平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:
お盆についてのしつもんです。 |
このご質問はおそらく お盆を迎えて 「餓鬼道からの解脱を喜ぶ行事」 の記事を見られてのことと思いますが、これからお答えすることは、世間一般で語られている「常識的なお盆のとらえ方」とはかけ離れた内容になるかと思いますので、もう一度記事を御覧になって頂きまして、その上でこちらの説明に目を通して下さい。
まず「お盆は正確には何日から何日まででしょうか?」というご質問ですが、「盂蘭盆経」では「7月15日」と明記されています。これを旧暦で行うか新暦でするのかで、日が違ってきますが、浄土真宗本願寺派では8月14日、15日に本山で法要が営まれます。
一般の寺では、宗旨宗派によっても違いますが、7月中旬から8月中旬にかけて、特に8月13日〜15日に各家へのお盆参りをする件数がピークになります。
ただ、「正確に」ということになりますと、「どのようにしてご先祖様をお迎えすればいいのでしょうか?」という質問とも絡んできますが、一般常識と仏教(本来)の見解は基本的にずれていますので、そのことを話させて頂きます。
おそらく一般的には「お盆の時期にご先祖様が家に帰ってみえるから、おもてなしをして帰って頂く」もしくは「施餓鬼の追善供養をして、ご先祖様を少しでも助ける」といった見方をされているのではないでしょうか。
これを“完全な誤りである”と、否定することは出来ませんが、「基本的な受け取り方がずれている」とは言えます。というのも、「お盆の時期にご先祖様が家に帰ってみえる」ということが、果たしてあるのかという問題です。
もし「ご先祖様一人一人に個別の魂が存在して、その魂がお盆の時期に特別に帰ってくる」という話であればそれは間違い、というか作り話に過ぎません。(魂の問題につきましてはおなじ質問コーナーの『魂という概念』 で詳しく述べられていますので参考にして下さい)
仏教は本来「生きとし生けるすべての者を最高の覚りに導く実践法」でありまして、基本的に、生きている者のための教えで、「ご先祖様のためにあげるお経」では本来ありません。
たとえば歎異抄の中に
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」とあります。
「そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この準次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり」と、明確に述べられている通り、“自分たちだけの先祖を供養する”という考え自体が、小さな世界に囚われた考えであって、教えに出会った者が次々仏と成り、すべての者が救われる事を喜んでこそ仏事、法要と言えるわけです。
「盂蘭盆経」の中では“餓鬼道におちた亡き母”や“布施による救済”が語られますが、これらすべてが“まず自分自身の問題”であることをはっきり認識しなくてはいけないでしょう。
仏であるはずの母が餓鬼の姿で現れたのは、子供(私)が育つ過程で、親や周りの人々に仕向けた自身の罪悪の姿をあらわしたものではないでしょうか。またそれは、今現在も変わらぬ私の姿であるかも知れません。そしてそんな私が救済されるとすれば“すべての者と苦難を共にし、教えををわかちあう”ことでしか達成されないことを布施の形で示しています。
ご質問の答えになったかどうか分かりませんが、「ご先祖様のお迎えの仕方」というのも、『作法』にこだわるより前に、“私が今、仏様、ご先祖様のお陰でいのちを頂き、教えにも恵まれた喜びを感謝する”ということと、“皆共に救われよう”と、自らの生き方を万人に開いていく、『心構え』が肝心だろうと思います。
なお、お盆の『作法』というのは、宗旨宗派で異なっていますので、それぞれのご縁のお寺さんに聞いて下さい。ちなみに浄土真宗ではお盆に特別な行事はしませんので「浄土真宗は楽だ」などと揶揄されることもありますが、本当は「常と変わらず仏法を聞きひらいてゆく」ということなのです。
(※ その他参照: 浄土真宗のお盆)