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ブッダ最後の旅

『大パリニッバーナ経/涅槃経』等より

【アジアの仏教】

比類なく美しき死の理想像

 釈尊は仏教の教主であるというばかりでなく、その一生は人類の最も理想とする生き方を如実に示しています。そして、その偉大な生涯の集大成とも言うべき『ブッダ最後の旅』は多数の異本が存在しますが、どのテキストも人類にとって最も恐ろしい問題であったはずの『死』が、耽美なまでに美しい物語として語られ、宗教文学としても最高傑作の一つと称される仕上がりとなっています。

 仏陀の入滅前後を伝える仏典は、『パーリ本』、『遊行経』、『白法祖本』、『失譯本』、『法顕本』、『有部本』、『梵本(サンスクリット本)』、『チベット本』、(以上略号)と、「ギルギット地方発見梵本」があります。各仏典は共通部分も多いのですが、異なる部分も少なくはありません。ただ、後代の加筆と思われる部分も、古くからの伝承を重ねた可能性も否めず、資料から歴史的事実のみを厳密に抽出することは不可能です。ただ、謎の多い釈尊の伝承の中では、比較的伝承が詳細であるのは、釈尊入滅前後について、特に皆が関心を持っていたためと思われます。
 また、大乗経典の『大般涅槃経』もありますが、こちらは釈尊の入滅をテーマに、大乗仏教と小乗(部派・アビダルマ)仏教の相違をあきらかにする目的があり、大乗仏教教学上の立場は重要ですがここでは触れず、別の機会で紹介したいと思います。

 以下、パーリ本『大パリニッバーナ経』を基本に据え、必要に応じて他の経典を参考にして、釈尊最後の旅の様子を、歴史的・宗教的な問題をふまえ詳説してみます。

 参考:『釋尊伝 ゴータマ・ブッダ』(中村元著/法蔵館)、『ブッダ最後の旅』(中村元著/岩波文庫)、『原始仏典』(筑摩書房)、『原始仏典一 ブッダの生涯』(講談社)、『現代語仏教聖典』(日本仏教文化協会)


目次

第一章
鷲の峰にて修行僧たちに教える(最後の)旅に出るパータリ村にて
第二章
コーティ村にてナーディカ村にて商業都市ヴェーサーリー遊女アンバパーリー旅に病む――ベールヴァ村にて
第三章
命を捨てる決意悪魔との対話大地震に関連して死別の運命
第四章
一生の回顧――パンダ村へボーガ市における四大教示鍛冶工チュンダ臨終の地をめざして――プックサとの邂逅
第五章
病い重しアーナンダの号泣大善見王の物語マッラ族への呼びかけスバッダの帰依
第六章
臨終のことば死を悼む遺体の火葬遺骨の分配と崇拝


第一章

  鷲の峰にて

 釈尊の晩年を語る最初は、マガダ国アジャータサットウ(阿闍世)王がヴァッジ族を根絶する相談を釈尊にしに行くところから始まります。使者のヴァッサカーラ大臣に対し、釈尊はまず弟子のアーナンダに次の7箇条が事実かどうか尋ねます。

  1. ヴァッジ人は、しばしば会議を開き、会議には多数の人が参集する。
  2. ヴァッジ人は、共同して集合し、共同して行動し、共同してヴァッジ族としてなすべきことをなす。
  3. ヴァッジ人は、未だ定められてことを定めず、すでに定められたことを破らず、往昔に定められたヴァッジ人の法に従って行動しようとする。
  4. ヴァッジ人は、ヴァッジ族のうちのヴァッジ古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきとものと思う。
  5. ヴァッジ人は、宗族の婦女・童女をば暴力もて連れ出し拘え留めることを為さない。
  6. ヴァッジ人は、[都市の]内外のヴァッジ人のヴァッジ霊地を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない。
  7. ヴァッジ人が真人(尊敬されるべき修行者)(阿羅漢)たちに、正当の保護と防禦と支持とを与えてよく備え、未だ来らざる真人たちが、この領土に入るであろうことを、またすでに来た真人たちが、この領土のうちに安らかに住まうであろうことをねがう。

 アーナンダは、いずれもヴァッジ人は守っていることを師に伝えます。
 釈尊は、この教えは「ヴァッジ人に衰亡を来さざるための法として説いた」のであり「この七つをまもっているのが見られる限りは、ヴァッジ人に繁栄が期待せられ、衰亡はないであろう」と応えます。
 ヴァッサカーラ大臣は納得し早々に引き上げます。

  修行僧たちに教える

 その後、この「衰亡を来さない七種の法」は教団にも当てはまると、王舎城の近くに住んでいる修行僧を一堂に集め、教え『七不退法』を説かれます。

  1. 修行僧たちよ。修行僧たちがしばしば会議を開き、会議には多くの人が参集する間は、修行僧らに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  2. 修行僧たちよ。修行僧たちが未来の世に、共同して集合し、共同して行動し、共同して教団の為すべきことを為す間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  3. 修行僧たちよ。修行僧たちが未来の世に、未だ定められていないことを定めず、すでに定められたことを破らず、すでに定められたとおりの戒律をたもって実践するならば、修行僧らよ 、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  4. 修行僧たちよ。修行僧たちが、未来の世に、経験ゆたかな、出家して久しい長老たち、教団の父、教団の導き手を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうしてかれらの言は聴くべきであると思う間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  5. 修行僧たちよ。修行僧たちが、のちの迷いの生存(後有)をひき起こす愛執が起っても、それに支配されない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  6. 修行僧たちよ。修行僧たちが、林間の住処に住むのを望んでいる間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  7. 修行僧たちよ。修行僧たちが、みずから心のおもいを安定し「未だ来ない良き修行者なる友が来るように、また、すでに来た良き修行者なる友が快適に暮らせるように」とねがっている間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。

 修行者たちよ、この七つの『滅亡を来たさざる法』が修行僧たちのうちに存在し、また修行僧たちが、この七つの『滅亡を来たさざる法』をまもているのが見られる間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。

 このように、今の政治や組織、教団にも当てはまる項目も有れば、随分保守的に受け取れる項目もあります。
 例えば皆の合意で政治や教団を運営したり、暴力を廃止し、他から来た者でも尊敬すべき人は敬うなどは、現代にも当てはまりますが、一旦定められた法は変更せず、という考えは臨機応変の仏法から見ると少し頑迷な印象を受けます。これはおそらくこの経典の編者達が、保守的なグループに属していて、先進的な運動に対する反発があったものと思われます。

 釈尊は、さらに七つの『滅亡を来たさざる法』を説かれます。

  1. 修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが動作を喜ばず、動作を楽しまず、好んで動作に従事しない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  2. また修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが談話を喜ばず、談話を楽しまず、好んで談話に耽らない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  3. また修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが睡眠を喜ばず、睡眠を楽しまず、好んで睡眠に耽らない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  4. また修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが社交を喜ばず、社交を楽しまず、好んで社交に耽らない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  5. また修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが悪い欲望をいだかず、諸々の悪い欲望に支配されない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  6. また修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが悪友をもたず、悪い仲間をもたず、悪い同輩をもたない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  7. また修行僧たちよ。未来の世に、修行僧たちが少しばかり勝れた境地に到達したことによって中途で修行をやめてしまわない間は、修行僧らよ、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
 釈尊は続いて、さらに七つの『滅亡を来たさざる法』を説かれます。
 修行僧たちよ。また修行僧たちが未来の世に、信があり、じる心あり、じ、博学であり、努力し励み、心の念いが安定していて、智慧をもったものであるならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
 ちなみに「慚」と「愧」の違いは――
  1. 『慚』は、自ら罪をつくらないこと、『愧』は、他に教えて罪をつくらせないようにすること。
  2. 『慚』は、心に自らの罪を恥じること。『愧』は自らの罪を人に告白して恥じ、罪のゆるしを請うこと。または他にくらべて自らの劣った点を自覚してひけ目を感ずること。
  3. 『慚』は人に対して恥じること。『愧』は天に対して恥じること。
  4. 『慚』は、他人の徳を敬うこと。『愧』は自らの罪に対する恐れ。
  5. 『慚』は自らを観察することによって自らの過失を恥じること。『愧』は、他人を観察することによって自らの過失を恥じること。
等、諸説ありますが、一般的にアビダルマ仏教では第2の説を取ります。

 釈尊は、さらに七つの『滅亡を来たさざる法』を説かれます。

 修行僧たちよ。また修行僧たちが未来の世に、「よく思いをこらす」さとりのことがらを修し、「よく法をえらび分ける」さとりのことがらを修し、「よく努力する」さとりのことがらを修し、「よく喜びに満ち足りる」さとりのことがらを修し、「心身が軽やかになる」さとりのことがらを修し、「精神統一」というさとりのことがらを修し、「心の平静安定」というさとりのことがらを修するならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。

 ここではさとりの支分(覚支)が説かれます。念覚支・正い思念、択法覚支・真偽の判別、精進覚支・精励、喜覚支・喜悦、軽安覚支・心の平静、定覚支・精神統一、捨覚支・無執着は、どれも仏教の基本的な修行徳目です。

 釈尊は、さらに七つの『滅亡を来たさざる法』を説かれます。

 修行僧たちよ。また修行僧たちが未来の世に、あらゆるものは無常であるという想いを修すならば、また、あらゆるものは我(アートマン)ならざるものであるという想いを修すならば、また、あらゆるものは不浄であるという想いを修すならば、またあらゆるものは厭わしいものであるという想いを修すならば、またあらゆるものを捨て去る想いを修すならば、またあらゆる欲情から離れる想いを修すならば、また止滅の想いを修すならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
 ちなみに、これらの無常想、無我想、不浄想、苦想、捨離想、離情想、滅想は、一般的に仏教の基本理念としてとらえられていますが、これは部派(アビダルマ)仏教としての考えで、大乗仏教ではこれらは未完の説であり、「顛倒である」としてことごとくひっくり返してとらえます。つまり、有為(現象)の世界は、無常・無我・不浄・苦ですが、無為(永遠)の世界では、常・楽・我・浄であるということです。

