平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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初めまして。今、仏教に興味を持ち始めて色々調べています。
でも分からないことが多いので、教えてください。お願いします。
4つの質問、ともに重要であり広範な内容を含んでいますので、とても簡単に語り尽くせるものではありません。そこで今回は、古今の経典・仏教書を多数引用し、自他の勉強の一助とさせていただきます。
こうした「最終的」という問いは、仏教を学び始めた方だからこそ大切に持っておいて欲しい問いです。今後、様々な経論を学ぶ中で、この畢竟を問う姿勢を見失うと、言葉の大海に沈むことになりかねません。
それとともに、「言葉で解決をみたからといって、本当の解決にはならない」ということはご承知下さい。「仏教の最終目標はこれだ」という回答を鵜呑みにして安住を求めても、そこには仏教の抜け殻があるだけです。覚りは、体得し生活に顕れなければ何の意味もありません。自らの生きざまを真実に変える道心(菩提心)がある人のことを菩薩と申しますが、ぜひ菩薩としての歩みの中で教えを聞いていって下さい。そして、[空の概念と虚無の概念の違い] にありますように、「自分に与えられた生を最大限に生き切る(滅度)」ことを目指し、様々な功徳を一人占めせず、開かれた人生を歩んでほしいと思います。
また、道心は幾度も挫折の憂き目を見ることは覚悟しておいて下さい。真剣に道を求めれば求めるほど挫折を味わいます。しかしその度に、より力強い道心が心の底から湧きあがることを経験すると思います。
つまり、最初は自分から励んで起こす道心でしょうが、次第に挫折や試行錯誤を経験するうちに、自分を超えた道心・金剛の菩提心が常に護り励ましてくれることを疑いなく受けとることができるでしょう。そうすると、自他の矛盾が矛盾のまま調和する世界が開かれてきます。
そうした「一如の世界」を受け取る第一歩は、まず「自己を観察する」ところから始まります。そして最終的にも「本当の自分をみつける」ことにあります。また仏教教団の組織としては、そうした本当の自分を見つける活動を広め、心の底から人々が交流できる世界を創造していくことにあります。
衆生法は太だ広く、仏法は太だ高く、初学に於いて難しと為す。……但だ、自ら己心を観ずれば、則ち易しと為す。
▼意訳
人々のあり方は種々様々であるからすべてを知ることはむずかしい。仏の教えは深くすぐには理解できないものである。だから、初めて仏教を学ぼうとするものは、自分の心を観察することから始めるとよい。
『法華玄義』巻二上 より
学道の人、真を識らず、只だ従来より識神を認むるが為なり。無始劫来の生死の本、痴人は喚んで本来身と作す。
▼意訳
仏教を学ぶ人が真実を識(し)らないのは、認識主体を実体視しつづけるからである。永遠の過去より迷いに迷ってきた迷いそのものを、痴(おろ)かな人が本当の自分と呼んでいる。
『景徳伝灯録』巻十 より
浄土真宗では、こうした「自分をみつける」ことを、「畢竟依」とも称する「阿弥陀如来」の呼びかけで開かれる道を示します。
本当の自分をみつけるということが他力なんです。これを西田先生は「自己の根源に徹せよ」といっておられる。フワーフワーと、浮いたり沈んだりと迷っている自分は本当の自分ではない。久遠の昔から阿弥陀如来に包まれている。それを見つける。それが、私どもの命がけの一生の仕事なんです。
桜井鎔俊著『真仏教をひらく』より
このように、「自分をみつける」ということの重要性は様々に説かれています。
そしてさらに、「求道の動機」も問題にしなければならないでしょう。「仏教は最終的に何を目指す宗教なのですか?」と問う前に、「自分は最終的に何を目指して生きているのか?」と問うことです。
