平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問: 親戚の子供になぜ人を殺してはいけないのかと聞かれ、
社会のルール的な答えで何とか逃げることができましたが、
いまいち自分でも、解りません。
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おそらく一昔前であれば
「人殺しがいけないことは常識じゃないか」と、
皆自信をもって言えたことでしょう。
これは理屈以前の問題です。
「殺人を禁じる」ことは本来、「なぜ」と問いを持つ以前の話で、
戦場でもない限り、人間として生きる絶対条件でもありますから、
親や親戚や教師が子どもに「押し付けるべき」価値観なのです。
人は一人では生きていけませんから、殺人は最も慎むべきです。
これが腹に入ってなければ、人間として生きる価値は見出せませんし、
社会そのものが成り立たなくなります。
しかし昨今は、こうした質問を子どもにさせてしまうくらい、
いのちが軽視されているように見受けられます。
保険金欲しさに親が子を殺し、子が親を些細ないきちがいで殺す。
「殺人を経験したかった」という理由で、見ず知らずの人を殺す。
好きな相手が思い通りならないと逆恨みで殺す。
かつて宗教団体を名のっていた組織の犯罪もまだ記憶に残っているところです。
そこでは社会の最低限のルールも機能しなくなってきていますので、 おそらく子どもたちは、そうしたモラルの崩壊に敏感なのでしょう。
ただしこれは、異常な状況をマスコミが注目しすぎて、繰り返し放映するため、
受け手が特殊な状況を日常と取り違えてしまうせいでもあります。
報道の内容が衝撃的であればあるほど、
マスコミはその蔓延を防ぐ役割を果たさねばならないのに、
そうした姿勢がほとんど見られないのは残念なことです。
報道被害は全国民に及んでいると言えるでしょう。
◆ 己が身にひきくらべて
本当は、社会の状況がどんなに悪くても、 いや、悪ければ悪いほど、「殺人を犯してはならない」と、 声を大にして訴えなければならないでしょう。 止むを得ずの正当防衛や、侵略を受けた場合は除きますが、 仏教は「いのちの尊さ」を最大限に強調します。 それは「聖戦」という無理な思想を持たないことにも顕れていますが、 自説を押し付ける愚をたしなめ、自他のいのちを尊ぶ。 これは、どんな事情があろうとも、強く訴えていることです。
例えばダンマパダという経典にこんな一節があります。
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(129)
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(130)
この「己が身にひきくらべて」ということが重要でしょう。
相手の身になって考える、殺す立場ではなく殺される立場に立ってみる。
ナイフや銃口が自分に向き、襲われたらどんな気持ちか?
こうした想像力が欠如することで殺人を容易にしてしまっているのではないでしょうか。
ただし「己が身にひきくらべて」の「己」が、
いのちの尊さに目覚めていないと、この言葉も意味を失います。
自己愛はすべての慈愛の根本ですから、
自分の生き方が本当の意味で好きになることが大切でしょう。
◆ 仏地に根ざす業縁を
これは個人としての問題だけではなく、 国家に責任転換した戦争を考える時も同じで、 思い通りにならない国や、価値観の違う国との諍いを、 「正義の戦い」で解決しようとする扇動には気をつけなければならないでしょう。 同時に、侵略を企てるような国や組織の動向には注意が必要で、 強かな外交でと智慧の結集でこうした動きを封じていかねばなりません。
「真宗的にはどのようになるのでしょうか」ということですが、
殺人を犯さないようにすることに、宗旨によって違いがある訳ではありません。
ただ、よく引用される言葉で、
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである)
という歎異抄(13)の一節がありますが、
これは、だからこそ自分への過信をいましめ、
常に「如来の本願力の呼び覚ましを必要とする私」であることを自覚し、
身を慎むべきであることを示したもので、
決して「どんな悪を犯しても仕方が無い」などと、
あらかじめ言い訳をするような言葉ではありません。
そして周りに流されがちな私たちであるからこそ、 悪い業縁のはたらかないように、 仏地に根ざす新たな業縁を社会に打ち立てるべきであり、 また、悪い業縁のはたらいた時には、その業縁に身を任すのではなく、 仏縁によりそれを善に転じてゆく智慧を聞かせていただくことが肝心でしょう。
『仏説無量寿経』 (巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪)には、 仏の歩み行かれるところ、について――
国豊かに民安くして兵戈用ゐることなし。 〔人民〕徳を崇め仁を興し、つとめて礼譲を修す。
(国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。 人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである)
と称えられていますが、
念仏の宗旨は常に自分と相手と国(人間環境)を問題にして教えが展開されるのです。