごとくに身にそへり

『浄土和讃』 現世利益讃(一〇八)

 念仏を称える者は、観世音菩薩の慈悲と勢至菩薩の智慧などを影のように身に添わせ、慈悲の涙と問題解決へ途切れることのない熱意を身体から発散させている、ということですが、聖人の和讃に示されたような念仏者をどれほど輩出してきたか、いやいや自分が本当にそうした念仏者になっているか、と問えば、まさに懺悔の念を禁じ得ません。

 例えば、宗教においてまず現実に解決しなければならないのは、人が人としてのいのちを脅かされない世界、つまり出身地や民族・宗教・職業などで差別されない世界を作る、まして自らが差別者にならない、という問題です。
 人々の苦悩を思いやり、同朋としてともに助け合う社会を、自律した活動において為していくことが宗教活動の大前提であり、浄土真宗においても様々な勉強会が催されてきました。しかし、社会の同調を得るほどの熱意はまだ発揮されておらず、これはまさに勢至菩薩の智慧を仰がない私たちの歪んだ姿を映しているといえるでしょう。

 このように、観音信仰者ひとりひとりについて、真宗門徒僧侶が嫌ったり否定する道理はありません。本物の慈悲を旨(よりどころ)とする信仰者ならば、自ずと勢至菩薩の智慧・「翻らない熱意」も具えることになり、自らの欲望に執着せず、法の示す道理を尊び、社会にその功徳を現わす体現者になっていくはずです。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

『正像末和讃』 三時讃 (五九)

 念仏者としての真の姿は、自らの身を粉にしても如来の慈悲・智慧を現実に報じていくところにあり、自らの骨を砕いても先師先人たちの苦労に感謝し応えていくところにあります。これは実に難しいことですが、法を説かれた釈尊自身も、「わたしは濁りと悪に満ちた世界で難しい行を成しとげ」た(資料2▼参照)と、告白されています。それだけに、自らの欲望を託して祈るような仏教信仰者があれば、それは「法を破る外道」と批判しなくてはなりません。

 観音信仰者も、念仏者も、如来真実の法をよりどころとし、回向された心に添い遂げていくならば、嫌うどころが同朋としての歩みを共に進めることができるでしょう。
 ただし浄土真宗の門徒は、ひたすら阿弥陀如来よりたまわる御信心をよりどころとして生きていきます。これは、「すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり」と蓮如上人も仰ってみえるように、念仏には全ての功徳が円かに具わっているため、あらためて他の神仏を拝む必要がなくなるのです。
 逆に言えば、「真宗と他の宗派の両方を信じること」は、信心がまだ決定[けつじょう]していない証拠でもありましょう。
 重層信仰は、求道の過程として経なくてはならない人もいますので、禁じはしませんが、信心決定の後は当然「一心・一向」になるのが道理でしょう。

 なお釈尊は、出家希望者のうち、以前他宗教に入っていた人については、一定期間様子を見て、他宗教のとらわれが捨てられているのを確認してから出家を許しました。これをみても重層信仰は、真剣な求道の中では過渡期としてのみ許される期間と理解することができるでしょう。

◆ 他宗教で語られる「祈り」をどう位置づけるか

 さて、定期宗会での発言について、もう少し検討してみますと、「『祈る』を『念じる』と言い換えてもそれは言葉のすり替えにすぎないのてはないか」という質問に対して、「『祈り』は宗教の本質。現世祈濤はごく一部の概念にすぎず、宗教学的に言えば『祈る』のは当然である」、「『祈り』の核心は聖なるものと人間との内面的な交流であり、これはすぺての宗教の核心をなす」という解答がなされましたが、これは<他宗教で語られる「祈り」を、浄土真宗でどう位置づけていくか>という問題を論議に乗せたい主旨であったと思われます。