私が本気で仏教を聞きだした十七、八の頃には、講師は「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を観むる」と、自力の禅宗も他力の念仏も、道は違ってもさとりは一つと説き、村人もそれに同調して、仏教もキリスト教も、宗教は皆究極の真理は一つであるといっていた。
しかし宗教を求める動機が違い、道が違えば、さとりも違う。
原始仏教が問題にしたことは、生死からの解脱、苦悩の解決で、その道は迷いを転じて「涅槃」の「悟り」を開くことである。その人は煩悩を断って、自己の独立を成し遂げた「アラカン」である。
初期の大乗仏教は、この世は形ある滅びて行く仮の世界であるとして、永遠に滅びることのない「法性真如」の世界を求めて「智慧と慈悲」を兼ね備えた「仏」を「覚り」とした。
後期の大乗仏教の『華厳経』は、人生が苦であろうが、無常であろうが、私たち人間にとってはさらに問題ではない。人間は未完成である。人間自身を完成することこそ一大事である。その完成の道は「人は人によって初めて人になる」と、五十三人の師に育てられて、「智慧と徳」を成就した「仏」になることを説いている。
親鸞が真実の宗教と称えた浄土教の『大無量寿経』は、さらに一歩を進めて、人間完成の道は人によるだけではない。「人は環境の産物である」と、自分がそこに置かれている歴史的現実に立って、主体的人間と環境を創造して止まぬ「無量寿国」の土徳の「四十八の願力」に乗じて、創造的世界の創造的前衛である「不退転の菩薩」となることを説いている。
これを見ても求道の動機が何であるかが、如何に大切か解るであろう。
島田幸昭 著 [仏教のさとり(八葉通信4号)]より
最終的なものを問うためには、問いが最終的な求めに即していることが大切です。もっと言いますと、問いが成長することが人間の成長であり、それを「仏教」と呼ぶのです。
仏教に限らず、あらゆる宗教には「勧善懲悪」の価値観があります。
怒らないことによって 怒りにうちかて
善いことによって 悪いことにうちかて
与えることによって 物惜しみにうちかて
真実によって 虚言の人にうちかて
『ダンマパダ』223
悪を行うよりは何もしない方が良い。悪を行えば後で悔いる。単に何かを行うよりは、善を行う方が良い。後で悔いることがない。
『ダンマパダ』314
『唯識三十頌』より
これ以外にも、さかんに善を勧める文はあります。これについて奈良康明氏は解説で――
善いことをしろ、悪いことをするな、というのは当たり前のことである。その当たり前のことをするのが仏教の基本だ、という教えもある。
しかし、それでは何が善で何が悪か、というと、その判別はむずかしい。日本人は昔は牛、豚、羊等の「四つ足」の動物の肉を食べなかったが、今は平気で食べる。わずか百年で価値基準が違ってしまっている。インドのヒンドゥー教徒にとってビーフを食べることは悪だし、イスラム教徒にとってはポークを口にすることは考えられない。欧米では肉食の伝統があるが、最近では動物愛護の観点から菜食をよしとする運動もある。
一般に倫理と言われている人間の行為規範は、つねに一定ではない。時代により、場所により、また世界観により変わることがありうるので、相対的なものなのである。
では釈尊は善・悪をどう説いたかというと、それを行ってあとで悔いることのない行為が善だという。『ダンマパダ』67〜68には、なにかをして、あとで後悔し、その結果に涙を流して泣くのは悪い行為であり、反対に後悔することなく、嬉しく、楽しくなるような行為は善い行いだと説いている。つまり、
善・悪を絶対的な基準をもうけて決めるのではなく、自分がどう受けとめられるかによって決定する、というのである。
しかし、単にこう言っただけでは誤解を招きやすい。人を殺したり、泥棒したりして、しかも、自分が楽しい、と思えればそれも善だ、ということにもなりかねない。何の前提もなく、自分で後悔せず、楽しければいい、というわけではないのである。
