平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「父母のために念仏したことはない」の真意

「一子地」と「回向」の主体から

質問:

 親鸞聖人は、父母のために念仏したことはないとおっしゃったそうですね。念仏は阿弥陀如来からいただくものだから他人に振り向けることはできないと。しかし、人間は自分のことだけで苦しむばかりでしょうか? 愛する人の不遇を、愛するがゆえに、自分も同じに苦しむ事もあります。自分ではその人を救えない。そして、その愛する人は阿弥陀如来の本願に気づくすべもないとしたら? このような場合、「愛する人の苦しみ」に対して、浄土真宗はどう対処せよと教えられるのでしょうか?「愛する人の苦しみ」を苦しむ気持ちさえ、自己中心的な煩悩である、と片付けられるのでしょうか?

返答

『歎異抄』は、唯円が「先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎」いて、「耳の底に留むるところ」を著したもの、と伝わっています。ところが『歎異抄』の多くの論法が、一見不道徳で非常識な文を頭に置き、後にそれを包み込んで余りある世界を提示する格好になっているのです。これは高度な文章のテクニックで、現代にも通じる用法となっていて非常に魅力ある書物ですが、単独で読むと誤解も生じやすい本ですので注意が必要です。親鸞聖人の著書が引用文を多用した上で論を進められているのと対照的ともいえるでしょう。

 後に蓮如上人は「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり」と、真剣に仏法を聞く機縁が熟していない者に見せることを禁じました。そこで実質上、明治時代になるまで一般の人がこれを読む機会は無かったのです。それほど扱いと解釈に注意を要する書ですので、一旦読まれたからには、そこに込められた真意をしっかり受け取って下さい。

◆ 歎異抄より

「父母のために念仏したことはない」という一文は、それだけを読みますと随分薄情に映りますが、真意はもっと深いところにあります。まずは原文と訳を見てみましょう。

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

『歎異抄』(5)

――脚註――
孝養
ここでは追善供養のこと。
世世生生の
何度となく生れ変る間の。
順次生
現在の生が終って次に受ける生。
業苦
悪業の結果として受ける苦悩。
神通方便
自由自在な力をもってする衆生救済のてだて。
有縁
自分に関係のある者。
度す
済度する。すなわち迷いの世界(此岸)の衆生をさとりの世界(彼岸)にわたすこと。

――以下意訳―― (現代語版)
 親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かつて一度もありません。
 というのは、命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中で、父母であり兄弟姉妹であったのです。この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならないのです。
 念仏が自分の力で努める善でありますなら、その功徳によって亡き父母をも救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。
 自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。
 このように聖人は仰せになりました。
 ここでは「父母のために念仏したことはない」という理由が二つ顕されています。

◆ 「一子地」を目指す

 第一に、長い歴史を顧みると衆生はみな親子兄弟であり、「いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり」<この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、どの人をもみな救わなければならないのです>とあります。
 他の聖教も含めて検証してみますと、つまり、信心は「一子地」を得ることであり、一般には初地(歓喜地)の菩薩の境地です。これは「すべての衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこす位」であり、親鸞聖人は、「怨親を平等にみそなわす仏心のこと」とされてみえます。

大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈


――以下意訳―― (現代語版)
大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。
 また仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

 上は『涅槃経』(師子吼品)を引用した文ですが、『浄土和讃』におきましては――

平等心をうるときを
一子地となづけたり
一子地は仏性なり
安養にいたりてさとるべし

親鸞 著『浄土和讃』(92)諸経意

――脚註――
平等心
愛情をこえた怨親平等の心をいう。
一子地
「三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本左訓)

と、すべてのものにわけへだてなく慈悲を起す心こそ念仏のはたらき、と味わわれてみえますから、<自分の父母だけを救済するために念仏する>というのは<我執の延長でしかない>と、見抜かれていたわけです。