 では、一つ一つ検討してみましょう。
「『祈る』を『念じる』と言い換えてもそれは言葉のすり替えにすぎないのてはないか」という質問ですが、言葉の意味が完全に固定されていて、その中から選ぶ、という問題であれば、この質問は的を得ていると言えるでしょう。しかし、言葉は辞書の中に固定しているものではなく、歴史的にどのような使われ方をしてきたか、ということを考慮しなくてはなりません。言葉は生きているのです。
「祈る」も「念じる」も、人の側にその主体があるのですが、日本において「祈る」という言葉は、欲望も願いもごちゃまぜにしていて、祈る内容を深く検討してきた歴史がありません。比べて「念じる」という問題については、浄土真宗を筆頭に常にその内容が検討され続けてきました。自らの欲望を託す念や、三昧において仏世界を観る念を「自力」と見抜き、真実の側から回向された念を「他力」と味わい、尊んできました。
 ですから、「祈る」を「念じる」と言い換えるのは、現象的には「言葉のすり替え」であっても、本質的には「内容を問題にする」という伝統を受け継いでいると言えるでしょう。

 次に「『祈り』は宗教の本質。現世祈濤はごく一部の概念にすぎず、宗教学的に言えば『祈る』のは当然である」という返答についてですが、「『祈り』は宗教の本質」という言い方は、少し勇み足でしょう。「『祈り』は宗教の第一歩」ではあっても、「本質」では決してありません。特に日本においては、「宗教のきっかけ」程度が適当だろうと思います。
 また、「現世祈濤はごく一部の概念にすぎず、宗教学的に言えば『祈る』のは当然である」ということですが、この部分だけ見れば、「宗教学的に言えば」という但し書きがありますので正論のようですが、祈りの下地や方向性を問題にしていない以上、「当然である」とは言えないでしょう。
 これは、「『祈り』の核心は聖なるものと人間との内面的な交流であり、これはすぺての宗教の核心をなす」という解答についても、同様の懸念を抱かざるを得ません。特に「これはすぺての宗教の核心」という表現は、現実の人間の業を無視した評価だと思います。

 ところで、答弁で引用された親鸞聖人の「念仏を御こころにいれてつねに申して、念仏そしらんひとぴと、この世、のちの世までのことを、いのりあはせたまふぺく候」「ただひがうたる世のひとぴとをいのり、弥陀の御ちかいにいれとおぼしめしあはぱ、仏の御恩を報じまゐらせたまふなり侯ふぺし」(聖典註釈版807、808頁)の内容を少し味わいますと――

「念仏をお心に入れて常に称えて、念仏をそしるような人々の、この世や、後の世までのことを、一緒に祈りあわせてください」
「ただねじけた世の人々のことを祈り、弥陀のお誓いに摂め取られるように、と思いあわせられますならば、それこそ仏のご恩を報じたてまつることになりましょう」
資料3▼参照

――つまり、念仏の心をわが心として称え、自分たちや念仏をそしる人々の現在・未来についても「一緒に祈りあわせましょう」、念仏を蔑ろにするねじれた世の人々も「ともに如来の誓いに摂め取られるのことを祈りましょう」、それこそが「仏のご恩を報じたてまつること」、という意味の「いのり」です。

 ここにある「祈り」は、自我の欲望を託す祈りでも、単に理想を追う祈りでもありません。衆生の歴史現実を浄ずる如来の願力が、念仏者に到り届いて声となった祈りです。
 こうした回施された心を下地とし、念ずることを「いのり」と表現する箇所はまだあります。

「それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころにいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ」――それにつけても念仏を深くたのんで、世の安穏ということに心をいれて、念仏を申しあわせていただきたいと思います。
「詮ずるところ、あなたに限らず、念仏しようとする人々はご自分の浄土に生まれるためをお思いになることはなくても、天皇のおんため、国民のためにおたがいに念仏を申しあわせられるなら、結構なことでありましょう。浄土に生まれることをおぼつかなく思われる人は、まずわが身の浄土に生まれうることをお考えになって、お念仏なさってください。かならず浄土に生まれることができると確信する人は、仏のご恩を思われるにつけても、ご報恩のために、お念仏を心にいれて称え、世の中の穏やかであるよう、仏のみ教えのひろまるように、とお考えにならなくてはならないと思われます」
資料4▼参照

