平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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仏陀についてしりたいのですが。 仏陀が悟った真実とは何か?(無常性)とは? また悟った方法はどのようにですか?
調べているのでぜひ力を貸してください。
「仏陀が悟った真実とは何か?」ということですが、悟りは悟られる対象があって悟るのではありません。仏教学者の中村元氏は、仏教の特徴について――
等述べてみえましたが、こうした前提を踏まえた上で、後世の定型化した記述を紹介しましょう。まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異って伝えるに至ったのである。
第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異って伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。それは実践的存在としての人間の理法(dharma)を体得しようとする。前掲の長々しい四禅の説明もけっきょくはここに帰着する。その説明が現代人からみていかに長たらしく冗長なものとして映ずるにしても、成心をはなれて人間のすがたをありのままに見ようとした最初期の佛教の立場は尊重されるべきである。
第三に、人間の理法(ダルマ)なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限の発展を可能ならしめる。後世になって佛教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。過去の人類の思想史において、宗教はしばしば進歩を阻害するものとなった。しかし右の立場は進歩を阻害することがない。佛教諸国において宗教と合理主義、或いは宗教と科学との対立衝突が殆ど見られなかったのは、最初期の右の立場に由来するのであると考えられる。中村元 著 『ゴータマ・ブッダ』114〜115頁 ゴータマのさとりの思想史的意義 より
悟りの表現としては、まず [ブッダ最後の旅] に述べられた内容が参考になると思います。この『大パリニッバーナ経』は、釈尊最後の旅を題材に教えを詰め込んだ経典ですから、<肝心な点を逃さずに集大成として教えを整理しよう>という気迫に満ちています。
この中では、「衰亡を来さない七種の法」、「法に関する講話」(戒律・精神統一・智慧、そしてそれらの果報)、「法の鏡」、「自灯明・法灯明」、「師弟の関係」、「教師の握拳は存在しない」、「八つの支配して打ち克つ境地」(勝処)、「三十七道品」、「流転の理由」、「四大教法・四決定説」、「聖地選定」などが説かれますので、参考にして下さい。
最後があればもちろん最初の説教もあります。仏伝『転法輪経』の内容は、釈尊成道後、サルナート(鹿野苑)におもむき5人の修行仲間に悟りの内容を語ったもので、「初転法輪」としてよく知られている物語です。
修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか?
一つはもろもろの欲望において欲楽にふける耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものであり、
他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルバーナ)に向かうものである。
修行者らよ、真理の体現者のさとった中道――それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルバーナ)に向かうものであるが――とは何であるか?
それは実に<聖なる八支よりなる道>である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。これが実に、真理の体現者のさとった中道であり、眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルバーナ)に向かうものである。
ここには「中道」の具体的な相が「八正道」(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)であることが述べられていますが、「中道」というのは誤解されやすい言葉でして、この点について渡辺照宏氏は――
と注意を促しています。これは、王子のころに経験した官能の満足も、修行者のころの苦行も、ともに愚かしく、無益な営みにすぎない、という自分の経験を反省して中道を発見した、と見ることもできる。しかしまた、宗教史に照らして考察するならば、一方には、現世の所有欲と官能欲とを満足させ、来世の安楽をも保証する功利主義的な宗教――たとえばバラモン教――があり、他方には、肉体を苦しめつ代償として精神的自由が得られると教える宗教――たとえばジナ教――たあった。仏教はその両方ともに否定して中道を樹立したのである。そして、その中道を具体的に説明した八項目は、なんらかの特定なドグマを予想することもなく、どんな立場のものでも、抵抗を感ぜずに受けいれることができることのみである。
ここで中道というのは、快楽主義と苦行主義との両方をきっぱりと否定することであって、微温的、妥協的な態度を許さないものである。何事もほどほどにとか、足して二で割るとかいうような常識的な考えは仏教の中道とはまったく無縁である。日本の封建道徳で教えられた事なかれ主義などはおよそ仏教の中道とは何の関係もない。仏教の中道は、誤った考え方を徹底的に批判した上で、独自の原理を示すものである。大乗の中観派の痛烈な批判的論法はまさにこの仏陀の中道精神を発揮したものであるが、このことはすべての仏教思想に共通している。[渡辺照宏著 『仏教』第二版/岩波新書 仏陀の生涯 より]