 釈尊は、さらに六つの『滅亡を来たさざる法』を説かれます。

  1. 修行僧たちよ。また修行僧たちが慈しみのある「身体での行動」を、共に修行する人々に対して、公にも秘密のうちにも確かに実行しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  2. 修行僧たちよ。また修行僧たちが慈しみのある「ことばでの行動」を、共に修行する人々に対して、公にも秘密のうちにも確かに実行しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  3. 修行僧たちよ。また修行僧たちが慈しみのある「心での行動」を、共に修行する人々に対して、公にも秘密のうちにも確かに実行しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  4. 修行僧たちよ。また修行僧たちが、未来の世に、修行僧のために規定にかなって選られたものを、単に鉢に入れられて得られたものに至るまでも、分配することなしに食することが無く、戒しめをたもつ共同修行者たちと仲よく分け合って食するならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  5. 修行僧たちよ。また修行僧たちが、切れ切れでなくて、瑕(きず)の無い、斑点(まじり)の無い、よごれていないで、自在であって、知者の称讃する、汚れの無い、精神統一をあらわし出すような戒律に関して、共同修行者たちと、公にも秘密のうちにも戒律をまもる修行者の境地を実践しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。
  6. 修行僧たちよ。また修行僧たちが、迷いの領域から離脱し得るような、それを実践する人をして完全に苦しみをなくさせるような、そのような立派な(正しい)見解によって、共同修行者たちと、公にも秘密のうちにも(正しい)見解の究極の境地を実践しているならば、その間は、修行僧たちに繁栄が期待され、滅亡は無いであろう。

 このように『涅槃経』の冒頭に、ヴァッジ人や教団に対する『滅亡を来たさざる法』を記したのは、この経典の編者が、後世までも教団が繁栄することを願っていたことが伺えます。ただ逆に、新しい仏教運動に対する反動的な教説、という見方も出来ると思われます。そして冒頭の最後は以下の言葉で結ばれています。

 尊師はかの王舎城の鷲の峰なる山に住して、修行僧たちのために、このように数多くの「法に関する講話」をなさった。――「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである、戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある、精神統一とともに修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧とともに修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する」と。

 以上が釈尊の最後の旅に出る前に説かれた教えですが、ここには修行僧らに長年説かれてきた教えが大雑把にですがまとめられています。

  (最後の)旅に出る

 その後、釈尊は、鷲の峰を出て、王舎城のアンバラッティカー園にある王の家に赴き、比丘たちに数々の法話をされます。ここでは「法に関する講話」つまり、戒律・精神統一・智慧、そしてそれらの果報について述べられます。

 それからナーランダーに行って、パーヴァーリカーというマンゴ樹の園にとどまりますが、ここでサーリプッタ(舎利弗)の信仰句告白があったとされます。

 尊い方よ。わたしは尊師に対してこのように信じています。――修行者であろうとも、バラモンであろうとも、尊師よりもさらにすぐれた、さとりに関してさらに熟知せる人は、尊師のほかには、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、また現在にも存在しないであろう
 釈尊は、この言葉を確認するため、「心で知ったのか」と尋ねると、サーリプッタは否定し、“堅固な城に一つの門扉”の譬えを用い、「推知した」のだと告白します。

 ただ、パーリ本のここでの記述は歴史的事実ではないと「推知」されます。その理由は――

  1. 『サンスクリット本』や『有部本』に相応文がない。
  2. 当時はナーランダーは重要な土地であったか疑問。
  3. サーリプッタはもっと以前に亡くなっている可能性がある。

ということですが、勿論同様の事柄がこれ以前にあって、そのやりとりをこの部分に挿入したということは考えられます。
 このサーリプッタの大胆ともいえる発言は一体何を意味するのでしょうか。“堅固な城に一つの門扉”の譬えでは説明不足で、発言の裏付けとはなっていません。釈尊もここではその発言の真意を追求されているようです。智慧第一といわれたサーリプッタが実際にこのような発言をしたのかどうかは定かではありませんが、ここにわざわざこの(過去の)エピソードを挿入した経典編者の真意はどこにあったのでしょう。これではまるで、この時点での教団内には、釈尊のみがさとりを得ているような記述です。
 これ以上勝手な私の「推知」は避けますが、このエピソードの語ろうとしているところは謎が多いようです。

 また、この地でも釈尊はアンバラッティカー園での「法に関する講話」と同様の説教をされたと記されています。

  パータリ村にて

 それから一行はパータリ村に行きますが、ここでは村の信者がこぞって集まり、釈尊は在家信者の休息所に招かれ法話を始めます。なお、その際の随行比丘は何人であったのか分かっていません。多数説、少数説がありますが、どうも少数であったと今では考えられています。
 ここでは在家信者(資産家)たちに「戒めを犯したために、行いが悪い人には五つの禍いがある」と、戒を守る大切さを説きます。それは「大いに財産を失う」、「悪い評判が近づいてくる」、「どこへ行っても不安で、おじけている」、「死ぬときに精神が錯乱している」、「死後地獄に生れる」ということです。
 そして、逆に「戒めをたもっていることによって、品性のある人には、この五つのすぐれた利点がある」として、「財産が豊かとなる」、「良い評判が起る」、「泰然としていて、おじけることがない」、「死ぬ時に精神錯乱することがない」、「死後善いところ、天の世界に生れる」と、その利点を説きます。

 次の日、このパータリ村に城郭(ヴァッジ族対策)を築こうとしているマガダ国の大臣スニーダとヴァッサカーラの食事の招待を受けます。ヴァッサカーラは冒頭で使者として来ていた大臣です。なおこの時築いていた城郭は重要拠点で、後代の諸帝王によっても継承され、インドの軍事文化全般の中心地として発展を遂げます。

 食事が終わると、釈尊は次の詩句を唱えます。

聖者の生れなる者の
住居を定める地方には
そこに、戒しめをたもち自ら制する清浄行者を守って
そこに(都の)神がいるならば
かれらに供物を捧げよ。
かれらは敬われてかれを敬い
崇敬されて、かれを崇敬する。
かくてかれを愛護すること、
あたかも母がみずからの子を愛護するようなものである。
神の冥々の保護を受けている人は、つねに幸福を見る。

 ついで釈尊はガンジス河を渡りますが、その際、人々が川を行き来する様子を見られ、次の詩句をひとりつぶやいた、とされています。

「深所を棄てて橋をつくって、海や沼を渡る人々もある。
浮嚢を結びつけて筏をつくって渡る人々もあり。
渡りあわった人々は、賢者である」と。


第二章

  コーティ村にて

 釈尊は河を渡った後、比丘たちを連れてコーティ村におもむきます。ここでは流転輪廻の原因が、四聖諦(=苦諦・集諦・滅諦・道諦)の意味をよく理解せず、その深義に達していないためである、ということを、順次修行僧たちに説いていきます。
その後、その要旨をつぎのような詩句にまとめられます。

四つの尊い真実を
如実に知らずにいた故に
長き流転の歳重ね
幾多の生を受けにしを

深き道理をさとりえて
妄執すでに断ち切れば
もはや苦悩の根は断たれ
迷いの生はさらになし

 その後ここでも「法に関する講話」つまり、戒律・精神統一・智慧、そしてそれらの果報について述べられます。

  ナーディカ村にて

 続いて釈尊は、ナーディカ村(サンスクリット本によるとヴァッジ族の地方)の煉瓦堂に留まります。ここでアーナンダが近づき、様々な人の死後の運命をたずねます。
質問を受けて釈尊は以下のように答えます

 アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れの無い『心の解脱』『智慧による解脱』をみずから知り、体得し、具現していた。したがって、この比丘は今さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
 アーナンダよ。尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷い(貪り・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、『一度だけ戻ってくる者(=一来)』となった。この信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
 アーナンダよ。在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、『聖者の流れに踏み入った人(=預流)』となった。この女信者は、もはや悪しき世界に堕ちることはなく、必ず正しいさとりを得ることが確定している。
 アーナンダよ。在俗信者のカクダは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。この在俗信者はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。同じように、アーナンダよ。カーリンガ、ニカタ、カティッサバ、トゥッタ、サントゥッタ、バッダ、スバッダなどの在俗信者も、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはその天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはその天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷い(貪り・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、『一度だけ戻ってくる者』となった。これらの信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
  アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、『聖者の流れに踏み入った人(=預流)』となった。これらの信者たちは、もはや悪しき世界に堕ちることはなく、必ず正しいさとりを得ることが確定している。

 ここで注目すべきは、多くの修行者、在俗信者の死亡が具体的に出ていることです。特に 「ナーディカ村で死んだ五十人以上の在俗信者たち」、「このナーディカ村で死んだ九十人以上の在俗信者たち」、「このナーディカ村で死んだ五百人以上の在俗信者たち」とあり、これは一時期に死亡者が重なったことを意味しています。
 このあたりの事情は、サンスクリット本には以下のように出ています。

 世尊はナーディカ村に到着し、クンジカ休息所に逗留した。ナーディカ村の多くの人たちがマーリという疫病に罹って死んだ。

 問題は、この後釈尊がベールヴァ村で「死ぬ程の激痛」に襲われていますが、ここナーディカ村に滞在した際にこの伝染病に罹った可能性が高い、ということです。

 さて、死後の行く末について知ることは、釈尊にとっては「別に不思議なことではない」のですが、人が亡くなるたびに聞きに来るのでは煩雑であるため、ここで『法の鏡』という法門を説かれます。この法門は「これを具現したなら、みずから自分の運命をはっきり見究めることができる」というもので、仏・法・僧へ絶対の信仰をすすめます。

 アーナンダよ。ここに、立派な弟子がいて、仏に対して清らかな信仰を起こしている――『かの尊師は、このように、真人(阿羅漢)・正しくさとりを開いた人(正等覚者)・明知と実行を完成している人(明行足)・幸いな人(善逝)・世間を知っている人(世間解)・無上の人(無上士)・頑なな男を統御する御者(調御丈夫)・神々と人間との師(天人師)・覚った人(仏)、尊師(世尊)である』と。
 またかれは、法にに対して清らかな信仰を起こしている――『尊師がみごとに説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちにききめのあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地にみちびくものであり、諸々の知者が各自みずから証するものである』と。
 またかれは、僧(サンガ・集い)にに対して清らかな信仰を起こしている――『尊師の弟子のつどいはよく実践している。尊師の弟子のつどいは真っ直ぐに実践している。尊師の弟子のつどいは正しい道理にしたがって実践している。尊師の弟子のつどいは和敬して実践している。尊師の弟子のつどいは、すなわち、二人ずつの四組と八人の人々(四双八輩)とであるが、かれらを敬うべく、尊ぶべく、もてなすべく、合掌すべきであり、世間の最上の副田である』と。
 かれは聖者の愛する、切れ切れではなくて、瑕のない、斑点(まじり)のない、よごれていないで、自在であって、知者の称讃する、執れのなく、精神統一に導く戒律を身に具現している。