釈尊は人生の不安、苦の原因を欲望にみた人である。私たちはつねに「ないものを欲し」がり、「限りなく欲し」がっている。老病死は人間にとって必然なのに、それを嫌がって悩むのは前者の一つの例である。病気になったら、病気をなおすことに全力をつくす一方、そこから起こるだるさや痛さは堪えなければならない。それをゼロにしろと言い、思うようにならないといって苦しんでも、それは「ないものねだり」だと釈尊は言うのである。あるいは、これだけ豊かな社会になりながら、私たちは満足できない。もっと、もっと欲しい、と願いながらさまざまな欲求不満に悩む。「限りなくねだり」つづけるなら、ついに、これでいい、と満足することはない。
釈尊が自分で楽しく、嬉しくなる行為を善なるものとして行え、という裏には、こうした人間の苦、不安の洞察がある。「嬉しく、楽しい」というのは、だから、感覚的な満足ではない。自分の自我欲望をコントロールし、欲求不満に苦しめられない心の平安を得ることをこそ、嬉しい、楽しい、と表現しているのである。
だから、仏教の倫理は、基本的にいえば、具体的な行為を挙げて「これをしろ」「あれをするな」とは説かない。また、それは不可能でもあって、先述の例でいえば、ビーフを食べることの是非は客観的基準をもうけようがない。各人それぞれが真に「心の平安」を求める宗教的良心に立ち戻って、自主的に判断するよりほかに方法がないのである。
こうした自律的、主体的な行為の選び方を仏教では「戒」と言う。これに対して、何らかの集団生活にあって、自分も最大限に自由に、他人の自由も最大限に保証するためのルールを「律」という。律とは他律的であり、上から与えられるものだが、その根本には戒の精神が横たわっている。
戒の考え方は仏教の倫理を理解するのに重要である。あくまでも真実にのっとりつつ、内なる良心の声に従うところに善なる行為が実現する。したがって、個人に応じ、状況に応じ、行為の形態は同じではない。「状況的」であり、キリスト教の新しい神学の言葉をかりるなら「状況倫理」と言ってもいい。
こうして戒の根本の趣旨に沿って「善」が行われていくとき、そこにおのずから皆が肯(うなず)き、認める共通の行為パターンが出てくる。それを中道とも言う。仏典には「快楽追求と禁欲の両極端をすてる」のが中道であるという。これは釈尊の伝記に即していうものであり、一般論で言うなら、仏教の教えに従い「心の平安」を求めて「善」を行う行為のことである。それが結果的に極端を離れ、バランスのとれた行為となる、ということである。単なる「まん中」ということではない。宗教的良心に立ち戻りつつ、主体的に善悪を選びとっていくことであり、これこそ「後悔しない」行為をせよ、と勧めているのである。
というように、「真実にのっとりつつ、内なる良心の声に従う」ということが前提で、多分に「状況的」であることが仏教の特徴といえましょう。
これは逆に言いますと、「善悪は仏教の中心軸となってはいない」ということです。人々が考えたり感じている善悪を超えたところに中心軸があり、仏法の車輪が回され、その催しとして状況的瞬間瞬間に善悪が設定される、ということです。そして、その中心軸は言葉や概念では説明できないので「空」とか「真如」・「無上菩提心」という言葉を用いるのです。
さらに、その覚りのはたらきが現実に言葉として報いられたのが「南無阿弥陀仏」という名号(人の側からは念仏)であり、環境や土徳として報いられた世界が「浄土」なのです。
食はどの宗教においても重要な問題で、それは「他のいのちを奪って自己のいのちをつなぐ」という存在の矛盾が表出した行為だからです。従って、特に戒律において詳細な規定を設けることが求められているのです。
初期の仏教教団において定められた戒律(『戒律について』 - 波羅提木叉 - 参照)から、食に関連した戒律を引いてみますと、以下のように出ています。
このように、初期の仏教教団においても食べること自体を罪とはしていません。食をめぐる行動が問われるのです。
多くの財産、黄金、食物のある人が、自分一人で美食を追求するなら、それは破滅への門である。
『スッタニパータ』102