 親鸞聖人は『教行信証』において、天皇やその臣下に対し、「主上臣下法に背き義に違し、忿りをなし怨を結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す」と、徹底的に批判されたことは有名ですが、これは行動に対してであり、天皇やその臣下をないがしろにするものではありません。
 むしろ念仏を弾圧する権力者の罪も自たちと同根と心得、同朋として「天皇のおんため、国民のためにおたがいに念仏を申しあわせられる」ことを、あたたかく迎え入れてみえます。そして、如来のお心の発露として、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願われるのです。

 こうした大きな「いのり」を、仏教では「回向された心」や「仏心・菩提心」に報いられた念と理解し、個人の貪欲の「祈り」とは別次元で語ってきましたが、実は、弾圧者や加害者も含めて「祈り」を捧げる宗教は仏教だけではありません。イスラム教やキリスト教などにも容易に見出すことはできるはずです。したがって、「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」という大峯所長の提案は一考すべきでしょう。
 ただ、先にも述べましたように、日本において「祈り」は、ひたすら「苦しい時の神頼み」であり、せいぜい「先がけて常に祈る」程度の、個人や家族の安逸に留まってきた歴史があり、きちんと「祈り」の心根を峻別して表現しなくては、誤解と矛盾をさらに深める結果になると思います。


12月20日付『本願寺新報』より

 今回の「いのり」の問題に関して、12月20日付『本願寺新報』に、以下のような記事が載りましたので参考にして下さい。

「いのり」について /毎日新聞記事を受け /教学研究所

 十二月十日付の毎日新聞に「祈り“公認”浄土真宗本願寺派」という見出しで、「いのり」という言葉の使用を宗派が認めるかのような記事が掲載されました。この記事は十月に召集された第二百六十九回定期宗会での「いのり」という言葉についての質疑をもとに作成されたもののようですが、誤解を招く表現であったため早速、毎日新聞に申し入れをしました。掲載後、宗務所へさまざまな問い合わせがありましたので、浄土真宗教学研究所にあらためて教学の上から、「いのり」について執筆してもらいました。

 浄土真宗では、伝統的に「いのり」という言葉は使用してきませんでした。「いのり」という言葉は、本来神仏に対して願い求める(「祈願請求」)という意味を持ち、その意味が浄土真宗の教えに背くからです。浄土真宗の信心は、自らのはからいをまじえず、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせるものです。したがって「いのる」必要がないと言えます。もし「いのり」を認めるならば、それは自己のはたらきを認めることとなり、他力の信心を否定することになります。
 浄土真宗のみ教えには、このようにいのり求めることを否定する明確な教理があり、親鸞聖人の著されたものの中には、「いのり」を積極的に使用した例を見ることはできません。ただ、性信坊に宛てられた消息の中に肯定的とも思われる使用例もありますが、「いのり」という言葉を「おぼしめす(お思いになる)」と表現し直されるなどさまざまな限定の中で使用されております。したがって、この用例をもって宗祖が積極的に「いのり」の使用を認められたとは到底言えません。
 つまり、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせる浄土真宗のみ教えの上では、決して神仏に対していのり求めるという意味の「いのり」は認められるものではなく、まずこのことを重く受けとめなければなりません。
 ところで昨今、さまざまな現代的課題に対して、全世界的な宗教者間の対話や協力が求められています。例えば、全宗教者が世界平和の実現を願うといった場合で「いのり(prayer)」という概念が用いられる場合、必ずしも神仏に願い求めるという意味ではありません。このように異なった背景を持つ言葉について、私たち浄土真宗の立場からどのように理解し、使用していくかは今後検討されるべき課題であります。現在グローバル化しつつある世界の中で、宗教間での対話が必要とされており、宗教的な言葉を厳密に規定していくことによって、さまざまな対話が可能になってくるのではないかと思います。 (浄土真宗教学研究所)