 アーナンダよ。これこそ『法の鏡』という名の法門であって、それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきり見究めることができるであろう、「わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である」と。

 その後釈尊は、ここでも「法に関する講話」をされます。

  商業都市ヴェーサーリー

 続いて一行は、商業都市ヴェーサーリーへおもむき、町はずれのアンバパーリーの園に滞在されます。ここで釈尊は修行僧たちに、「正しく思念し、正しく意識を保って過ごすべきである」と戒めます。つまり、身体について、感受に関して、心について「よく観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい」と説かれ、行住坐臥に気をつけることを教えます。

  遊女アンバパーリー

 さて、アンバパーリー園の所有者は、遊女アンバパーリーですが、釈尊が自分のマンゴー林に滞在されていると聞いて、さっそく麗しい乗物をともなって出かけます。車から降りて法話を聞いた彼女は喜び、食事の供養を申し出ます。釈尊は沈黙を持って同意されました。

 アンバパーリーはこうして供養の権利を獲得しましたが、遅れてやってきたリッチャヴィ族の人たちは「その権利を十万金で譲って欲しい」と懇願します。しかし彼女は「ヴェーサーリー市とその領土とをくださっても、このようなすばらしい食事のもてなしをゆずりは致しません」と断わります。また釈尊に直接「先約を覆してほしい」と、リッチャヴィ族の人たちがたのみますが、これも断わられます。相手の身分や職業や性別に関わらず、先約を優先する原則がここに見られます。

 その後釈尊は、ここでも「法に関する講話」をされます。

  旅に病む――ベールヴァ村にて

 アンバパーリー園にしばらく留まった後、釈尊はベールバ村という竹林のある小さな村落(もしくは大きな林)におもむかれます。ここで修行僧達には「ヴェーサーリーのあたりで友人を頼り」雨安吾に入るよう指示し、自らは竹林村にとどまります。
 雨安吾とは、雨期の定住のことで、インド歴第4月の満月の翌日から90日間、家屋もしくは僧院の中に閉じこもり坐禅、修養につとめることです。これはインドでは諸宗教に共通する習慣であったらしく、今日でも南方の仏教教団はこの実践法を守っています。この時釈尊につき随ったのはアーナンダくらいですが、他の弟子たちを分散させたのは、当時ここには大きな僧院が無かったことによると思われます。

 さて、釈尊は雨安吾に入られた時『恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起った』のですが、これはおそらくナーディカ村での感染が発病したものと思われます。普通の人ならすぐにでも亡くなってしまうところですが、「修行者たちに別れを告げないで、ニルバーナに入ることは、わたしにはふさわしくない」と、禅定に入って苦痛を堪え忍び、病を癒します。
 ここでアーナンダは釈尊に最後の説法を懇請しますが、それに応えて説かれたのが、有名な「自灯明 法灯明」の教えです。

 アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか? わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
 アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。しかし、アーナンダよ、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
 それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

 ここで重要なのは、釈尊みずからが一般で考えられているような師弟の関係を否定したことです。仏教教団のあり方は、他の宗教と違い、師に絶対服従するような関係ではなく、あくまで個々が独立した歩みをする中で育まれるもので、これは基本的には現在の仏教教団にも当てはまるものです。
 このことを訳者の中村元氏は――

 ゴータマ・ブッダは、以下の文から見て明らかなように、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している。たよるべきものは、めいめいの自己であり、それはまた普遍的な法に合致すべきものである。「親鸞は弟子一人ももたず」という告白が、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの右の教え何ら直接の連絡はないにもかかわらず、論理的には何かしらつながるものがある
と、訳注しています。

 また「完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない」とありますが、これは仏教以外の、特にバラモンの宗教者の多くは、死ぬ間際に選ばれた弟子にのみ秘密のうちに弟子に伝授することを物語っています。
 これも基本的には現在の仏教教団にも当てはまるものです。この原則を破り、「私は秘密のうちに師匠から学んだ」とうそぶき、教団を混乱させる者も出現しますが、上記の『師弟の関係』や『教師の握拳は存在しない』の原則を破る偽仏教者が、教団のみならず社会に多くの害悪を撒き散らした例は、枚挙にいとまがありません。

 続いて釈尊は、身体・感受・心・諸々の事象について「観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである」とさとし、また「自灯明 法灯明」の教えをくり返されます。


第三章

  命を捨てる決意

 次に日中の休息をとるため、ヴェーサーリー郊外のチャーパーラ霊樹のもとに赴きます。ここで釈尊は、ヴェーサーリーについて、また世界についての感嘆の言葉を述べられたと記されています。
 実は『法顕本』の『大般涅槃経』はここから始まっていて、二章までの教えの数々(例えばヴァッジ人への教説)は以後の出来事の中に挿入される形で編纂されています。ただし法顕本には「自灯明法灯明」の諭しは出てきません。このため『法顕本』の方が最初期にできて、後に他の教説が追加されたという説もあります。

「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい。ゴータマカ霊樹は楽しい。サッタンバカ霊樹は楽しい。バフプッタ霊樹は楽しい。サーランダダ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい」(パーリ本、失譯本、梵本、チベット本)
「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」(梵本)

 続いて釈尊は、アーナンダに遠回しの暗示をかけます。

 アーナンダよ。いかなる人であろうとも、四つの不思議な霊力(四神足)を修し、大いに修し、(軛を結びつけられた)車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、完全に積み重ね、みごとになしとげた人は、もしも望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。

「四神足」とは、すぐれた精神統一(三昧・定)を得ようと願い(欲神足)、努力し(勤神足)、心を専注し(心神足)、思惟観察する(観神足)することです。これらを習熟するとで諸願が自由自在に成就されるので、もしここでアーナンダが懇願すれば寿命を延ばすことが出来る、と言っているのです。
 ここで問題となってくるのは、どの位寿命を延ばすことが可能なのか、ということです。我々の常識からすれば「病は気から」という程度で、四神足を修している釈尊だから、ほんの数年くらいは延ばすことが出来るのだろう、程度に思われますが、解釈によっては「一劫の間、あるいはそれ以上」と読み取れます。
『劫』というのは、サンスクリットのカルパ[kalpa]、パーリ語のカッパ[kappa]の音写で、非常に永い時間をいいます。これはこの世界(宇宙)の年齢、永遠無限の時間を一単位にしていて、たとえば「四十里(一由旬=異説もあるが約14.4km)四方の石山を長寿の人が百年に一度ずつ細軟の衣をもって払拭して、この石山を尽くしても、なおこの劫は尽きない」と『大智度論』等にも出てきます。
 ただ、仏身論ならいざ知らず、方便(肉体)の身で劫の単位を持ち出すのは相応しくなく、この点ブッダゴーサ(=セイロン上座部教義の大成者・西暦5世紀前半)は「寿命よりも少し長く、あるいは百歳よりも以上に」という解釈をしています。
 釈尊は何度もアーナンダに明示しますが、洞察することができず、留寿行(寿命を永劫に延ばす行)の懇願をしませんでした。経典には「かれの心が悪魔にとりつかれていたからである」と述べられています。

  悪魔との対話

 アーナンダが近くにある一本の樹の根もとに坐ると、まもなく悪魔が来て釈尊に――

 今や世尊の清浄行は成就され、(修行者は解脱し、在家信者は正しい実践をなし)、栄え、ひろがり、多くの人々に知られ、ゆきわたり、すなわち人々のために説き明されています。今こそ世尊はニルヴァーナにお入り下さい。幸いな方はニルヴァーナにお入り下さい。今こそ世尊がお亡くなりになるべき時です。

と、入滅をすすめます。
 アーナンダの懇請が無かったことで、釈尊は次のように言われます。

 悪しき者よ。汝は心あせるな。久しからずして修行完成者のニルヴァーナが起るであろう。いまから三ヵ月過ぎて後に修行完成者は亡くなるであろう。
 このように三ヵ月後の入滅を言い渡し、留寿行を放棄されます。

  大地震に関連して

 この時、「大地震が起った。人々を驚怖させ、身の毛をよだたせ、神々の天鼓は破裂した(雷鳴が轟いた)」のですが、アーナンダはこの地震の起る原因について、また条件についてたずねます。
 釈尊は地震が起る8つの原因・条件について説かれます。

  1. 地層の動揺など物理的な原因。
  2. 神通力があり他人の心を支配する力のある修行者(沙門)、バラモン、神霊などが神通力を用いて起こす。
  3. ボーディサッタ(ブッダの全身)がトゥシタ天より母胎に入る時。
  4. ボーディサッタが母胎から外に出る時。
  5. 修行を完成した人が覚りを得た時。
  6. 修行を完成した人が説法を始めた時。
  7. 修行を完成した人が留寿行を放棄された時。
  8. 修行を完成した人が完全なニルヴァーナに入る時。

 続いてまた釈尊は、『八つの集い』について、述べられます――

 アーナンダよ。ここに八つの集いがある。その八つとは何であるか? 王族の集い、バラモンの集い、資産者の集い、修行者の集い、四天王に属する衆の集い、三十三天の神々の集い、悪魔の集い、梵天の衆の集いである。
 アーナンダよ。私は幾百という王族の集いに近づいて、そこでわたしが、かつて共に集まって坐し、かつて共に語り、かつて議論に耽ったことを、ありありと想い出す。その場合わたしの(皮膚の)色は、かれらの(皮膚の)色に似ていた。わたしの声は、かれらの声に似ていた。わたしは『法に関する講話』によってかれらを教え、諭し、励まし、喜ばせた。ところが、話をしているわたしを、かれらは知らなかった。――『この話をしているこの人は誰であるか? 神か? 人か?』といって。わたしは『法に関する講話』によってかれらを教え、諭し、励まし、喜ばせて、すがたを隠した。ところが姿を隠したわたしのことをかれらは知らなかった。――『すがたを隠した者は誰であるか? 神か? 人か?』といって。