食事の量を留意して、節する人に、苦痛は少ない。寿命を保ち、少しずつ老いる。
『相応部経典』III・2・3・6(パセーナディ王への教訓)
また大乗仏教経典や、日本の各宗旨の教説においても、食に関する記述は多数あります。
菩薩の服食する所は、皆諸の虫の為であり、(彼らを)安楽せしめんと欲して、其の味を貪るにはあらず。
『華厳経』
▼意訳道心の中に衣食有り、衣食の中に道心無し。
光定 著『伝述一心戒文』
▼意訳食は諸法の法なり、唯仏与仏の究尽したまう所なり。
道元 著『永平大清規』赴粥飯法
▼意訳切忌すらくは、色を作して口に料物の多少を説くことを。
『永平大清規』典座教訓
▼意訳学道の人、衣食を貪ることなかれ。人々皆食分あり、命分あり。非分の食命を求むとも来たるべからず。
『正法眼蔵随聞記』一(道元の言葉・懐奘 編)
▼意訳垣を破り、蔵の尻を切るばかりが盗みにはあらず。道理に叶わざる物を着、道理に叶わざる物を食らうもの皆盗みなり。
沢庵宗彭 著『東海夜話』下巻
▼意訳食に珍物を好まんよりも、食好む時(膳に)向かえば(食の)すすむ事を知らず。
『至道無難禅師法語』
▼意訳一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。二つには己が徳行の全欠を忖って供に応ず。三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。五つには成道の為の故に今此の食を受く。
南山道宣 著「五観の偈」(『四分律行事鈔』に基く)
▼意訳衣食住の三は、念仏の助業なり。これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。
『諸人伝説の詞』(法然の言葉)
▼意訳以上のように、食べることに執着するのではなく、食をいただくことの尊さを味わうことが大切なのです。
これは本当です。ただし条件が付きます。
我、三種の浄肉を啖[ク]うを聴[ユル]す。何等か三なる。見ず、聞かず、疑わざるなり。
『十誦律』37巻 より
▼意訳 これをそのまま現代に当てはめてみれば、小売店で売っているような肉は全て浄肉になり、出家者でも食べて良いことになります。ただし、これだけを読んで他人の殺した肉は食べてもよいのだ≠ニ短絡的に理解すれば、極めて作業的な戒律になってしまうでしょう。
以前[なぜ人を殺してはいけないの?] にも引用しましたが、
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
『ダンマパダ』129
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。『ダンマパダ』130
という言葉は、仏教の生命観が思想上や形而上の問題でないことを示しています。
つまり不殺生にからむ問題は重要なのですが、現実の問題となると非常に複雑であり、その複雑な状況を単純化して考えてはいけないのです。不殺生戒は仏教の根幹であるいのちの問題に関わっています。それとともに、結果として様々な差別を生む思想に変貌した経緯もありますので、中途半端な理解は避け、如来の真意をどこまでも求め味わっていただきたいと思います。
『戒律について』 - 波羅提木叉 - を再度引かせていただきます。
初期の仏教教団は、このように殺人と他の動物への殺生を分けていたのですが、大乗仏教では人と動物の生命を本質的には分けていません。ちなみに初期の教団では「淫戒」が第一で、「故出精戒」、「触女身戒」、「麁悪語戒」、「求淫欲供養戒」など、しつこいほど性的な交流を禁じています。これは出家としての生活に破綻をきたす第一に異性との交流が考えられたためでしょう。出家の環境では、殺人や殺生をする機会そのものが少ないので、戒律の第一としなくても自然に守ることが期待できます。それに対し、在家者は活動範囲が広く既婚者が多くいますので、淫戒より不殺生戒の方が重要となるのは当然の流れといえるでしょう。