毎日新聞の「祈り」報道 /臨宗で緊急質問

 臨時宗会では、毎日新聞(12月10日付)の「祈り」についての報道に関して、出口湛龍議員(大阪)が緊急質問した。
 出口議員は、十月の提起宗会で、「他力本願」と「いのり」について通告質問した。今回の報道は、これに基いており、定期宗会での質疑応答と相違していることを指摘し、経緯と対応を質問した。
 説明(答弁)に立った大峯顯浄土真宗教学研究所所長は、(十月の)定期宗会後に同紙記者から電話取材を受けたことを述べ、宗教学の立場からは「“いのり”は宗教の原点であり、本質であると規定することができるが、神仏に祈願すると一般に受け止められている意味で、宗教の原点であると述べたわけではない。ましてや宗門で“いのり”が公認されたなどと申していない」と述べた。この後、武田昭英総務が答弁し、「浄土真宗の信心は、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせるもの。自らのはからいを交えないことであり、仏へ願い求める必要がないということである。この記事の『祈り“公認”』という見出しは不適切で混乱を招くものであり、教学研究所長の意図も正しく伝えられていない」と述べ、十一日に同社へ申し入れを行なったことや今後、諸機関で検討するなどと答えた。

 なお、この記事の中で――
もし「いのり」を認めるならば、それは自己のはたらきを認めることとなり、他力の信心を否定することになります。

とありますが、これは逆の意味で誤解を受けかねない言葉ですので、蛇足ながら少し解釈を進めてみます。
 ここで言う「いのり」・「自己のはたらき」というのは、<欲望を源としたはたらき>・<如来より回向された心ではないはたらき>という意味です。これは退転する心ですから、一貫性がなく決して往生・成仏の因とは<認められない>のです。

 しかし、自己にたまわる<如来より回向された心のはたらき>を否定しているのではありません。むしろ、ここにこそ教学の真骨頂が発揮されるべきでしょう。
「世界平和の実現を願う」というような意味の「いのり」は、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という聖人のお言葉同様、表層的な自己のはたらきを脱した願いですから、使用を止める必要はなく、特に他宗教者が使用した場合は、積極的に受け入れてしかるべきでしょう。そして、「宗教的な言葉を厳密に規定」した上で、歩みを共にしていくことが念仏者として望ましい姿であろうと思われます。

以上

◆ 経典等資料

資料1

五に「若念仏者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。すなはちその五あり。一にはもつぱら弥陀仏の名を念ずることを明かす。二には能念の人を指讃することを明かす。三にはもしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。ゆゑに分陀利を引きて喩へとなすことを明かす。「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四にはもつぱら弥陀の名を念ずるものは、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五には今生にすでにこの益を蒙りて、捨命してすなはち諸仏の家に入ることを明かす。すなはち浄土これなり。かしこに到りて、長時に法を聞き、歴事供養して、因円かに果満ず。道場の座、あにはるかならんや。

善導大師著『観経疏』 散善義 流通分 五種嘉誉 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 真仏弟子釈 に引用)

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
 『観無量寿経』の<もし念仏するものは>から<諸仏の家に生ずべし>までは、念仏三昧の功徳が超えすぐれていて、雑行とくらべることなどできないことをあらわすのである。この文は五つの内容に分れる。
 一つには、もっぱら阿弥陀仏の名号を称えることを明かす。
 二つには、その念仏の人をたたえることを明かす。
 三つには、念仏し続ける人はきわめてまれな尊い人であって、まったくこれとくらねられるものがないことを明かす。だから清らかな白い蓮の花によってたとえられているのである。白い蓮の花というのは、人の世に咲くすばらしい花であり、またたぐいまれな花であり、またすぐれた花であり、また美しい花である。この花は、古くからめでたい花といい伝えられている。すなわち念仏する人は、人々の中のすばらしい人であり、美しい人であり、すぐれた人であり、たぐいまれな人であり、もっともすぐれた人なのである。
 四つには、ひとすじに阿弥陀仏の名号を称える人には、観音・勢至がいつも影のようにつきそって護ってくださり、親しい友となってくださるということを明かす。
 五つには、この世ではすでにこのような利益を受け、命を終えれば仏の家、すなわち浄土に往き生れ、いつも尊い法を聞き、また仏がたの世界をめぐって供養し、成仏の因も果も満たされる。すなわち浄土に生れてさとりを開くことは決して遠いことではないことを明かす。