 バラモンの集い、資産者の集い、修行者の集い、四天王に属する衆の集い、三十三天の神々の集い、悪魔の集い、梵天の衆の集いについても、王族の集いと同様なことが起ったと述べられます。

 ここでは、釈尊は教えを修行者だけに話されたのではなく、様々な集いの場で説法をされたことをうかがわせます。また釈尊は相手の色や声、つまり相手の理解に合わせて、また悩みに応じて説法された、それによって人々を「教え、諭し、励まし、喜ばせた」のですが、その教えを自分たちの理解の範囲内でとらえていて、釈尊の本当の姿を知らなかった。またこれから姿を隠す、つまり完全なニルヴァーナに入るが、本当の釈尊を誰も知らなかった、ということでしょう。

 この言葉は、以後に大量の経典が編纂されることを予見させ、また中国においての教相判釈、つまり――

  1. 釈尊はいつも同じ教えを説かれたが、聞く側が各人それぞれの解釈をしたため、大量の経ができた、「如来は一音を以て法を演説したもう。衆生は類に随って、各々解りを得た」(維摩経)という説。
  2. 釈尊は相手に応じて法を説いた(対機説法。応病与薬)ため悩みの種類や、理解力によって教えが違うという説。
を裏付ける言葉になっています。

 さらに続いて釈尊は『八つの支配して打ち克つ境地(勝処)』について述べられ、あらゆる物質的なものにも、あらゆる物質ならざるものにも「それらに打ち克って、われは知り、われは見る」と、このような想いをなすよう指導します。

 また『八つの解脱』についても、様々な念相作用がさとりの境地を得るのに積極的に関わっていく様子が述べられます。

 その後、悪魔とのいきさつをアーナンダに話します。
 悪魔が釈尊をニルヴァーナへ誘うのは、「ウルヴェーラーにおいて、ネーランジャラー河の岸べで、始めてさとりを開いて、アジャパーラというバニヤンの樹のもとに住していた」時で、その際は「わがこの清浄行が栄え、盛んとなり、ひろがり、多くの人々に奉ぜられ、ついに神々および人々の住む限りのところで、広く説かれて諸方面にひろがらない間は、わたしは亡くなりはしないであろう」と述べた。しかし今日悪魔がまた近づきニルヴァーナに誘った、と先ほどの経緯を話し、留寿行の放棄と三ヵ月後の入滅をアーナンダに言い渡します。

 アーナンダは驚き、釈尊に懇願します――

 尊い方よ。尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。幸いな方は寿命のある限りこの世に留まってください。――多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々をあわれむために、神々と人間との利益のために、幸福のために

 アーナンダは三度懇請しますが、釈尊は「いまは修行完成者に懇請すべき時ではない」と願いを退けます。そして「これはお前の過失である」と、以前からあらわに明示したが懇請が無かったことを述べられます。

 アーナンダよ。もしもお前が修行完成者に懇請したならば、修行完成者はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、しかし三度まで言ったならばそれを承認したであろう。それだから、アーナンダよ、これはお前の罪である。これはお前の過失である

  死別の運命

 そして、一度口にした道理をみずから変更して留寿行を行うことは出来ないと述べられ、また、「愛しく気に入っているすべての人々とも、やがては、生別し、死別し、(死後には生存の場所を)異にするに至る」と、あらかじめ告げておいたことを問いかけます。

 次に『大きな林』にある重閣講堂におもむかれ、ヴェーサーリーの近くに住するすべての修行僧たちを講堂に集めるようアーナンダに告げ、やがて集まってきた修行僧たちに(三十七道品の)法の実践を勧めます――

その『法』とは何であるか? それはすなわち、四つの念ずることがら(四念処)と四つの努力(四正勤)と四つの不思議な霊力(四神足)と五つの勢力(五根)と五つの力(五力)と七つのさとりのことがら(七覚支)と八種よりなるすぐれた道(八正道)とである。修行僧達よ。これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良くたもって、実践し、実修し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすのであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、神々と人々との利益・幸福になるためである

ここで三十七道品について簡単に説明しますと――

 四つの念ずることがら(四念処・四念住・四念処観)四種の観想法。

  1. 身体は不浄である。
  2. 感受は苦である。
  3. 心は無常である。
  4. すべての事物は無我である。

 四つの努力(四正勤・四精勤)。

  1. すでに生じた悪を除こうと勤めること。
  2. 悪を生じないように勤めること。
  3. 善を生ずるように勤めること。
  4. すでに生じた善を増すように勤めること。

 四つの不思議な霊力(四神足)四つの自在力を得る根拠。

  1. 欲神足。すぐれた瞑想を得ようと願うこと。
  2. 勤神足。すぐれた瞑想を得ようと努力すること。
  3. 心神足。心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること。
  4. 観神足。智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること。

 五つの勢力(五根)解脱に至らしめる五つの力。能力。

  1. 精進

 五つの力(五力)さとりに至らしめる五つの力。はたらき。

  1. 精進

 七つのさとりのことがら(七覚支・七菩提分)。心の状態に応じて、存在を観察する上での注意・方法。

  1. 択法。教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。
  2. 精進。一心に努力する。
  3. 喜。真実の教えを実行する喜びに住する。
  4. 軽安。心身をかろやかに快適にする。
  5. 捨。対象へのとらわれを捨てる。
  6. 定。心を集中して乱さない。
  7. 念。おもいを平らかにする。

 八種よりなるすぐれた道(八正道・八聖道)。正しい生活態度。

  1. 正見。正しい見解。
  2. 正思惟。正しい思い。
  3. 正語。正しいことば。
  4. 正業。正しい行為。
  5. 正命。正しい生活。
  6. 正精進。正しい努力。
  7. 正念。正しい気づかい。
  8. 正定。正しい精神統一。

 続いて涅槃経は以下のように続きます――

 そこで尊師は修行僧たちに告げられた、「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう、――もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠けることなく修行を完成なさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから三ヵ月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう」と。  尊師、幸いな人、師はこのように説かれた。このように説いたあとで、さらに次のように言われた。――

「わが齢は熟した。
わが餘命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
私は自己に帰依することをした。
修行僧らよ、汝らは精励にして正しく気をつけ、
よく戒しめをたもってあれ。
思惟によって良く心を統一し、
おのが心をまもれよ。
この法と律とに精励するであろう者は、
生の流転をすてて、苦しみの終末をもたらすであろう」と。

 この教えにあるように、自分が亡くなられた後の教団は「法と律とに精励する」ことで成り立たせていくよう説かれています。特に初期の教団の基盤は戒律にあり、他の宗教、もしくは集団、組織が、生まれや職業によって住み分け(差別)が行われていたのに反し、仏教教団は、「戒律を守る」という共通項で成り立っていました。
 仏教も教団が大きくなり、国を支える地盤にまで拡大すると、戒律より教えが中心になりますが、当時は教えをまとめる作業は手付かずの状態でした。


第四章

  一生の回顧――パンダ村へ

 その後釈尊は、ヴェーサーリー市を後にしバンダ村へ赴きます。ここで釈尊は修行僧たちに「流転の理由」について説かれます。

 修行僧たちよ。四つのことわりをさとらず、また通達しなかったから、わたしもお前たちも、このように、長い時間のあいだ、流転し、輪廻したのである。

 この四つとは『尊い戒律』、『尊い精神統一』、『尊い智慧』、『尊い解脱』であり、釈尊は自ら、この覚りを得られた境地を次のような詩句で述べられます。

戒めと精神統一と智慧と無上の解脱と、
これらの法を、誉れ高きゴータマは、覚った。
ブッダは、このようによく知って、修行僧たちに法を説かれた。
苦しみを滅した人、眼ある師は、すでに束縛をときほごされた。

 自分のことを「誉れ高き」と言うのは変な気がしますが、これはこの経典を編集した際の表現で、釈尊を限りなく尊敬する編者達の気持ちが出ている訳です。

 その後『法に関する講話』をされ、この地でこころゆくまで住して後、釈尊は、ハッティ村、アンバ村、ジャンブ村からボーガ市へ赴かれた、と『パーリ本』には表されています。しかしここの記述は諸本により多少相違があります。

  ボーガ市における四大教示

 ボーガ市では釈尊は修行僧たちに『四つの大きな教示(四大教法・四決定説)』を説かれます。

 修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう、――「友よ。わたしはこのことを尊師からまのあたりに直接に聞いた。まのあたりにうけたまわった。――これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである」と。修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取られるべきではないし、また排斥されるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合わせ、戒律に参照吟味すべきである。

 このように吟味して、経典や戒律に合致していなければ放棄し、合致していれば受け入れる。これを『第一の典拠への参照(第一の大いなる指標)』であるとし、よく保持するように勧めます。
 またこのことを「これこれの住所に修行僧の集いがあって、長老や尊長も住している。わたしはこのことをその集いからまのあたりに直接に聞いた。まのあたりにうけたまわった」という場合も、「これこれの住所に、博学にして、聖典を伝え、法をたもち、戒律をたもち、マーティカ(戒律箇条)をたもっている長老・修行僧が大勢いる。わたしはこのことをその集いからまのあたりに直接に聞いた。まのあたりにうけたまわった」という場合も、「これこれの住所に、博学にして、聖典を伝え、法をたもち、戒律をたもち、マーティカをたもっている一人の長老・修行僧がいる。わたしはこのことをその長老からまのあたりに直接に聞いた。まのあたりにうけたまわった」という場合も、同様に「それらの文句を正しく良く理解して、(ひとつずつ)経典にひき合わせ、戒律に参照吟味すべきである」とし、「これらの四つの大きな教示をうけたまわりなさい」と述べられます。
 その後『法に関する講話』をされ、この地でこころゆくまで住して後、釈尊は、パーヴァに赴かれます。