 この「一子地」について梯實圓氏は――

オギャーと生まれてきて、すぐにそのまま死んで、社会のためにはなんの役にも立たなかった赤ちゃんであったとしても、<中略>あるいは老人性痴呆になって、もうほうんとうに自分自身も見失ってしまい、また人にもずいぶん迷惑をかけているような状態となった、その人の「いのち」に向かっても、あなたが生きていることは素晴らしいことなんですよということが言えるような「いのち」を見つめる眼を養うこと、それが仏さまの教えによって教育を受けていく人間の目指すものじゃないかと思うのです。
<中略>
一子地の実現を目指していく人間なら、絶えず愛憎のなかに埋没して自分の都合だけでものを考えそうになっていく自分を、いつも仏さまの言葉で呼び覚まされながら、ああ申しわけないことだな、仏さまの子に向って憎しみをいだいたり、ましてその死を願ったりすることは絶対許されないことだということをつねに呼び覚まされていかなければならないと思うんです。怨親平等の浄土を約束された念仏者は、その生涯を貫ねく課題を与えられているものだということもできましょう。

梯實圓 著『ゆたかな老いと死』

等、述べられてみえます。
 完全な一子地に到達することを目指す、そのはたらきこそが念仏の心でありましょう。

◆ 回向の主体と客体

第二に、「わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ・・・」<念仏が自分の力で努める善でありますなら、その功徳によって亡き父母をも救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません>という理由が挙げられています。

 この部分も重要なのですが、実は常識的な論理では中々理解し難いところでもあります。これは「回向」という問題が関わってきますので、同じく梯實圓氏の文から目を通して下さい。

 親鸞聖人の往還(オウゲン)二種回向説は、曇鸞大師の『論註(ロンチュウ)』によられていた。しかし意味を変えて用いられていることに注意しなければならない。すなわち曇鸞大師の場合、回向する主体はいずれも願生(ガンショウ)の行者であった。
<中略>
もっとも曇鸞大師は、行者がこのような往相、還相の回向を行うことができるのは、阿弥陀如来の本願力が増上縁(ゾウジョウエン)として加わるからであって、行者の自力によってなしうることではないといわれていた。
 ところが親鸞聖人は、二種の回向の主体を如来とし、願生の行者はその客体とみなされていた。煩悩(ボンノウ)具足の凡夫を往生成仏させる如来の本願力のはたらきを往相回向といい、往生して仏陀(ブッダ)としてのさとりを完成したものが、十方世界にあらわれて自在に迷えるものを救済する還相も、阿弥陀仏の本願力のなさしめたまうわざであるとして、これを還相回向といわれたのであった。すなわち往還(オウゲン)するのは行者であるが、往生の因果である往相を回向するのも、また還相を回向するのも阿弥陀仏なのである。そのことを聖人は「本願力の回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり」(浄土真宗聖典注釈版478頁)といわれたのである。
 その往相について「真実の教行信証あり」(同135頁)といわれる。それは浄土に往生していく因果の相だからである。・・・『大無量寿経』という真実教によって、南無阿弥陀仏が往生成仏の大行であると信じて称える行と信を与え、この行信を因として涅槃の浄土へ往生し成仏する証果を与えていくから往相回向というのである。
 また還相は、本来は浄土から穢国(煩悩の境界)へ還り来って利他教化をするから還相というのであった。しかし親鸞聖人の「証文類」における還相の釈をみると、浄土に往生して仏果(ブッカ)をきわめたものが、果より因に還り、菩薩としての相を示現していくこと(従果還因(ジュウカゲンイン)の相)を還相といわれたというべきであろう。
<中略>
『浄土和讃』には「普賢の徳に帰してこそ、穢国にかならず化するなれ」(同559頁)と讃嘆されているが、そこに、
「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲を普賢とまうすなり」
という左訓(サクン)が施されている。これによって普賢菩薩のように従果降因(果より因に降る)のすがたをとって人々を教化するところに仏陀の慈悲の具体的な顕現があるとみて、それを還相とされていたことがわかる。
 こうして還相とは、仏陀としてのさとりを極めた者が菩薩となって自利利他を実践することであるが、それはちょうど観世音菩薩が、千変万化しながら衆生を教化していくように、普門示現(フモンジゲン)する(あらゆるものに変化し、あらゆる手段をつくして人々を救う)ことをいうのである。そうなれば、この世にあって確実に還相の菩薩ではないと断言できるのは自分だけであって、この私をとりまく一切の人も動物も、還相の菩薩の化身(ケシン)である可能性を否定することはできないであろう。

