平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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先日聞いたお葬式のご法話の中で、故人はお浄土へ往かれ仏となり、そして菩薩となってこの世へ還ってきて、私たちをお浄土へと導いて下さる、ということをお話されていました。(多分、だいだい)
それで質問なのですが、何故、仏さんのままではなく、わざわざ菩薩となって還ってくるのですか?
還相の菩薩、というのがそれだと思うのですが、その必然性というか、仏ではいけない理由でもあるのでしょうか? 教義的なところでもどのような解釈があるのか、教えていただければと思います。宜しくお願いします。
まず、「還相の菩薩」について、以前「父母のために念仏したことはない」の真意 に引用したものを、再び掲載させていただきます。
親鸞聖人の往還(オウゲン)二種回向説は、曇鸞大師の『論註(ロンチュウ)』によられていた。しかし意味を変えて用いられていることに注意しなければならない。すなわち曇鸞大師の場合、回向する主体はいずれも願生(ガンショウ)の行者であった。
<中略>
もっとも曇鸞大師は、行者がこのような往相、還相の回向を行うことができるのは、阿弥陀如来の本願力が増上縁(ゾウジョウエン)として加わるからであって、行者の自力によってなしうることではないといわれていた。
ところが親鸞聖人は、二種の回向の主体を如来とし、願生の行者はその客体とみなされていた。煩悩(ボンノウ)具足の凡夫を往生成仏させる如来の本願力のはたらきを往相回向といい、往生して仏陀(ブッダ)としてのさとりを完成したものが、十方世界にあらわれて自在に迷えるものを救済する還相も、阿弥陀仏の本願力のなさしめたまうわざであるとして、これを還相回向といわれたのであった。すなわち往還(オウゲン)するのは行者であるが、往生の因果である往相を回向するのも、また還相を回向するのも阿弥陀仏なのである。そのことを聖人は「本願力の回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり」(浄土真宗聖典注釈版478頁)といわれたのである。
その往相について「真実の教行信証あり」(同135頁)といわれる。それは浄土に往生していく因果の相だからである。・・・『大無量寿経』という真実教によって、南無阿弥陀仏が往生成仏の大行であると信じて称える行と信を与え、この行信を因として涅槃の浄土へ往生し成仏する証果を与えていくから往相回向というのである。
また還相は、本来は浄土から穢国(煩悩の境界)へ還り来って利他教化をするから還相というのであった。しかし親鸞聖人の「証文類」における還相の釈をみると、浄土に往生して仏果(ブッカ)をきわめたものが、果より因に還り、菩薩としての相を示現していくこと(従果還因(ジュウカゲンイン)の相)を還相といわれたというべきであろう。
<中略>
『浄土和讃』には「普賢の徳に帰してこそ、穢国にかならず化するなれ」(同559頁)と讃嘆されているが、そこに、
「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲を普賢とまうすなり」
という左訓(サクン)が施されている。これによって普賢菩薩のように従果降因(果より因に降る)のすがたをとって人々を教化するところに仏陀の慈悲の具体的な顕現があるとみて、それを還相とされていたことがわかる。
こうして還相とは、仏陀としてのさとりを極めた者が菩薩となって自利利他を実践することであるが、それはちょうど観世音菩薩が、千変万化しながら衆生を教化していくように、普門示現(フモンジゲン)する(あらゆるものに変化し、あらゆる手段をつくして人々を救う)ことをいうのである。そうなれば、この世にあって確実に還相の菩薩ではないと断言できるのは自分だけであって、この私をとりまく一切の人も動物も、還相の菩薩の化身(ケシン)である可能性を否定することはできないであろう。
梯實圓 著『浄土真宗の教え』往相と還相 より
親鸞聖人は、阿弥陀如来の誓願により、仏果をきわめた人が、その結果より原因に還って菩薩としての相を示される(従果降因)のを「還相の菩薩」といわれたのです。つまり、私たちの周りには、仏としての本来を顕すために存在している生命であふれているのであり、この道理を受け入れることができれば、一切のいのちを還相の菩薩の化身として拝むことができるのです。
もちろんそれは、阿弥陀如来の名号の徳が人を通して世に弘まる活動が前提で、本願力自然によるはたらきとはいえ、念仏者の責務は果てしなく重いものであるという認識は忘れてはならないでしょう。
浄土に還られた方が「仏」と成られるのは、阿弥陀如来第十一願「必至滅度の願」の成就ゆえ、現生正定聚の身として念仏とともに歩む人々には疑うべくもありません。しかし問題は、現実に生きる私たちとの関係においては、先人には仏としてでなく、まず菩薩として関わる中でその徳をいただくことができる、ということが重要なのです。つまり、完成された仏として高みに仰ぐ中では、生死に限らずその人を偶像化することになってしまい、肝心な<私のいのちを成就させる>という課題に関わることにはなりません。その人との思い出を「菩薩と共に歩んだ日々」として想い返し、また今もなお課題を背負ってみえる菩薩として拝む中でこそ、私を救う仏の正体が具体的に顕れてくるのです。
つまり、共に人生を成就させてゆく歩みの中で、過去においてはもちろん、現在においても菩薩としての姿をとることで先人は私と関わる機会を持つのですが、その正体が仏であるということもやはり真で、それ故に私たちは安心して日々精一杯の歩みを進めることができるのです。
さて、この如来と菩薩の関係ですが、阿弥陀仏と法蔵菩薩の関係においても、顕著に見ることができます。
阿弥陀に帰命する能帰の主体が法蔵、法蔵をとおして阿弥陀に帰命するのであって、法蔵をとおさずに阿弥陀に帰命するのは偶像崇拝の迷信とかわらない。