  鍛冶工チュンダ

 パーヴァ村では鍛冶工の子チュンダのマンゴー林にとどまっていたので、チュンダは噂を聞いて駆けつけ、教えを請います。

 鍛冶工のチュンダは言った。
「大いなる智慧ある聖者、仏、法主、愛着を離れた人、人類の最上者。優れた御者に、わたしはおたずねします。――世間にはどれだけの道の人(沙門、修行者)がいますか? どうぞお示し下さい」
 世尊は言われた。
「チュンダよ。四種の道の人があり、第五の者はありません。現に問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。――『道による勝者』と『道を説く者』と『道に生きる者』と及び『道を汚す者』とです」
 鍛冶工のチュンダは言った。
「もろもろの覚れる人は誰を『道による勝者』と呼ばれるのですか? また『道を思う者』はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、『道によって生きる者』ということを説いて下さい。また『道を汚す者』をわたくしに明かして下さい」
(釈尊いわく)
「疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎを楽しみ、貪欲を除き、神々を含む世界を導く人、――かかる人を『道による勝者』であるともろもろの覚れる人は説く。
この世で最上のものを最上のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを断ち不動なる聖者を、修行者どものうちで第二の『道を説く者』と呼ぶ。
 良く説かれた法句なる道に生き、みずから制し、念いあり、とがのないことばを奉じている人を、修行者どものうちで、第三の『道によって生きる者』と呼ぶ。
 善く警戒を守っている者のふりをして、押しづよくして、家門を汚し、傲慢で、いつわりあり、自制心なく、おしゃべりで、しかも殊勝らしく行う者、――かれは『道を汚す者』である。
 学識あり聡明な在家の聖なる信徒は『かれら(四種の修行者)はすべてかくのごとくである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、かれの信はなくならない。かれはどうして、汚れたものと汚れていないものと、浄い者と浄くない者を同一視することがあろうか」

 チュンダは教えを聞き、喜んで、釈尊を食事に招待します。ここで釈尊に出した料理は『スーカラ・マッダヴァ』と書かれていますが、これがどんな料理を意味するのか、よく分かっていません。
 おそらく「きのこ料理(毒?)」だろうといわれていますが、多くの異説が存在します。そのいくつかを例に挙げますと――

  1. 野豚の踏みにじる(=好む)タケノコ
  2. 野豚の踏みつけた土地にできるキノコ
  3. 一種の薬草
  4. 栴檀耳(栴檀樹に生えたきのこ)
  5. 飯食
  6. 多美飯食
  7. 供飯
  8. 種種上妙香美飯食
  9. 柔らかい豚肉
  10. きのこ料理
  11. 有毒のきのこ
  12. トリュフのように豚が探すきのこ
  13. 「若すぎず老いすぎない上等の野豚のなま肉のことである。これは柔らかで、なめらかでよく肥えている。それを用意して、よく煮て、という意味である。この(肉の)うちには、二千の島にかこまれた四つの大陸のうちにまします神霊たちが精気を注入した」 [ブッダゴーサのパーリー文の注釈]
  14. 「柔らかな米飯の名であって、それの料理法は牛に由来する五種の味ある汁にもとづく。それはあたかも乳糜[ちちがゆ]というのが一般に何か料理されたものの名であるようなものである。また或る人人々は語る――(スカーラマッダヴァ)というのは不老長寿の薬(ラサーヤナ)の調製法のことである。そのことは不老長寿の薬の論書のうちに出て来る。尊師が入滅されることの無いように、とて、チュンダが、その不老長寿の薬を調製したのである、――と」 [ブッダゴーサの別の写本]

 「スカーラ」=野豚、「マッダヴァ」=柔らかい、という意味であるため、様々な説が出たようですが、もし豚肉という意味でも、戒律に反してはいません(デーバダッタは肉食に反発して教団の分裂を画策)。
 とにかく、この日チュンダが用意した食事はかなり豪華なもので、「尊師が入滅されることの無いよう」と、心を込めて最上の食事を用意したのであり、決して不用意に毒のある食事をふるまったわけではないようです。

 ただ経には以下のような釈尊の言葉が記されています。――

 チュンダよ。あなたの用意した料理(スカーラマッダヴァ)をわたしにください。また用意された他の噛む食物・柔かい食物を修行僧たちにあげてください。
 そしてさらに――
 チュンダよ。残った料理は、それを穴に埋めなさい。神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、また神々・人間を含む生きものの間でも、世の中で、修行完成者(如来)のほかには、それを食して完全にしょうかし得る人を、見出しません。

 このように言われ、釈尊は『法に関する講話』をされ、食事をとられます。その時――

 さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、激しい病が起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を堪え忍んでいた。

 このように書かれてあると、食事に毒が含まれていて、釈尊はそれを承知で食したかのような印象を与えますが、実際にチュンダの饗した食事は釈尊の身体をいたわり心を込めたものでした。ただ当時の『回復・長寿』を願って出されたその滋養のある食事が、逆に身体の弱っていた釈尊には効果が強すぎた可能性はあります。
 とにかく、とても動けるような状態でないはずの釈尊でしたが、それでも「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに赴こう」と告げ、パーヴァ村を後にします。

 クシナーラーに赴く途中、釈尊は路をそれて、とある樹の根もとに外衣を四重にして敷いて、そこで休みます。そして「水が飲みたい」と告げますが、アーナンダは、――

 尊い方よ。いま五百の車が通り過ぎました。(ここにある)その(河の)水は、車輪に割り込まれて、量も少なく、かき乱され、濁って流れています。かのカクッター河は、遠からぬところにあり、水が澄んでいて、水が快く、水が冷ややかで、清らかで、(渡し場がみごとで)近づき易く、見るも楽しいのです。尊師はそこで水を飲んで、お体を冷やして下さい。

 と言いますが、釈尊は三度、水を酌んでくるよう指示します。そこで「かしこまりました」と、鉢をとって、アーナンダがその河におもむくと、――

 さてその河は、車輪に割り込まれて、量が少なく、かき乱され、濁って流れていたが、若き人アーナンダが近づいたときには、澄んで、透明で、濁らずに、流れていた。

 という不思議が起ったことがここでは記されています。

  臨終の地をめざして――プックサとの邂逅

 さて、その「五百の車」の所有者である「マッラ族の人であり、アーラーラ・カーラーマの弟子であるブックサ」が、クシナーラからパーヴァーに向かって歩いていました。つまり彼は五百の車を先にやって、自分は後ろからついてきた訳です。

 ブックサは、釈尊が樹の根もとに坐しておられるのを見て、その心静かな姿に感動されて声をかけます。そして、昔アーラーラ・カーラーマは、今のように「意識をもって覚醒しておられても、五百台の車が近くを通り過ぎたのを、見られもせず、音を聞かれもしなかった」という経緯を話しますと、釈尊は、――

 プックサよ。あなたはそれをどう思うか? 意識をもっていて覚醒していながらも、五百台の車が近くを通り過ぎたのに、それを見ず、また音を聞かないのと、また、意識をもっていて覚醒していながらも、天に雨降り、天に雷鳴し、電光閃き、雷電がとどろいても、それを見ず、また音を聞かないのと、いずれが一層なし難いか? あるいはいずれが一層達成し難いのか?

 このように問い、釈尊は、かつてアートゥマー(村)で『籾殻の家』に住している時、その家に落雷があり二人の農夫と四頭の牛が死んだような時でも、「意識をもっていて覚醒していながらも、それを見ず、また音を聞かなかった」つまり禅定が乱されなかった、と自ら述べられます。
 そこで感激したプックサは、アーラーラ・カーラーマに対する信を吹き飛ばし、釈尊に帰依し、在俗信者となります。そして「柔かいつやつやした金色の一対の衣」を釈尊に差し出します。釈尊はそれを受け取り、一つはアーナンダに渡します。ここでも釈尊は『法に関する講話』によってプックサを教え、諭し、励まし、喜ばせます。
 プックサが去って間もなく、アーナンダはその衣を釈尊に着せますが、「尊師のからだに着せられたその衣は、輝きを失ったようにみえた」、つまり釈尊の威光に比され、金色の衣までがその輝きが失って見えたという訳です。その様子をアーナンダが申し上げると、釈尊は、――

 アーナンダよ。そのとおりである。まことに二つの時において修行完成者の皮膚の色は、きよらかで、輝かしい。その二つの時とはとはどれであるか? すなわち、アーナンダよ。修行完成者が無上のさとりを達成した夜と、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入る夜とである。アーナンダよ。この二つの時において、修行完成者の皮膚の色は、極めてきよらかで、輝かしい。

 この釈尊の光り輝く様子は、後世に仏像を黄金で飾ったり、大乗の浄土経典にも仏身の様子の表現に「光顔巍巍として 威神無極なり かくのごときの炎明 ともに等しきものなし」とし、「太陽や月やマニ宝珠の光も、墨の塊のように光を失う」という比喩を用いていくことを促します。

 釈尊はさらに言われます、――

 さて、アーナンダよ。今夜最後の更にクシナーラーのウヴァッタナにあるマッラ族の沙羅林の中で二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間で修行完成者の完全な死が起るであろう。さあ、アーナンダよ、われわれはカクッター河へ行こう。

 「今夜最後の更」とは、インドでは夜を三つに分け、初夜[しょや](=だいたい午後6時頃〜9時頃または10時頃)・中夜[ちゅうや](=午後9時頃または10時頃〜午前1時頃または2時頃)・後夜[ごや](=午前1時頃または2時頃〜午前5時頃)となっていまして、ここでは後夜という意味です。

 カックッター河へ赴いた釈尊一行は、河で沐浴し、口をすすいで水を飲まれます。河を渡ってマンゴー樹の林で休まれます。ここで釈尊は、鍛冶工のチュンダに非難が集まったり、供養を後悔することがあってはならないとして言われます。――

 この二つの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。その二つとは何であるか? 修行完成者が供養の食物を食べて無上の完全なさとりを達成したのと、および(このたびの)供養の食物を食べて、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られたのとである。この二つの供養の食物は、まさに等しいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報がある。

 このように、かつて成道の時スジャータから供養受けたその功徳と等しく大きい供養だった、と述べられています。そして釈尊は感興の詩をとなえられます。

施す人に 福は増し
自制[おさう]る人に 怨みなし
はた善き人の 悪遣[や]れば
貪瞋癡[まよい]は尽きて 涅槃[やすら]ぎぬ

 供養に上下があるはずもなく、ここではチュンダへの心遣いが表れている、と見ることができるでしょう。

アーラーラの物語を含む第四章 終る


第五章

  病い重し

 カクター河を後にし、ヒラニャヴァティー河の彼岸にあるクシナーラーのマッラ族のウパヴァッタナに赴かれた釈尊は、「サーラの双樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」と言われます。

