平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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お盆の帰省の時期に友人に聞いたのですが、浄土真宗の概念には本当はお盆の概念は無いと聞きました。
何故ならば体が滅んだ後は魂や霊魂になる概念がなく、全て仏になるから。と言っていたのですがそれは本当でしょうか? ならば亡くなった人の気持は現世に残ることは無いのでしょうか??
本当に基本的な質問でごめんなさい。
ご質問は、基本的ではありますが、浄土真宗の今後の伝道方針として重要な事柄が含まれていますので、お応えする良い機会をいただけたと思います。
今回述べさせていただくお盆につきましては、[お盆を迎えて] に基本的な経典や味わいの方向性を書き、[お盆について] に追加の説明を入れましたので、まずは参考にして下さい。
また、魂や霊魂の問題につきましては、[空の概念と虚無の概念の違い]、[魂という概念]、[六道輪廻と浄土について] に掲載してありますので、一度ご覧下さい。
> 浄土真宗の概念には本当はお盆の概念は無いと聞きました。
このように語られる友人の意図はよく分かります。おそらく、<お盆よりお彼岸や報恩講が重要>とも仰ったのではないでしょうか。しかし、学びを深めると、<そのような断定に留まることは、決して仏の本意ではない>ということも、よく認識できると思います。
「お盆は念仏の味わいを深める大切な行事である」と、まずはお心得下さい。
ちなみに本山では、8月14日と15日に本堂と御影堂において「二門偈作法」「漢音小経」「往生礼讃偈」「讃弥陀偈作法」が勤まります。お盆は明治時代には歓喜会と呼ばれていたように、故人を追憶しつつ、共に阿弥陀如来の摂取不捨のはたらきを喜ばせていただく行事なのです。
ご友人は、一般常識として語られるお盆の行事は、迷信的な霊魂観が入り込み、仏教本来の意図を外れてしまっている、ということを懸念されるのでしょう。これはよくよく注意しなくてはいけません。特に追善の意味で営むことは、教えを矮小化し、ねじ曲げることにつながってしまいます。本当の如来の直説によれば、ご先祖様方は追善の必要など無い浄土に往生されて、仏として私たちを見守ってみえるのです。
また、全ての念仏の行者は、その人生をまっとうした時、まことのいのちに還らせていただけますので、むしろ生前の気持を子孫はより深く味わうことができるのではないでしょうか。私たちは霊魂などという固定的実体を想定して執着することなく、亡き人の一生を貫いていた尊いはたらき、本当のいのちを拝むことができるはずです。
なお、「浄土真宗の概念には」とありましたが、これは「仏教本来の概念には」とも言えます。念仏は仏教の本質であり、長い時を経て民衆に試され、永い思惟を重ねて純化して仕上がった究極の教えです。他宗旨や浄土三部経典以外に示されている教えについては、浄土の本質まで純化していなくても、やはり仏の教えとして学ぶべきで、決して否定などしてはいけないのです。
親鸞聖人も『顕浄土真実教行証文類』において、実に多数の経典や論釋を引用されてみえますが、この仏教本来を求めるお心を味わうべきでしょう。多くの経論釋を、阿弥陀如来の本願成就のいわれに寄り添い、念仏を称えながら学んでゆくことで、あらゆる仏教の道・法門が、その本質を示すことになるのです。
『盂蘭盆経』を、念仏の心で読むと、どのような味わいになるでしょうか。
単に、餓鬼道に落ちた母親を施餓鬼・布施の行で救った目連の物語、とすれば、これは迷信そのものになってしまいます。しかし、この物語が、「僧自恣(修行の自発的な反省)」という慚愧を前提に書かれたものであり、その中で「育てられた恩に報いなさい」と示しがあることを鑑[かんが]みると、魂や霊魂の有無に関わらず、私自身の育ちの中で、いかに親を踏み台にしてきたか、と懺悔する縁と味わえ、仏道の成就をはかる行事として、念仏者にも勉強としては大いに勧められる経典ではないでしょうか。
親は子を育てるために、どうしても偏った愛情を注がねばなりません。「わが子だけは」という思いが、どんな親にも芽生えてくるのです。これは単なる利己主義以上の自己中心性を発揮することとなり、布施の心からは大きく離れかねないのです。こうして育てた子どもですが、やがてこの餓鬼性を親だけに押し付けて、自分は罪一つ持っていないような顔をする。あえて罪にまみれて育てていただいた大恩ある親を馬鹿にし、否定する。
そうした思い上がりを持ったまま、理想論ばかりを他に押し付けて、自己反省を疎かにしている人をしばしば目にすることがあります。六神通を得るほどの修行を行なった目連ですが、そうした思い上がりと全く無縁でなかったのかも知れません。それがために、親が餓鬼となって苦しむ姿を目の当たりにしたのでしょう。親が餓鬼の姿に見える、ということは、今まで親を餓鬼として見ていた、という証拠でもあります。そして同時に、自己の餓鬼性についてもよくよく認識したことでありましょう。
そうした経緯を見られた上で、釈尊は七月十五日に行なわれる僧自恣という修行の反省会に向けて――
結局、目連は、母への想いをきっかけに、母の餓鬼性の原因が自分にあることを知ったのです。そして、偏った愛から純粋な愛を見いだし、罪としての愛から菩提心を見いだす愛へ転じてゆきます。それが慈悲の心であり、その心を引き出したのが、広く施す供養だったのです。
こうして、自己の餓鬼性を反省する中で、他人の餓鬼性を許し、互いに語り合える場を設けるのがお盆なのです。ですから、この時期に皆が集まり仏法を聞き開くという行事を、無理に否定する必要はありません。せっかくのご縁を無駄にすることなく、如来のお心と、先人達の苦労に思いを馳せていただきたいと思います。
もちろん、この経典に執着して留まってしまっては仏道成就はおぼつきませんが、念仏の味わいを深める縁として尊んでいただきたいのです。
> 亡くなった人の気持は現世に残ることは無いのでしょうか??
亡くなられた人のお気持ちは、当然、残された人たちによって受け継がれていきます。霊魂の有無を論じなくても、先人たちの思いは、私たちの胸に刻みつけられています。大きく言えば、私たちの身心の底の底には、過去無限のいのちの思いがつながっているのです。
ただし、<どんな思いも私たちが背負うべきだ>とは言えないでしょう。下手をすれば、憎しみの気持ちまで受け継ぐことになります。実際、歴史的に憎悪を保ち、増幅して、民族や宗教の争いが絶えないのが現実の社会です。
仏教では「亡くなった人の気持を現世に残す」ことは、あくまで浄土の菩提心に立脚してのことです。常に浄土に浄化された思いが社会を照らすのです。
『安楽集』にいはく(上)、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末) 後序 より
▼意訳(現代語版より)
『安楽集』にいわれている。
「真実の言葉を集めて、往生の助けにしよう。なぜなら、前に生れるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。それは数限りない迷いの人々が残らず救われるためである」
このように歴史がつながっていけば、年を経るごとに心豊かな社会が生み出されていくはずなのです。しかし、親子の断絶や、仏教伝道の力不足がこの導きを阻んでいます。
ぜひ多くの機会を見つけて、仏心・菩提心の連続無窮の求めをつなげていきたいと思います。