曽我量深『鸞音抄』より
法蔵菩薩は、ご本願を味わう 第一願 の最後にも詳説してありますが、仏が仏としての本領を発揮し衆生を済度するために、一人ひとりに宿り、かつ一切衆生を背負って活動するために、願いという形ではたらいてみえる仏なのです。
そしてこの「願い」は、単なる希望や欲望とは次元が異うということを知るべきでしょう。
欲はできればよいが、できねば仕方がないとあきらめることができる功利的な願いである。それに対して願いは場所的な自覚で、自分が置かれている場所からは辞職はできぬ。なれてもなれんでも、なるより外に道がない。道は唯だ一つ、前進あるのみ。今までの人は、四十八願はまだ仏になっていない法蔵菩薩であると思われていた。それを、親鸞聖人が根底からくつ返して、阿弥陀仏が法蔵菩薩という形をとって発こされた、仏の願いである、仏であるから仏になりたい、それが四十八願であると、見開かれたといっておられるのです。
<中略>
しかし、親鸞聖人はさらに四十八願全体が浄土の働きを現わすものであるといっておられるのです。親鸞聖人に『入出二門偈』という書物があります。それに、昔から仏法不思議ということをいわれているが、その中に仏土不思議がある。その仏土不思議の中に、二種の不思議力がある。一つには法蔵の願力、二つには弥陀の仏力である。浄土は法蔵の願力によって支えられて、常に新たである。また弥陀の仏力によって、浄土が浄土としての働きを現わすのである。また衆生についていえば、浄土に往生して正定聚不退転の位に住するのは、法蔵の願力によってであり、不退転の菩薩としての生活ができるのは、弥陀の仏力によってである。この願力と仏力は、互いに持ちつ持たれつとして常に助け合って働いているのであるが、この二つの働きは共に安楽浄土の土徳を現わすものであるといっておられるのです。これは曇鸞大師の説ですが、『阿弥陀経』にも、浄土の種々の功徳と、阿弥陀仏に光明無量、寿命無量の徳のあることを説いて、「舎利弗よ、極楽国土にはこのような功徳荘厳を成就している」と説かれています。
島田幸昭『仏教開眼四十八願』より
如来は常に、私と日々新たな関係を構築するため、菩薩の願いにたちかえって活動されてみえます。これが我が身に満ちてはたらき、一切衆生に開かれていくのです。
以下、様々な資料を紹介しますので、還相の菩薩について、学びを深めてください。
たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願(第二十二願) より
▼ 意訳(現代語版)わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、その菩薩の願によってはその限りではありません。 すなわち、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させようとするものは別であって、菩薩の通常の各段階の行を超え出て、その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
別訳:わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。 ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。 すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。
親鸞聖人著『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 還相回向釈 より
▼ 意訳(現代語版)二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。これは必至補処の願(第二十二願)より出てきたものである。この願をまた一生補処の願と名づける。また還相回向の願とも名づけることもことができる。
出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通をもつて教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑなり。これを出第五門と名づく。菩薩は入の四種の門をもつて自利の行成就す、知るべし。菩薩は出の第五門の回向をもつて利益他の行成就す、知るべし。
天親菩薩 著『往生論』 より
▼意訳(聖典意訳 七祖聖教 上) 出の第五門というのは、大きな慈悲をもって、すべての苦しみ悩む衆生を見て、それに応ずる済度の身をあらわし、迷いの世界にかえって来て、神通力をもって自在に衆生化益の事をする。これは本願力の回向すなわち五念門中の第五門の利他回向の功徳によるからである。これを出の第五門と名づける。
菩薩は、五念門の中の前の四念門によって自利の行が成就する。またこれらの菩薩は、第五門の功徳によって利他回向の行が成就する。
世親菩薩(天親)は、大乗修多羅の真実功徳によりて、
一心に尽十方不可思議光如来に帰命せしめたまへり。
無碍の光明は大慈悲なり。この光明はすなはち諸仏の智なり。
かの世界を観ずるに辺際なし、究竟せること広大にして虚空のごとし。
五つには仏法不思議なり。このなかの仏土不思議に、
二種の不思議力まします、これは安楽の至徳を示すなり。
一つには業力、いはく法蔵の大願業力に成就せられたり。
二つには正覚の阿弥陀法王の善力に摂持せられたり。
女人・根欠・二乗の種、安楽浄刹に永く生ぜず。
如来浄華のもろもろの聖衆は、法蔵正覚の華より化生す。
親鸞聖人 著『入出二門偈頌』 より
「回向」に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。「往相」とは、おのが功徳をもつて一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり。「還相」とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那を得、方便力成就すれば、生死の稠林に回入して一切衆生を教化して、ともに仏道に向かふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがためなり。このゆゑに「回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」といへり。