「かしこまりました」と、尊師に答えて、アーナンダはサーラの双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いた。そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた。
 さて、そのとき沙羅双樹が、時ならぬのに花が咲き、満開となった。それらの花は、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。また天のマンダーラヴァ華は虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。天の栴檀の粉末は虚空から降って来て、修行完成者に供養するために、修行完成者の体にふりかかり、降り注ぎ、散り注いだ。天の楽器は、修行完成者に供養するために、虚空に奏でられた。天の合唱は、修行完成者に供養するために、虚空に起った。

 このような壮大な供養が自然界や天界で繰り広げられましたが、これについて釈尊は、――

 しかし、アーナンダよ。修行完成者は、このようなことで敬われ、重んぜられ、尊ばれ、供養され、尊敬されるのではない。アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行っている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊び、尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。それ故に、ここで「われらは理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行なう者であることにしよう」と。お前たちはこのように学ばねばならぬ。アーナンダよ。

 ここでは、儀礼中心であったバラモンの宗教を、暗に否定しているとみて良いでしょう。さらに言えば、昨今の過度な葬式儀礼も批判されてしかるべき、というところでしょうか。

 さて、そのとき若き人ウパヴァーナは、釈尊の前に立って釈尊を煽いでいたのですが、釈尊はそこを去るように言われます。アーナンダはその意味が分からずたずねると、釈尊は――

 アーナンダよ。十方の世界における神霊たちが修行完成者に会うために、大勢集まっている。アーナンダよ。クシナーラーのウバヴァッタナ、マッラ族の沙羅樹林には、周囲十二ヨージャナにわたって取り巻いて、大威力のある神霊たちが集まっていてそれに触れていて、兎の毛の尖端で突くほどの隙間も無いほどである。

 と言われ、その神霊たちが釈尊の姿を見ることが出来ず、嘆いていることを告げます。ここで、「ヨージャナ」とありますが、これは距離の単位で、1ヨージャナは帝王が1日に行軍する距離といわれ多分十数km(大体12〜13kmか?)と考えられています。「十二ヨージャナ」ということですから、150〜160km位でしょうか。
 また、虚空や地にある神霊たちは皆、釈尊の亡くなるのを大いに嘆き悲しんでいるのですが、「それらの神霊たちは情欲を滅び尽くしていて、こころに念い、よく気をつけているので堪え忍んでいた」ということも説かれます。

 また、修行僧たちは雨期の定住生活の前と後に釈尊を訪ねてくる慣わしがあったのですが、釈尊亡き後のことを心配し、アーナンダが尋ねると、釈尊は――

 アーナンダよ。信仰心のあるまじめな人が実際に訪れて見て感激する場所は、この四つである。その四つとはどれどれであるか?
「修行完成者はここでお生まれになった」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所(霊場)がある。
「修行完成者はここで無上の完全なさとりを開かれた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所がある。
「修行完成者はここで教えを説きはじめられた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所がある。
「修行完成者はここで煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られた」といって、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所がある。
 アーナンダよ。これら四つの場所が、信仰心のある良家の子が実際に訪れて見て感激する場所である。アーナンダよ。信仰心のある修行僧・尼僧たち、在俗信者・在俗信女たちが、「修行完成者はここでお生まれになった」、「修行完成者はここで無上の完全なさとりを開かれた」、「修行完成者はここで教えを説きはじめられた」、「修行完成者はここで煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られた」といって(これらの場所に)集まって来るであろう。
 アーナンダよ。誰でも、祠堂(チェーティヤ)の巡礼をして遍歴し、浄らかな心で死ぬならば、かれらはすべて、死後に、身体が壊[やぶ]れてのちに、善いところ、天の世界に生れるであろう。

 と、このように答えます。ここで書かれてある場所は、実際には以下の通りです。

 次にアーナンダは、出家者は「婦人に対してどうしたらよいのでしょうか」と、聞きますと、釈尊は「見ないことだ」「話しかけないことだ」「正しい思念を保っておれ」と慎むことを勧めます。

 さらにアーナンダは、修行完成者の遺体の対して質問をしますと、釈尊は出家者には「遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな」と修行に専念すようさとし、如来に対して特に深い崇敬の念を懐いている賢者たちが王族やバラモン資産家などの中にいるので、彼らにまかすように指示します。またアーナンダが遺体の取り扱いについて質問すると、「世界を支配する帝王(転輪聖王)の葬法にならって扱うがよい」とし、具体的には、――

 アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を新しい布で包む。新しい布で包んでから、次に打ってときほごした綿で包む。打ってときほごした綿で包んでから、次に新しい布でもって包む。このようなしかたで世界を支配する帝王の遺体五百重に包んで、それから鉄の油槽に入れ、他の鉄の油槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、世界を支配する帝王の遺体を火葬に付する。そうして四つ辻に、世界を支配する帝王のストゥーパをつくる。アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体に対しては、このように処理するのである。
 アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を処理するのと同じように、修行完成者の遺体を処理すべきである。四つ辻に、修行完成者のストゥーパをつくるべきである。誰であろうと、そこに花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を清らかにして信ずる人々には、長いあいだ利益と幸せとが起るであろう。

 こうした方法でストゥーパ(塔もしくは塚)をつくって拝むに値するのは四種の人々で、その四種とは『如来、尊敬されるべき人、正しいさとりを得た人』、『独りでさとりを得た人(独覚)』、『如来の弟子(声聞)』、『転輪聖王』であり、どういう理由でストゥーパの建立に値するかというと、――

「これは、かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いたひとのストゥーパである」と思って、多くの人は心が浄まる。かれらはそこで心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の世界に生れる。

 また『独覚』『声聞』『転輪聖王』についても同様であることを述べられます。

  アーナンダの号泣

 さて、アーナンダは、釈尊が間もなく入滅されることが悲しく、精舎の中に入って、戸の横木によりかかって泣いていました。その様子を知ると、釈尊は次のように教えます。

「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。わたくしはかつてこのように説いたではないか、――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。かかることわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。務めはげむことを行なえ。速やかに汚れのないものとなるだろう」

 そして、修行僧たちに、「アーナンダは賢者である」とたたえ、また「四つの不思議な珍しい特徴がある」とし、――

 修行僧たちよ。もしも修行僧の集いが…乃至…尼僧の集いが…乃至…在俗信者の集いが…乃至…在俗信女の集いが、アーナンダに会うために近づいて行くと、かれらは、会っただけで心が喜ばしくなる。そこで、もしもアーナンダが説法するならば、説法を聞いただけでもかれらは心が喜ばしくなる。またもしもアーナンダが沈黙しているならば、修行僧の集いは、かれを見ていても飽きることが無い。
 修行僧たちよ。アーナンダには、この四つの不思議な珍しい特徴があるのである。

と、たたえます。

  大善見王の物語

 このように言われて、アーナンダは釈尊に「このような小さな町、竹薮の町、場末の町でお亡くなりになるのはお止め下さい」と、懇願しますが、釈尊は、このクシナーラーは、かつて『大善見王(マハースダッサナ)』という転輪聖王の治める帝国の首都『クサーヴァティー』で、 「長さは東西に十二ヨージャナあり、幅は南北に七ヨージャナあった(1ヨージャナ=十数km)」と、また「クサーヴァティーという首都は栄え、裕福で、人民が多く、人々に満ち、食物も豊かであった」と、その都市の規模の大きさを教えます。
 ちなみに『法顕本』には、「この大善見王こそ我である」とし、――

「我れ、此の城市において転輪聖王となって、はかり数えることのできない程、無量の衆生を利益することを成就した。今や、諸々の天神が虚空に充満しているが、皆、これ、我れ昔王たりし時、諸々の善法で教化した者たちである。その天神たちが今日、またこの城市にあって、我が般涅槃を見んとしている。

と、その様子を語っています。

  マッラ族への呼びかけ

 やがて釈尊の指示で、クシナーラーの住民のマッラ族の人々が集まったため、アーナンダは、「家族ぐるみ一団となってまとめて立たせて」、釈尊に敬礼せしめます。

  スバッダの帰依

 そのとき、クシナーラーに住んでいるスバッダという遍歴者が面会を求めに来ました。アーナンダは三度断わりますが、釈尊は面会し、問いを受けます。

 ゴータマさんよ。この諸々の修行者やバラモンたち、つどいをもち徒衆をもち徒衆の師で、知られ、名声あり、宗派の開祖として多くの人々に崇敬されている人々、例えば、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプッタ、ニガンタ・ナータプッタ――かれらはすべて自分の智をもって知ったのですか? あるいは、かれらはすべて知っていないのですか? そのうちの或る人々は知っていて、或る人々は知らないのですか?

 実はスバッダについては、「年は百二十」、「聡明にして多智」で「一切の人にたっとばれ尊敬されていた」となっている本(法顕本)もありますが、上記の質問を読む限り、かなり失礼な言い方のようです。だいたい臨終を迎えていた釈尊に面会を求めるところからも、かなり強引な性格が伺えます。
 これに対し、釈尊は、――

 やめなさい。スバッダよ。「かれらはすべて自分の智をもって知ったのですか? あるいは、かれらはすべて知っていないのですか? そのうちの或る人々は知っていて、或る人々は知らないのですか?」ということは、ほっておけ。スバッダよ。わたしはあなたに理法を説くことにしよう。それを聞きなさい。よく注意なさいよ。わたしは説くことにしよう。

と質問を遮り、直接答えることなく、自分の立場で真理の要点を述べられます。


 スバッダよ。いかなる教えと戒律においてでも、『尊い八支よりなる道』(八正道)が存在すると認められないところには、第一の『道の人』は認められないし、そこには第二の『道の人』も認められないし、そこには第三の『道の人』も認められないし、そこには第四の『道の人』も認められない。しかしいかなる教えと戒律においてでも、『尊い八支よりなる道』が認められるところには、第一の『道の人』が認められし、そこには第二の『道の人』も認められ、そこには第三の『道の人』も認められ、そこには第四の『道の人』も認められる。この(わが)教えと戒律とにおいては『尊い八支よりなる道』認められる、ここに第一の『道の人』がいるし、ここに第二の『道の人』がいるし、ここに第三の『道の人』がいるし、ここに第四の『道の人』がいる。他のもろもろの論議の道は空虚である。――『道の人』を欠いている。スバッダよ。修行僧はここに正しく住しなさい。そうすれば、世の中は真人たちを欠くことの無い(継続して出る・充満する)ものとなるであろう。
  スバッダよ。わたくしは二十九才で、何かしら善を求めて出家した。
  スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。
  正理と法の領域のみを歩んで来た。
  これ以外には『道の人』なるものも存在しない。
 第二の『道の人』なるものも存在しない。第三の『道の人』なるものも存在しない。第四の『道の人』なるものも存在しない。他の論議の道は空虚である。――『道の人』を欠いている。スバッダよ。この修行僧たちは、正しく住すべきである。そうすれば、世の中は真人たちを欠くことの無いものとなるであろう。