資料2

 舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説して、この言をなさく。〈釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ〉と。舎利弗、まさに知るべし、われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とす」と。

『仏説阿弥陀経』 流通分 より

▼意訳(現代語版より)
 舎利弗よ、わたしが今、仏がたの不可思議な功徳をほめたたえているように、その仏がたもまた、わたしの不可思議な功徳をほめたたえてこのように仰せになっている。
 <釈迦牟尼仏は、世にもまれな難しく尊い行いを成しとげられた。娑婆世界はさまざまな濁りに満ちていて、汚れきった時代の中、思想は乱れ、煩悩は激しくさかんであり、人々は悪事を犯すばかりで、その寿命はしだいに短くなる。そのような中にありながら、この上ないさとりを開いて、人々のためにすべての世に超えすぐれた信じがたいほどの尊い教えをお説きになったことである>
 舎利弗よ、よく知るがよい。わたしは濁りと悪に満ちた世界で難しい行を成しとげ、この上ないさとりを開いて仏となり、すべての世界のもののためにこの信じがたいほどの尊い教えを説いたのである。このことこそ、まことに難しいことなのである」

資料3

 くだらせたまひてのち、なにごとか候ふらん。この源藤四郎殿におもはざるにあひまゐらせて候ふ。便のうれしさに申し候ふ。そののちなにごとか候ふ。
 念仏の訴へのこと、しづまりて候ふよし、かたがたよりうけたまはり候へば、うれしうこそ候へ。いまはよくよく念仏もひろまり候はんずらんとよろこびいりて候ふ。
 これにつけても御身の料はいま定まらせたまひたり。念仏を御こころにいれてつねに申して、念仏そしらんひとびと、この世・のちの世までのことを、いのりあはせたまふべく候ふ。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせたまふべき。ただひがうたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じまゐらせたまふになり候ふべし。よくよく御こころにいれて申しあはせたまふべく候ふ。聖人(源空)の二十五日の御念仏も、詮ずるところは、かやうの邪見のものをたすけん料にこそ、申しあはせたまへと申すことにて候へば、よくよく念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあはせたまふべく候ふ。
 またなにごとも、度々便には申し候ひき。源藤四郎殿の便にうれしうて申し候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
 入西御坊のかたへも申したう候へども、おなじことなれば、このやうをつたへたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
                    親鸞
  性信御坊へ

『親鸞聖人御消息』(43)

▼意訳 (日本の名著6/中央公論社 より)
 鎌倉より郷里にお帰りになりましてから、なにか変ったことはありませんか。おん地の源藤四郎殿に思いがけず、お遇いいたしました。好便を得たうれしさのあまり、お手紙いたします。その後、なにか変ったことがありますか。
 念仏に関した訴訟のことが収まりました由、各地の方々から承っておりますので、たいそういれしく存じます。いまこそいよいよ念仏もひろまることであろう、と深く喜んでおります。
 それにつけても、あなたの、浄土に生まれる因はいまはっきりと定まりました。念仏をお心に入れて常に称えて、念仏をそしるような人々の、この世や、後の世までのことを、一緒に祈りあわせてください。あなたたちの、浄土に生まれる因が定まったいま、念仏をなにに役だてる必要がありましょう。ただねじけた世の人々のことを祈り、弥陀のお誓いに摂め取られるように、と思いあわせられますならば、それこそ仏のご恩を報じたてまつることになりましょう。よくよくお心に入れて念仏を称えあわせられてください。
 法然聖人のご命日の二十五日に行なわれるお念仏にしても、つまるところは、このような邪な考えの人をたすけるためにこそ、念仏を称えあわせてください、ということなのでありますから、よくよく念仏をそしる人が救われるようにとお考えになって、念仏を称えあわせられてください。
 またすべては、これまでたびたびお便りの折に申しました。源藤四郎殿の好便がうれしくて、記しました。謹言。
 入西御坊のほうにも申したいのですけれども、同じことですから、この手紙の内容をお伝えください。謹言。