曇鸞大師 著『往生論註』 巻下 より
▼意訳(聖典意訳 七祖聖教 上)回向に二種の相がある。一つには往相、二つには還相である。往相というのは、自分の修めた功徳をもってすべての人に施し、願をおこして共々に、彼の阿弥陀如来の安楽浄土に生まれようと願うことである。還相とは、かの浄土に生まれた後に、作願・観察の自利が成就し、利他の方便力を成就することを得て迷いの世界にあらわれ、すべての衆生の苦しみを済度して仏道に向かわせることである。往相であっても、還相であっても、みな衆生の苦しみを除いて迷いを渡らせるためである。こういうわけで、「回向を首と為して大悲心を成就することを得る故[ことがら]なり」といわれたのである。
なんらか二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、向に説くがごとき十七種の荘厳仏土功徳成就なり。これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごとき八種の荘厳仏功徳成就と四種の荘厳菩薩功徳成就となり。これを衆生世間清浄と名づく。かくのごとく一法句に二種の清浄を摂す、知るべし。
それ衆生を別報の体となし、国土を共報の用となす。体・用一にあらず。ゆゑに「知るべし」といふ。しかるに諸法は心をもつて成ず。余の境界なし。衆生および器、また異なることを得ず、一なることを得ず。一ならざればすなはち義をもつて分つ。異ならざれば同じく「清浄」なり。「器」とは用なり。いはく、かの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに名づけて器となす。浄食に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに食また不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに器また不浄なるがごとし。かならず二ともに潔くしてすなはち浄と称することを得。ここをもつて一の清浄の名にかならず二種を摂するなり。
問ひていはく、衆生清浄といふは、すなはちこれ仏(阿弥陀仏)と〔浄土の〕菩薩となり。かのもろもろの人天も、この清浄の数に入ることを得やいなや。答へていはく、清浄と名づくることを得れども、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘となし、凡夫の出家のものの、持戒・破戒もみな比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子の初生の時に、三十二相を具してすなはち七宝の属するところとなる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王となるべきをもつてのゆゑなり。かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに清浄と名づくることを得るなり。
曇鸞大師 著『往生論註』 巻下 より
▼意訳(聖典意訳 七祖聖教 上)何等か二種なる。 一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。 器世間清浄とは、向きに説ける十七種の荘厳仏土功徳成就、是れを器世間清浄と名づく。 衆生世間清浄とは、向きに説ける如き八種の荘厳仏功徳成就と四種の荘厳菩薩功徳成就、是れを衆生世間清浄と名づく。 是くの如く一法句に二種の清浄を摂すと知るべし。
さて衆生は各別の業によって報われた主体であり、住むところの国土はみな共通の業によって報われて用いられるものである。その衆生と国土とは、一つでないから「知るべし」というのである。しかしながら、淨土のあらゆるものは、みな法蔵菩薩の願心より成就されたものであって、そのほかのものではない。衆生とその器である国土とは、異でもなく一でもない。一でないから衆生と国土とに義を分かつ。異でないから同じく「清浄」というのである。「器」とは用いるものである。すなわち、淨土はかの清浄なる衆生が用いるところであるから、名づけて器とするのである。浄らかな食物に器物を用いたならば、器物が不浄であるから食物もまた不浄となる。不浄の食物に浄らかな器物と食物とが用いたならば、食物が不浄であるから器物もなた不浄になるようなものである。かならず器物と食物とが共に浄らかであって、そこで清浄ということができる。こういうわけであるから、いま、一つの清浄という名の中に衆生と国土との二種をおさめるのである。
問うていう。いま衆生世間清浄といったのは、阿弥陀仏と淨土の菩薩とである。かの浄土の人天も清浄衆の数の中に入るのかどうか。
答えていう。清浄と名づけることはできるが、実の清浄ではない。
たとえば出家の聖者は、煩悩の賊を殺しているから名づけて比丘とするのであるが、まだ煩悩の賊を除ききらぬ凡夫の出家で持戒の者も破戒の者も、また比丘と名づけるようなものである。
また灌頂王子すなわち転輪王の王子は、初めて生まれたときに三十二相をそなえて七宝を所有している。
そこで、まだ転輪王のする仕事はできぬけれども、また転輪王と名づけるようなものである。
それは、あとにはかならず転輪王となるからである。
かの浄土の人・天もまたこの通りであって、みな大乗の正定聚には入ってついには清浄法身を得るのであるから、清浄衆と名づけることができるのである。
なお、意識して合わせたのではないのですが、本日同時にアップすることになりました聞法ノート 第一集 12『還相の仏』 には、還浄された肉親への思いが、教えにうなずいてゆく中で語られています。