 こうして教えを受け、感激したスバッダは、釈尊最後の直弟子としてに帰依し、(他宗教を奉じていたため)四ヵ月の間比丘の集いの観察を受けて出家し、やがて尊敬される人(阿羅漢)の一人となったと伝えられます。

 ところで、ここに出てくる「第一の道の人」から「第四の道の人」までが出てきますが、これは、小乗における修行段位で、下から順に、

  1. 「第一の道の人」=『預流[よる]・須陀オン(=外字「オン」[しゅだおん]』。聖者の流れに入った者。

  2. 「第二の道の人」=『一来[いちらい]・斯那含[しだごん]』。一度だけ戻って来る者。
  3. 「第三の道の人」=『不還[ふげん]・阿那含[あなごん]』。再び戻ることのない者。
  4. 「第四の道の人」=『阿羅漢[あらかん]』。尊敬されるべき人。

 となっています。また、それぞれの段階にまた「志向する者(向)」と「結果を得た者(果)」の二種類あるとされていますので、『預流向』、『預流果』、『一来向』、『一来果』、『不還向』、『不還果』、『阿羅漢向』、『阿羅漢果』これらの聖者たちをまとめて『四向四果』、『四双八輩』などと言います。
 ちなみに『四向四果』について、辞典では

 預流向は三界(欲界・色界・無色界)の見惑(八十八使)を断じつつある見道十五心の間をいい、見惑を断じ終って、第十六心である修道に入ると、これを預流果という。
 一来向は欲界の修惑[しゅわく]の九品[ぼん]のうち、六品の修惑を断じつつある位をいい、それを断じ終った位を一来果という。
 不還向はさきの修惑の残り三品を断じつつある位で、これを断じ終るとき、不還果という。ここでは再び欲界に還ることがないので不還の名がある。
 阿羅漢向阿羅漢果に至るまでの位で、阿羅漢の境地(阿羅漢果)に至ると、一切の見惑、修惑を断じ、迷いの世界に流転することなく、ニルヴァーナ(涅槃)に入ることができる。なおこの外に煩瑣[はんさ]な解釈がある。

[仏教語大辞典/中村元著・東京書籍]

となっています。

ヒラニヤヴァッティー河に関する第五章 終る


第六章

  臨終のことば

 さて、いよいよ臨終が近づきます。釈尊は最期まで弟子たちに教えを伝えます。

 アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるである
 またアーナンダよ。いま修行僧たちは、互いに『友よ!』と呼びかけて、つき合っている。しかし私が亡くなったのちには、お前たちはこのようにいってつき合ってはならない。アーナンダよ。年長である修行僧は、新参の修行僧を、名を呼んで、また姓を呼んで、または『友よ!』と呼びかけてつき合うべきである。新参の修行僧は、年長の修行僧を『尊い方よ!』とか『尊者よ!』と呼んでつきあうべきである。
 アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなったのちには、もしも欲するならば、瑣細[ささい]な、小さな戒律箇条はこれを廃止してもよい。

 なお、この「小さな戒律箇条はこれを廃止してもよい」という言葉は、後に教団において拒否されます。というのも、初期の仏教教団において、戒律は非常に重要で、一つの戒律を廃止するということは、ある者にとっては、修行生活の根本を変更させられることになりかねません。ですから釈尊から具体的な指示がない以上、変更することは不可能だったのです。しかし、このことが後世(約百年後)戒律をめぐって教団が分裂するもととなりました。

 この後、修行僧チャンナについて、「清浄な罰」「ブラフマ・ダンダ」を加えるように指示します。これは他の修行僧が沈黙することで罰を与えるわけで、これにより、気難しく争い好きなチャンナも人格が円熟したということです。

 釈尊は、また告げられます。

 また、修行僧たちよ。ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関し、一人の修行僧に、疑い、疑惑が起るかもしれない。修行僧たちよ。問いなさい。あとになって、「わたしたちは師に目のあたりお目にかかっていた。それなのにわたしたちは尊師に目のあたりにおたずねすることができなかった」と言って後悔することのないように

 釈尊は三度たずね、また仲間同士に質問をしあうことも促しますが、誰も「疑い、疑惑」を口にする者はいませんでした。アーナンダは、このことに驚きの声を発します。すると釈尊は、――

 アーナンダよ。お前は浄らかな信仰からそのように語る。ところが、修行完成には、こういう智がある、「この修行者の集いにおいては、ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関して、一人の修行僧にも、疑い、疑惑が起こっていない。この五百人の修行僧のうちの最後の修行僧でも、聖者の流れに入り、退堕しないはずのものであり、必ず正しいさとりに達する」と。

 ここで「修行僧のうちの最後の修行僧」とはアーナンダを指し、彼は若く、また釈尊に長きにわたって随行し、記憶力は抜群でしたが、修行の歩みは遅かったようです。彼もやがて阿羅漢果に達するのですが、それは経典結集の直前であったと伝えられています。

 この後、釈尊は最後の言葉を述べられます。


 さらに尊師は修行僧たちに告げた。――、
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」
 これが修行をつづけて来た者の最後の言葉であった。

  死を悼む

 この後、世尊は精神統一をして“最初の禅定”(初禅)に入られ、そこから第二禅、第三禅、第四禅に入り、“虚空の果てしがない処”(空無辺処定)、“意識の果てしがない処”(識無辺処定)、“一切の所有のない処”(無所有処定)、“意識もなく意識しないこともない処”(非想非非想処定)、“意識も感覚も滅尽した処”(滅想受定・滅受想定)の境地に入られます。

 ちなみに、これらのうち四禅定(初禅〜第四禅)は、色界における四つの段階的境地で、欲界の迷いを超えて色界に生ずる四段階の瞑想をいいます。それぞれの禅定は、「初禅=覚・観・喜・楽・一心の五支よりなる」「第二禅=内浄・喜・楽・一心の四支よりなる」「第三禅=捨・念・慧・楽・一心の五支よりなる」「第四禅=不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなる」。また以上の境地には諸天・神々が存するため『四禅天』といいます。
 ここからさらに進むと、無色界における四つの段階的境地『四無色定』の境地(空無辺処定〜非想非非想処定)になり、ここでは禅定修行において一切の物質的な繋縛を受けないようになった境地を四段階に分けています。ここからさらに滅想受定(滅受想定)に進むのですが、以上の心的状態を後代のアビダルマ仏教教学では「九次第定・九次定・九次第思惟正定」と名付け、これらの九つの境涯を一つずつ進んでいくことを修行の目的としました。

 そのとき尊者アーナンダは尊者アヌルッダにこう言った、
「尊いかた、アヌルッダよ。世尊はニルヴァーナに入られました」
「友アーナンダよ。世尊はニルヴァーナに入られたのではありません。滅想受定に入られたのです」

 その後逆順に、滅想受定から非想非非想処定、無所有処定、識無辺処定、空無辺処定、第四禅、第三禅、第二禅、から初禅に入られ、また第二禅、第三禅、第四禅に入られ、そこから起って、世尊はただちに完きニルヴァーナ(無余依涅槃)に入られました。

 釈尊入滅とともに大地震が起り、天鼓は鳴り響きます。そして、サハー(娑婆)世界の主である梵天(ブラフマン)や、神々の世界の主である帝釈天(サッカ)、アヌルッダ尊者がそれぞれ釈尊の解脱・涅槃をたたえる詩をとなえます。そしてアーナンダも詩をとなえますが、それは次のような恐怖を含んだ詩でした。

 そのときまさに 恐ろしき
 身の毛のよだつ ことがあり
 万徳そなえる みほとけの
 身まかり行きし そのときに

 こうして釈尊が涅槃に入られると、貪りをすっかり離れてはいない修行僧は嘆き悲しみ、これに対して貪りを離れた修行僧たちは「およそつくられたものは無常である。どうして(滅びないことが)あり得ようか」と、正しく思念し、正しく意識を保って、じっとこの悲しみに耐えていました。

 そして尊者アヌルッダは、嘆き悲しむ未熟な修行僧たちに「友らよ。神霊たちは呟いています」と自制を促し、また神々も人間同様、情欲を離れた神々とそうでない神々がいて、様々な相で釈尊の入滅を受け止めている様子を伝えます。

 これは、時に「ヴァイシャーカ月の満月の日」となっていますが、ヴァイシャーカ月は第二の月ということでしたので、二月十五日の夜半、と中国・日本では伝えていますが、実はヴァイシャーカ月は今のほぼ5月に当ります。また年代ですが、西紀前544年から383年まで様々な説があり、なかなか特定できません。ただし、「インド古代史の年代について僅かに百年の差しかないということは年代の不明な古代インドとしては驚くべきことである」と中村元氏も指摘しているように、歴史上の釈尊の存在が、このことからも確定していると言えるでしょう。

 尊者アヌルッダと若き人アーナンダは、その夜じゅう『法に関する講話』を説いてすごしました。
 また『パーリ本』には詳細な記述はありませんが、『法顕本』には――人々はアーナンダに「尊者よ、願わくば、親しく仏陀を拝するを許したまえ」と願い、アーナンダは「婦人で世尊の座下に詣ったものは、必ずしも多くはない。今こそ彼等に仏陀を拝せしめなければならぬ」と思い、婦人達優先で、進んで仏陀を拝することを許した、と記述されています。釈尊は出家でしたから、当然戒律は守っていましたので、女性と親しく交わることが少なかった訳です。彼女たちは、泣く泣く香花をささげました。

 アヌルッダはアーナンダに「クシナーラーに入って、クシナーラーの住民であるマッラ族の人たちに告げなさい」と指示し、早朝、アーナンダは一人の従者を連れて城中に入っていきます。
 この時、マッラ族の人々はある用件があって公会堂に集まっていましたが、釈尊の入滅を聞くと、皆大いに嘆き悲しみました。