資料4

 六月一日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては、鎌倉にての御訴へのやうは、おろおろうけたまはりて候ふ。この御文にたがはずうけたまはりて候ひしに、別のことはよも候はじとおもひ候ひしに、御くだりうれしく候ふ。
 おほかたはこの訴へのやうは、御身ひとりのことにはあらず候ふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このやうは、故聖人(源空)の御とき、この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず。性信坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念仏申さんひとは、みなおなじこころに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまうすべきことにはあらず候ふべし。念仏者のものにこころえぬは、性信坊のとがに申しなされんは、きはまれるひがことに候ふべし。念仏申さんひとは、性信坊のかたうどにこそなりあはせたまふべけれ。母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとにて候ふ。さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひしかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころにいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ
 御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候ふ。詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。
 なほなほ、疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。よくよく御こころにいれて、往生一定とおもひさだめられ候ひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、異事は候ふべからず。御念仏をこころにいれて申させたまふべしとおぼえ候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
   七月九日             親鸞
  性信御坊 783

『親鸞聖人御消息』(25)

▼意訳 (日本の名著6/中央公論社 より)
 六月一日付のお手紙、くわしく拝見しました。
 さて、鎌倉でのご訴訟の様子はおおかた、ほかから承っておりました。いただきましたこのお手紙どおりのことをかねて承っておりましたから、格別のことはよもやあるまいとは思っておりましたけれども、無事郷里にお帰りになれましたことをうれしく思います。
 大体、このたびの訴訟が起こったのは、あなたお一人にかかわることではありません。すべて浄土の念仏者に関係したことであります。またこのことは、故法然聖人ご在世のおん時、このわたしどももいろいろといわれたことで、こと新しい訴訟でもありません。ですから、性信房一人が処置しなければならないことではなく、念仏を称えようとする人はみな心を等しくして関係しなけれなならないことであります。あなた一人を笑ってすませることではないでしょう。念仏者のうち、道理のわからない人が、性信房の過失であるように責めを負わせなさるなら、それは、大変なまちがいでありましょう。念仏を称えようとする人は性信房の味方にこそなりあってくださらなければならないものでしょう。本人ばかりか、母・姉・妹などまでがさまざまにいわれることは昔からよくある事であります。だからといって、過去に念仏を停止されたことが、世に違法の起こることとはなったのですから、それにつけても念仏を深くたのんで、世の安穏ということに心をいれて、念仏を申しあわせていただきたいと思います
 お手紙の様子では、おおかたの訴訟に際して提出された答弁の書状、よくいろいろおはからいになりました。うれしいことです。詮ずるところ、あなたに限らず、念仏しようとする人々はご自分の浄土に生まれるためをお思いになることはなくても、天皇のおんため、国民のためにおたがいに念仏を申しあわせられるなら、結構なことでありましょう。浄土に生まれることをおぼつかなく思われる人は、まずわが身の浄土に生まれうることをお考えになって、お念仏なさってください。かならず浄土に生まれることができると確信する人は、仏のご恩を思われるにつけても、ご報恩のために、お念仏を心にいれて称え、世の中の穏やかであるよう、仏のみ教えのひろまるように、とお考えにならなくてはならないと思われます。よくよくご思案になってください。このほかには別のご分別が要るとは思われません。
 なおまた郷里にお早くお帰りになりましたことは本当にうれしく思われます。よくよくこのたびのことをお心にいれて、かならず浄土に生まれるものと思い定められますならば、仏のご恩をお考えになるには、別にほかのこととてはあるはずはありません。お念仏を心にいれてお称えになるとよろしいと考えます。謹言。



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