梯實圓 著『浄土真宗の教え』往相と還相 より

 仏教において「救済・済度」と言った場合、それは必ず「往生・成仏」が前提であり、中途半端な手助けは救済とは言いません。そうしてみると、自分の意志や智慧で成仏する力があり、なお余りがあるなら、その功徳を他者に振り向けることもできますが、自分さえ成仏できない者が父母を追善供養し成仏せしめる力などあるはず無いのです。私たちの供養は、みずからを謙虚にし、相手を尊敬することで適うことでしょう。


一見して、死者を弔い、冥福を祈るという行為は善なるものと考えられやすいが、自分の力でもって死者を救おうとする考え方は、自分にそれだけの力があるということを前提としなくては成立しないから、これは明らかに自分へのうぬぼれと言わざるをえない。救いは仏からのものであって、みずからが仏になることなしには不可能なのである。また仏の救いはすべてを平等にたすけることであって、念仏はまさしくこの仏になる道にほかならない。
 このように親鸞は、念仏を亡き父母の追善供養のためと考えている見方を強く否定しているが、宗教とくに仏教を祖先崇拝のためと受けとめている人にとっては、これは容易に理解しがたいであろう。なぜなら現実の仏教は一面では追善供養のために機能しているからである。しかし、そうであるからこそ、なおさらこの親鸞の教えのもつ意義は大きい。

『仏教名言辞典』瓜生津隆真 解説より

 他人を成仏せしめる力は、仏のみが持ち得ます。ですから往相回向の主体は「あらゆる衆生を必ず救済する」と本気で誓われた阿弥陀如来にあります。そして往生して後、慈悲心より愛憎渦巻く現実に立ち戻り衆生を救済するというはたらきも、仏のみが成就しています。ですから還相回向の主体も阿弥陀如来です。
 しかし、そのはたらきの客体は「願生の行者」、つまり如来を信じ浄土を願う者です。主体と客体が一体となり同じ方向を向いた姿が南無阿弥仏なのです。このようにして、人を通してこそ仏法は弘まるのであり、阿弥陀如来の徳は知れ渡るのです。念仏の行者はそうしたはたらきを喜びとして味わっていますから、往相のはたらきを信心の姿として宿し、顕してもいるのです。
 これはさらに、「絶対に成就する」という結果が、人を介して「必ず救済する」という願いに還り、衆生を救済する還相のはたらきとして受け取れるわけですから、互いを菩薩と拝み合う大乗仏教の精神が世界に響き渡ってゆくことを意味します。ですから――

〉「愛する人の苦しみ」に対して、浄土真宗はどう対処せよと教えられるのでしょうか?
という問いにつきましては、

「愛するがゆえに」という問い自体に矛盾を含んでいるものの、その矛盾した個別的な愛こそが如来のはたらきに出会う縁となり、力及ばず孤独に心を痛める中で「人はみな父母兄弟であったなぁ」という同朋の思いが生まれ、信心が一子地として展開してくるのです。

 そんな中で私が心がけることは、「神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなり」<自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです>というように、身近な者とともに、いのちの尊さに目覚め、生きて甲斐あり死んで悔いの無い一生を送ることに尽きるのではないでしょうか。
 そうした際にも、信心の実践者として目の前の人や物事に敬虔な態度でのぞむ。相手を救ってあげようと高みに立つのではなく、同朋として一緒に悩み模索し続けることでしょう。そうした中でいつか個別の愛も救済の大輪の中に受け取られ、孤独な気持ちがそのまま菩提心に翻っていくのです。

 愛する人も、憎い人も、悪を重ねて省みない者も、自力を頼みとする者も、阿弥陀如来の誓願を信じて念仏する者も、いつかみな真実のはたらきに出あい、自他ともに敬いの心を起こさしめるのが念仏のはたらきなのです。


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