出家者は基本的に托鉢(乞食)など信徒の布施によって生活の糧を得ていますので、施された食糧は「感謝していただく」ことになります。ただし、托鉢のため目前で動物を殺したり、その疑いのある肉は受け取ることを拒みました。これは積極的に殺生を勧めることにつながるからです。
そういう意味では、出家中心の教団(上座部・部派仏教教団)では、在家信者の不殺生戒は「無駄な殺生を禁じる」程度でした。しかし大乗仏教では在家者にも相当の宗教的自戒を求め、不殺生も広く積極的に説くようになりました。そのため大乗仏教の出家者は部派の出家者よりも肉食を避けた(ほぼ禁止)のです。
アヒンサー: 不殺生・不障害の意で、あらゆる生物を傷つけたり、殺したりしないこと。インドの宗教・倫理道徳の基調をなす思想。アヒンサーの思想は、古くウパニシャド(チャーンドーギャーウパニシャド、V、
17等)の時代からインドの諸宗教に共通する著しい特色である。
仏教では原始仏教の根本教義である八正道の第四の正業とは、アヒンサーであることが説かれ、五戒の第一は不殺生戒である。八斎戒、沙弥・沙弥尼戒の十戒、比丘・比丘尼の波羅提木叉に厳格な規定がある。アショーカ(阿育)王の法勅にも掲げられ、大乗仏教経典においても梵網経・大智度論など、枚挙にいとまがない。中国・日本の仏教もこの影響を強く受けて、放生会は儀式化されたその象徴であるといえる。
万物に霊魂があると説くジャイナ教では、極端な不殺生戒を守るので有名。大誓戒の第一に不殺生戒をおく。
ヒンドゥー教は、輪廻転生・霊魂不滅の教理から万物の生命の一体観をもち、いかなる生物をも殺害しないという理想を掲げた。
不殺生戒: 戒律に規定するもので、小乗では四波羅夷の一に数え、大乗では十波羅夷の第一とする。罪としては最も重いもの。大乗では生物の生命を断つこと一般を禁ずるものであるが、小乗では特に人命を重視し、畜生を殺すことは波逸提として人命よりは軽くみる。在家の五戒と沙弥の十戒では最初に数えて、これを特に厳禁する。
中村元 監修『新・仏教辞典』より
【放生】ほうじょう: 山野池沼に魚鳥を放ち逃がしてやること。慈悲行の一つとして行なう。
【放生會】ほうじょうえ: 捕らえられた魚や鳥を池沼山野に放す法会をいう。万物の生命を尊重する精神と平素の殺生に対する供養のあらわれである。通常陰暦の八月十五日に行なわれる。この時、魚介を放して食を与える池を放生池といい、後世でh、寺や神社の境内に多くつくられるようになった。→アヒンサー
【放生器】ほうじょうき: 比丘が日常水こしの(ふくろ)をもって水をこし、そのノウ底(ふくろの底)ににかかった小虫を放っておく器。
【放生池】ほうじょうち: 生きものを放って住まわせる池。捕えられた魚鳥を放って法を修する法会を放生会といい、慈悲の精神から発したもので、この魚や鳥を放す池を放生池という。智 が始めたと伝えられ、日本では持統天皇三年(689)に摂津の武庫の海、紀伊の那耆野、伊賀の身野名を殺生禁断の所と定めた。後には寺社の境内に任意に放生池を設けてあるところが多い。
中村元 著『仏教語大辞典』より
ところで、どうして大乗仏教がこれほど殺生に厳しくなったかというと、大きく二つの理由が考えられます。
まずはヒンドゥー教やジャイナ教などの影響で、仏教徒の不殺生戒が徹底していないため批判を受けたことは想像に難くありません。「インドの宗教・倫理道徳の基調をなす思想」ですから、ここに遅れをとることは宗教的な欠陥として批判され、大乗仏教として戒律を制定するに当っては厳しい戒律が望まれたのでしょう。
そうした外的な要素以外に、もっと根本的・内的な要素があり、こちらの方が重要なのですが、仏教の世界観が確立し、一切衆生への布施が尊ばれ、殺生が厳しく戒められた、という理由です。教学がより根本的ないのちを問題にし、人と動物のいのちに分け隔てを設けることを迷いとしたためです。
