平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

現世での救い十種


質問:

 阿弥陀様の願いは、私を「浄土で仏にすること」と聴きました。私は浄土でしか救われないのでしょうか?
 また、現世での救いも10種あるそうですが、抽象的でよく解りません。わかり易く教えていただきたいのですが。



返答

 救いというのは、苦悩があってこそ意味をなすものですから、苦悩の全く無い浄土では救いは問題になりません。ですから、現世でこそ救いの意味を明らかにしていかねばならず、それは、つまり「正しい信心の生活とはいかなるものであるか」を聞き開いて実践していくことに他なりません。

 また「現世での救いも10種ある」という問題についてですが、この利益を明らかにすることが「正しい信心の生活」を明らかにすることであり、質問がとても的確な流れになっていますので、この流れで先の質問にも応えてみましょう。

◆ 現生十益

 親鸞聖人はこの利益(現生十益)について、以下のように述べられてみえます。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

[顕浄土真実教行証文類 信文類三(末) 現生十益]

――以下意訳―― (『聖典意訳 教行信証』に拠る)
金剛の信心を得たならば、他力によって、未来のさまたげとなる五趣・八難の道を超え、この世では、かならず十種の利益を得させていただくのである。何がその十であるかというに、
一つには、眼に見えぬかたがたのお護りを受けるという利益。
二つには、この上もない尊い功徳がそなわるという利益。
三つには、罪悪を転じて名号の功徳に一味になるいう利益。
四つには、諸仏に護られるという利益。
五つには、諸仏にほめられるという利益。
六つには、弥陀の光明におさめとられて常に護られるという利益。
七つには、心に法の喜びが多いという利益。
八つには、如来の恩を知って報謝の生活をするという利益。
九つには、常に如来の大悲をひろめる徳をいただくという利益。
十には、仏になることの定まった位に入るという利益である。

 このように聖人は「外からの摂護と内からの自覚および実践」をあきらかにしてみえるのですが、この中で最も重要なのは最後の『正定聚に入る益』で、先の9つはこの正定聚の利益を具体的に開いてみせたものです。またさらに言えば、正定聚の利益を得ることで、おのずと日々の暮らしに顕れてくるのが前の9つの利益で、これは実体験の中で味わって頂きたいと思います。
 なお、この説の論拠になっているのは、以下の経典の文です。

それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。

[仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 十一・十七・十八願成就]

――以下意訳―― (『浄土三部経 現代語訳』に拠る)
さて、無量寿国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものは生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏かたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて、信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

◆ 正定聚(不退転)に入る益

 この『正定聚に入る益』について、もう少し聖人の文に詳しく聞いてみることにしましょう。

 さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちか くましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじ位な れば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、こ の身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、 如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にそ の心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきと申すなり。 浄土真実のひともこのこころをこころうべきなり。
 光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、「信心のひとは、その心すでにつね に浄土に居す」(意)と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひと のこころつねにゐたり、といふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを 申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来と ひとしと申すこころなり。

[正嘉元年丁巳十月十日 親鸞より性信御房への手紙より]

――以下意訳―― (『日本の名著6 中央公論社』に拠る)
 さて『無量寿経』には、「弥勒につづくもの」といいますが、弥勒がすでに仏に近い位におられるので、諸宗では弥勒仏といいならわしています。ですから、浄土に生まれるときまった人は、弥勒と同じ位なのですから、如来と等しいというのです。浄土の真実の信心をえた人は、その身こそあさましい穢れと邪にまみれた身ではあっても、心はすでに如来と等しいから、如来と等しいということもあるのだ、とご承知ください。弥勒はすでにその心がかならずこの上ないさとりをうる境地に至っておられますから、弥勒が仏となった暁に、三度にわたって行われる弥勒の説法を「三会の暁」というのであります。浄土の真実に生きる人も、この意を心得ていることが必要です。
 光明寺の善導和尚の『般舟讃』には、信を得た人の、その心はすでに「常に浄土に居す」と解かれました。「居す」というのは、浄土に住している、という意味であります。これは、その人が弥勒と同じであることを語っています。またこれは、仏となることの約束された地位は弥勒と同じであるということによって、信心をえた人は如来と等しいという意味でもあるのです。

「信心をえた人は如来と等しい」ということについては、さらに『華厳経』にも書かれてありまして、聖人は同日の手紙で――

『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」 といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろ もろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみ ことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の 第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」(大 経・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下)には、「よろづの仏にほめられ、 よろこびたまふ」(意)とみえたり。
 すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらは ししるすなり。

[正嘉元年丁巳十月十日 親鸞より真仏御房への手紙より]

――以下意訳―― (『日本の名著6 中央公論社』に拠る)
『華厳経』に言われている、「信心歓喜するものはさまざまな如来と等しい」というのは、信心をえて喜ぶ人はさまざまな如来と等しい、ということであります。さまざまな如来と等しいというのは、信心をえてとくに喜ぶ人をいい、釈尊のお言葉には「見て敬いえて大いによろこぶならば、そのときこそ、その人はわたしの善い親友である」と説かれました。また弥陀の第十七の願には「十方世界の無量の諸仏が、ことごとくほめ讃えて私の名を称えないなら、さとりを開くまい」とお誓いになりました。さらに願の成就を示す文には、「すべての仏にほめられ、およろこびになる」と見えています。
 これらのことを、少しも疑ってはなりません。以上は如来と等しいという文などを明らかに記したものであります。

 このように、第十七の願によって、弥陀の本願が具体的な相となってあられてきます。この第十七願の重要性を強調されたのは親鸞聖人で、これは過去の諸師方と比較しても顕著です。

 ただ、以上のようなお諭しは、単に理論として検証するだけでは利益は得られず、自身が日常生活を営む中で、常に法に照らされ、わが身を知り、わが心に驚きながら深めていくものでしょう。
 そうした珠玉の人生こそ、本当の「現世での救い」であり、歴史上にその輝きを放っているのが、信心の畢竟の体現者である親鸞聖人でしょう。その主著である『顕浄土真実教行証文類』の最後には、聖人のあふれ出る思いが綴り出されています。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如 来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝 いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろふ。ただ仏 恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんも の、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕 さんと。

[顕浄土真実教行証文類 化身土文類六(末) 後序より]

――以下意訳―― (『聖典意訳 教行信証』に拠る)
慶ばしいことには、心を広大な本願の仏地に樹て、念を不思議な法海にはせている。深く如来のお慈悲を知り、まことに師匠のご恩の厚いことを仰いで、慶びいよいよ深く、感謝の思いがますます重い。そこで真宗をあらわす御文を鈔(ぬ)き出し、浄土の法の要を集めたものである。ただ仏恩の深いことを思って、世の人の嘲りをかえりみない。もしこの書を見られる人は、信順するのを因とし、たとい疑い謗(そし)ってもそれが縁となって、いつかは願力を信じ、安養浄土に往生して妙果を得るであろう。

※ 後に{正定聚・不退転の菩薩について}を掲載しました。


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