  遺体の火葬

 クシナーラーのマッラ族は従僕たちに命じ、クシナーラーのうちにある香と花輪と楽器をすべて集めさせます。そして、――

 そこで、クシナーラーに住んでいるマッラ族は、香と花輪と楽器をすべて取って、また五百組の布を取って、尊師の遺体のあるマッラ族のウパヴァッタナ、沙羅樹林におもむいた。そこにおもむいてから、舞踏、歌謡、音楽・花輪・香料をもって、尊師の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養し、天幕を張り、多くの布の囲いをつけて、このようにしてその日を過ごした。

 葬儀に歌舞音曲は異様に感じますが、これはインドでは今でも一般に行われているようで、またインド人の踊り好きは映画でもよく見受けられるところです。
 こうして6日間過ごした後、7日目に遺体を都市の南に運ぼうと、「マッラ族の八人の首長は、頭を水に浸して(洗い)、新しい布を着けて『われらは尊師の遺体をもち上げて運んでゆこう』と思った」のですが、どうしても持ち上がりません。
 そこでアヌルッダに相談すると、――

 ヴァーセッタたちよ。神霊たちの意向は、「われらは、舞踏、歌謡、音楽・花輪・香料をもって、尊師の遺体を敬い、重んじ、尊び、供養して、北に通じる道路によって都市の北に運び、北門から都市の中に入れて、中央に通ずる道路によって都市の中央に運び、東門から出て行って都市の東方にあるマクダバンダナ(天冠寺)と名づけるマッラ族の祠堂に進んで、そこで尊師の遺体を火葬に付そう」というのである。

 最初マッラ族が遺体を南に運ぼうとするのは、古代インドでは南の方角は死神ヤマ(閻魔)の方角であると考えられていたためで、また死骸を町や村の中に置いたり、通過させるのは、当時「穢れをもたらす」と忌み嫌われていたのですが、こうした古来の習俗に仏教徒は反抗した訳です。「神霊たちの意向」と表現されていますが、ここで展開されようとする葬儀の実行は、現在私たちも問題とする「世間の習俗・慣習に流された葬儀」から「本当の教えに基づいた葬儀」への転換を示唆してくれているようです。

 そのときクシナーラー(市)は、塵箱の塵芥の堆積の上に至るまでも、膝のあたりに至るまでも、マンダーラ華を撒きちらされていた

 このような表現がされるように、天界もともなって葬儀は進行します。
 アヌルッダの指示通りマクダバンダナに釈尊の遺体を安置し、その後の処理をアーナンダにたずねます。アーナンダは、以前釈尊から聞いた「世界を支配する帝王(転輪聖王)の葬法にならって扱うがよい」という指示を伝えます。
 そこでマッラ族に人々は使用人たちに「それではマッラ族のよく打ってときほごした綿を集めなさい」と命じます。

 そのときクシナーラーの住民であるマッラ族の人々は尊師の遺体を新しい布で包んだ。新しい布で包んでから、次に打ってほごされた綿で包んだ。打ってほごされた綿で包んでから、新しい布で包んだ。このようなしかたで五百重に尊師の遺体を包んで、鉄の油槽に入れ、他の一つの鉄槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、尊師の遺体を、薪の堆積の上にのせた。

 ここに出てくる「鉄の油槽」のくだりですが、『法顕本』には、――

 マッラ族は、新しい浄らかな綿及び織り目の細かい厚地の毛布で如来の身を纏[まと]い、然る後に金棺の中に内[おさ]めた。其の金棺の内には牛頭栴檀香の屑及び諸の妙なる華を散らし、即ち金棺を銀棺の中に内めた。又、銀棺を銅棺の中に内め、又、銅棺を鉄棺の中に内めた。又、鉄棺を宝の輿の上に置き、諸の伎楽を作し、唄を歌って賛嘆した。

 と出ています。

 ちょうどその頃、尊者 大(マハー)カッサパは、パーヴァーで托鉢をして、それからクシナーラーに至る道を五百人の修行僧と歩んでいたのですが、道すがらアージーヴァカ行者から釈尊の入滅を知ります。ここでも、貪りをすっかり離れてはいない修行僧は嘆き悲しみ、貪りを離れた修行僧たちは、正しく思念し、正しく意識を保って、じっとこの悲しみに耐えていました。
 ところが悲報を聞いた中に一人、スバッダ(最後の直弟子とは別人)という修行僧がいて、「釈尊入滅によって我々は解放されたのだ。これからは欲望のおもむくままにしよう」と、暴言を吐きます。これにはマハーカッサパも驚き、心を痛め、正しい教法と戒律を定める必要を感じます。そこで後にマハーカッサパは経典結集の中心となり、またこのスバッダも前非を悔い正道に立ち帰ったということです。

 さて、マッラ族の4人の首長が、頭に水を注いで身を清め、新しい衣服を身にまとって用意を整えると、「さあ、火葬の薪に火をつけよう」と言って、火葬の薪に火をつけようとしますが、どういうわけか一向に火をつけることができません。アヌルッダに相談すると、ここでも「神霊の意向」で、尊者大カッサパの到着を待つことになります。

 尊者大カッサパがクシナーラに到着すると、マクダバンダナと名づけるマッラ族の祠堂、釈尊の遺骸を安置してある火葬の薪のところまでおもむきます。そして衣を左肩だけにかけ直し、合掌して、火葬の薪に三度右回りの礼をしてから、釈尊のみ足を頭にいただいて礼拝します。五百人の比丘たちも、同じように衣を左肩だけにかけ直し、合掌して、火葬の薪に三度右回りの礼をしてから、釈尊のみ足を頭にいただいて礼拝します。
 こうして尊者大カッサパと五百人の比丘たちがみな釈尊の遺骸に礼拝し終わると、釈尊の遺骸をのせた火葬の薪の堆積は自然に火を発して燃え上がったということです。しかし、実際に薪に点火したのはマハーカッサパ尊者であろうと思われます。

 釈尊の遺骸が、骨だけを残してみな燃え尽きると、天(虚空)からは雨が降り注ぎ、また地面(草木?)からは水か噴き上がって注ぎかかって、釈尊の遺骸をのせた火葬の薪の火を消します。また、クシナーラのマッラ族も、さまざまな香水をふりかけて、消化を助けました。

 こうして荼毘が終わると、遺骨を七日間公会堂におき、その周囲を槍を組んだ矢来で囲み、さらに弓の柵をはりめぐらし、歌舞音曲や花環やお香などによって、敬い、尊び、崇め、供養し続ました。

  遺骨の分配と崇拝

 その後、釈尊の遺骨をめぐって争いが起ります。

 マガダ国王であるアジャータサットゥ、ヴィデーハ国王の女の子は、釈尊の死を知り、クシナーラーのマッラ族に使いを出し、「尊師も王族(クシャトリヤ族)であり、わたしも王族である。わたしもまた尊師の遺骨の一部分の分配を受ける資格がある。わたしも尊師の遺骨をおさめるストゥーパ(舎利塔)をつくって、祭りを行いましょう」と言います。
 またヴェーサーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータディーパの或るバラモン、パーヴァーのマッラ族も釈尊がクシナーラーで亡くなったということを聞いて、使者を遣わし、遺骨を請求します。
 ただし、シャカ族が遺骨を請求した主張の理由は「尊師はわれらの種族の最もすぐれた人である」ということであり、ヴェータディーパのバラモンは「尊師はクシャトリアであり、われはバラモンである(=つまり私の方が上だ)」ということでした。
 ところがマッラ族は、「尊師はわれらの村の野でお亡くなりになったのである。われらは尊師の遺骨の一部分も与えないであろう」と言います。
 このようにクシナーラのマッラ族が各国の使者の申し入れを拒否したため、あたりは険悪な空気に包まれてきます。そこでその気配を察知したドーナというバラモンが、一同をとりなそうとして、次のように言います。――

  わが提言に 諸君よ
  耳傾けよ みほとけは
  忍耐説きし ひとなれば

  無上の人の 遺骨とて
  そをめぐりつつ 争うを
  いかでか義しと 言うを得ん

  みなで仲よく 諸君よ
  八つに等しく 相分けて
  各自一つを 持てばよし

  各地に塔の 建たれなば
  浄らの信心 具眼者に
  懐けるひとは 世に満てん

 人々はドーナの提案を受け入れ、彼の手により遺骨は均等に八つに分配されます。残った瓶はドーナ自身が受け取りました。その後ピッパラーヤナというバラモン学生(モーリヤ族?)も遺骨の引渡しを申し入れてきますが、分配された後だったので、荼毘を行った時に残った灰のみを受け取ります。
 これにより最初の八つの部族はそれぞれ仏舎利塔をつくり、ドーナは瓶塔、ピッパラーヤナは灰塔をつくって供養を営んだとされています。
 ただ、『大パリニッバーナ経』諸本最後には次の詩があり、以上の記述とは異なっています。

  眼ある人の遺骨は八斛ある。
  七斛はインドで供養される。
  最上の人の他の一斛は、ラーマ村で諸々の竜王が供養する。
  一つの歯は三十三天で供養され、
  また一つの歯はガンダーラ市で供養される。
  また一つの歯はカリンガ王の国において供養される。
  また一つの歯を諸々の竜王が供養している。
  その威光によってこの豊かな大地は、
  最上の供養物をもって飾られているのである。
  このように、この眼ある人(=ブッダ)の遺骨は、
  よく崇敬され、種々にいともよく崇敬されている。
  天王・諸々の竜王・人王に供養され、
  最上の人々によってこのように供養されている。
  合掌して、かれを礼拝せよ。
  げにブッダは百劫にも会うこと難し。

大パリニッパーナ経 終る


 以上がパーリ本『大パリニッパーナ経』等にあらわされた釈尊の最期の様子でした。

 なお、埋葬された遺骨は、のちにアショーカ王が掘り出し、八万四千のストゥーパに分け納めて安置した、という伝説が残っています。

 また1898年にカピラヴァストゥから約3キロ隔たったピラーワーにおいて古墳を発掘したところ、遺骨を納めた壷が発見されますが、それにはアショーカ文字(西紀前3世紀以前の文字)で「これは仏陀世尊の舎利を収める器であり、栄光あるシャーキャ族の人びととその姉妹、妻子たちのものである」と記してありました。
 この遺骨は仏教徒のタイ国の王室に譲り渡され、その一部は日本に分与。現在は名古屋市千種区の日泰寺に納められ、諸宗交代で輪番する制度になっています。

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