この「一切のいのちを尊ぶ」こと自体は確かに重要で、他宗教にない特徴でもあります。例えば、「燔祭として子羊を神に捧げる」というような行為は、仏教では好意的に受けとることはありません。まして「ひとり子を燔祭として捧げよ」などという天啓は、単なる「思念の迷い」として片付ける類のもので、「神に試されている」などとは仏教の慈悲の精神からは本来語られるものではありません。
(※注: ジャータカの中には極端な布施行を説く物語があるが、仏の真意から外れていると言わざるを得ない)
しかし、ジャイナ教との相違は、極端な殺生戒にはしないところにあります(ジャイナ教徒は徹底した不殺生戒のため農業や林業にも従事できない)。殺生戒のための仏法ではなく、仏法の歩みの中でおのずと不殺生戒が順守されてきた、という順です。自分の人生の幅を狭めるのが戒律の本意ではなく、戒律によって私の人生が破綻をせず有意義なものになる、という積極的な方向に開かれていくのです。
また「霊魂」といった「実体としての自我」を否定する仏教では、殺生が即「取り返しのつかない罪」となるものではありません。故意に無駄な殺生を行なうことが慈悲の精神をないがしろにする、と考えるのです。
しかし、これを積極的に在家者へ勧める手前、出家者はより厳しく肉食を避けることになり、そういう意味では、大乗仏教の出家者の方が上座部や部派の出家者より戒律が厳しくなるのです。
上記までの傾向は自然な流れと言えるでしょう。しかし、こうした在家者への不殺生の勧めは、一面、殺生をせざるを得ない業務に就いている人たちへの蔑視につながり、差別を生むきっかけともなりました。殺生が必須の職業であれば当然「無駄な殺生」ではないのですから、本来は不殺生戒に違反する訳ではありません。
また、ある意味仏教の教えが誤解されているのですから、仏教教団はそうした差別を積極的に除いてゆく責務を負うはずですが、一般的には実に消極的であったと言わざるを得ません。
そうした中、在家仏教の極みともいうべき浄土真宗において、蓮如上人などは様々にそうした立場の人々を擁護されました。
まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明三年十二月十八日
蓮如上人 著『御文章』一帖 3 猟すなどり章
▼意訳 この中で、「奉公をもせよ」とありますが、これは丁稚奉公のようなサラリーマン的な奉公だけではありません。権力者の命令で兵として召集されることも含んで述べてみえるのです。
当然、赴任先で人を殺さざるを得ないこともあるでしょう。そうなると殺生・殺人は重罪と教えられていますから、<自分は地獄に行くのではないか>という怖れが出てくるのです。
こうした人々に対し、「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを」と呼びかけられています。「われらごとき」です。「お前たちごとき」ではありません。
周りの状況によって殺人や殺生を犯さざるを得ない人たち――彼らと自分とにどれほどの違いがあるだろうか、召集されて命令が下れば殺人を拒むことのできない自分ではなかったか・・・。そのように観、<だからこそ救わずにいられない>と身を呈して誓願を成就された阿弥陀如来のはたらきにより、ようやく疑いに閉じていた身心が開かれ、如来からの回向を受け入れて、人生成就の道を歩むことができるのです。
こうした功徳を「われら」と呼んで弘められた上人のお気持ちを味わえば、殺生や殺人の罪は私と無縁ではありません。「他人の殺した肉は食べてもよい」という考えは、一見、正統的な解釈に思えますが、如来の慈悲を深く聞かせてもらうと、<他人に罪をなすり付けて、自分だけは清らかでありたい>という思い上がった心が見えてきます。
むしろその罪を「わがこと」として味わい、<殺生した者が地獄に行くのなら私も一緒に行きましょう>と手を伸ばした姿こそ真の仏教者ではないでしょうか。そして、社会環境を変え、戦争を無くす努力を続けることも私たちの勤めとなりますが、それらを可能にして下さるのが、如来から振り向けられた本願力回向のはたらきなのです。