なお大乗中観派においては、この「中道」は「縁起・空・仮名」と同じ意味に用いられていました。つまり「断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた普遍にして中正なる道」をいうのです。
また他に「的を射る」という意味も含まれていて、仏教が<現実を直視し最良の方法を用いて苦難を克服する>という実践法であることを示す一例といえるでしょう。
続いて仏伝は「四聖諦」について述べています。
実に<苦しみ>という聖なる真理は次のごとくである。生まれも苦しみであり、老いも苦しみであり、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、憎い人に会うのも苦しみであり、愛する人に別れるのも苦しみであり、欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、五つの執着の素因としてのわだかまりは苦しみである。
実に<苦しみの生起の原因>という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。それはすなわち欲望に対する妄執と生存に対する妄執と生存の滅無に対する妄執とである。
実に<苦しみの止滅>という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわちその妄執の完全に離れ去った止滅であり、捨て去ることであり、放棄であり、解脱であり、こだわりのなくなることである。
実に<苦しみの止滅に至る道>という聖なる真理は次のごとくである。これは実に聖なる八支より成る道である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。
以上は「四聖諦」の理論を述べたものですが、最初の「<苦しみ>という聖なる真理」は「苦聖諦」と呼ばれるもので、「<苦しみの生起の原因>という聖なる真理」は「苦集聖諦」、「<苦しみの止滅>という聖なる真理」は「苦滅聖諦」、「<苦しみの止滅に至る道>という聖なる真理」は「苦滅道聖諦」。このように4段階を経て苦を滅していきます。
「苦聖諦」は「生」「老」「病」「死」の基本的な「四苦」と、「怨憎会苦 おんぞうえく」「愛別離苦 あいべつりく」「求不得苦 ぐふとくく」「五蘊盛苦 ごうんじょうく」(もしくは「五取蘊 ごしゅうん」)の四つを加えて「八苦」として示されています。
この中で「生まれも苦しみ」という「生苦」は「生きる苦しみ」ではなく「生まれる(生じる)苦しみ」であり、「生きる苦しみ」としてはむしろ「五つの執着の素因としてのわだかまり」という総合的な苦悩「五蘊盛苦」に示されています。
ちなみに「五蘊」とは、『仏教語大辞典』(中村元著/東京書籍)には――
【五蘊】ごうん 五つの集まり、五種の群れ、の意。蘊は積集の意と解せられ、集まりをいう。@ われわれの存在を含めて、あらゆる存在を五つの集まり(五蘊)の関係においてとらえる見方。物と心の集まり。物質と精神。五蘊とは、仏教で物質と精神とを五つに分類したものをいう。環境を含めての衆生の身心を五種に分析したもの。色・受・想・行・識の五つである。とあり、人間存在そのものに矛盾が生じていて、そこに苦の原因があり、その総括として「五蘊盛苦」が示しています。
(1)色は物質一般、あるいは身体。身体および物質。物質性。
(2)受は感受作用のことで、感覚・単純感情をいう。
(3)想は心に浮かぶ像で、表象作用のこと。
(4)行は意思、あるいは衝動的欲求にあたるべき心作用のこと。潜在的形成力。受・想以外の心作用一般をいうとも解せられる。
(5)識は認識作用。識別作用。区別して知ること。また意識そのものをいう。心作用全般を総括する心の活動。
大まかにいうと、物質性・感覚・表象・意思的形成力・認識作用の五つとでもいったらよいであろう。色は身体であり、受以下は心に関するものであり、あわせて身心という。われらの個人存在は、物質面(色)と精神面(他四つ)とからなり、この五つの集まり以外に独立の我はないと考える。
結局、生じたもの・存在するものは、必然的に「無常」という<自己否定・自己矛盾>を抱えていて、その苦を誰も他人に背負わせることはできません。自己の問題として引き受けざるを得ないのです。
そうした存在の苦しみは、生に執着すればもちろん、放棄しても問題は解決せず苦悩は余計に深まるだけです。苦との決別のためには、<苦から目をそむけず、苦の原因をさぐり、苦を超えた境地を求め、その境地に至る道を歩む>というプロセスを通してのみなし遂げられるのですが、これが「四聖諦」の理論なのです。
さて、理論だけでは問題が解決したとはいえません。常に精進努力をし、その結果さらに人生が深められ、充実して、さらに洞察力が増していくことを繰り返して、その究極の体験の中で苦からの解放が適います。
『<苦しみという聖なる真理>はこれである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
実に『この苦しみという聖なる真理が遍く知らるべきである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『この苦しみという聖なる真理が遍く知られた』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『<苦しみの生起の原因という聖なる真理>はこれである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
そこで『この<苦しみの生起の原因という聖なる真理>は断ぜられるべきである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『この<苦しみの生起の原因という聖なる真理>はすでに断ぜられた』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『<苦しみの止滅という聖なる真理>はこれである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
そこで『この<苦しみの止滅>という聖なる真理が現証せらるべきである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『この<苦しみの止滅>という真理が現証せられた』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『<苦しみの止滅に至る道>という聖なる真理はこれである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
そこで『この<苦しみの止滅に至る道>という聖なる真理は実修せらるべきである』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
『この<苦しみの止滅に至る道>という聖なる真理がすでに実修せられた』とて、未だかつて聞いたことのない法に関して、わたしに眼が生じ、知識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。
以上は少し冗長に説明されていますが、要は先にあげた「四聖諦」「苦集聖諦」「苦滅聖諦」「苦滅道聖諦」の4つの聖なる真理について、それぞれ「真理を認識し、実践されるべきであると認識し、既に実践したと認識した」という3段階を自認したのです。
修行僧らよ。これらの四つの聖なる真理に関して、それぞれ三つの段階・十二のかたち(三転十二行相)によって如実に見る知見がわたしにいまだすっかり純粋清浄でなかった間は、<われは、神々・悪魔・梵天・修行僧・バラモン・神々・人間を含めた生きとし生けるものどもの中において無上の正しい覚りを現にさとった>とは称しなかった。しかるにいまや実にこれらの四つの聖なる真理に関してこのように三つの段階、十二のかたちある如実に見る知見がわたしにとってすっかり純粋清浄なものとして起ったのであるから、<いまやわたしは神々・悪魔・梵天・修行僧・バラモン・神々・人間を含めた生きとし生けるものどもの中において無上の正しい覚りを現にさとった>と称したのである。そしてわたしに次の知見が生じた。 『わが心の解脱は不動である。これが最後の生存である。もはや後の再生はあり得ない』と。
このように、苦の本質である矛盾を何度も繰り返し否定し、それが尽くされて、ついに仏陀としての宣言がなされました。そしてそれを仲間の修行僧たちに伝えます。
――世尊はこのように言われた。五人の修行僧の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。そしてこの<決まりのことば>が述べられたときに、尊者コーンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。――「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」と。
「およそ生起する性あるものは、すべて滅び去る性あるものである」、つまり「生者必滅」の無常を示す語は、それまでの理論とは別に、突然のように強調され、またくり返し経典に登場してきます。つまり「苦」が「無常」を背景に起ることはもちろん、その「超克」もやはり「無常」という動的な視点の上に示されるのです。
「悟った方法」についてですが、王子時代の「快楽主義」や [六師外道の教え] を廃し、さらに「苦行主義」を否定して、ひとり菩提樹下で瞑想に入り、マーラ(悪魔)との闘いに勝利したことで欲望・感性の支配を脱します。ここで四禅を一々成就([ブッダ最後の旅6 #死を悼む] 参照)し、悟りを開きます。
この境地を仏伝には以下のように記しています。
時に世尊はその夜の初更において、縁起[の理法]を順逆の順序に従ってよく考えられた。すなわち、――「無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態とがあり、名称と形態とによって六つの感覚機能があり、六つの感覚機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執着があり、執着によって生存があり、生存によって出生がり、出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する。
しかし貪欲をなくすことによって無明を残りなく止滅すれば、生活作用も止滅する。生活作用が止滅するならば、識別作用も止滅する。識別作用が止滅するならば、名称と形態とが止滅する。名称と形態とが止滅するならば、六つの感覚機能が止滅する。六つの感覚機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。対象との接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。感受作用が止滅するならば、妄執も止滅する。妄執が止滅するならば、執着も止滅する。執着が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅するならば、出生も止滅する。出生が止滅するならば、老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みも止滅する。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて止滅する」と。
このように、前半では「無知・無明」が「縁」となり次々十二の作用が「起」り、すべての苦悩につながることをあきらかにし、後半では逆に「無知・無明」を滅することであらゆる苦悩が滅する、という道理が説かれます。これは「縁起説」とも「十二因縁」とも呼ばれている教えです。
なお、成道の記述については経典によって表現が異なっていますが、方向性としては同じことを説いています。また前述の「初転法輪」における「中道」と「四聖諦」の実践に自ずとつながってくることも見て取れるでしょう。
(経典引用:『原始仏典』中村元編/筑摩書房 より)