平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

般若心経をあげてはいけないのでしょうか?

真宗門徒が『般若心経』を読まない訳

質問:

私は浄土真宗の信徒ではありませんけれども質問させて頂きます。
私は般若心経が好きでなんですけど、浄土真宗では家のお仏壇に般若心経をあげてはいけないのでしょうか?
また、浄土真宗でもあげてよい短いお経などがあれば教えて頂きたいです。

よろしくお願いします。

返答

『般若経』は、大乗仏教の最初期に編纂された経典で、仏教の歴史の中でも「空」の思想を打ち出した点で非常に意義の大きい経典とされています。ただ六百巻と余りに膨大な量がありますので、読経では要約した『般若心経』が多く用いられています。(もしくはパラパラとめくるだけで読んだ事にする)

 ですから大乗仏教の多くの宗旨・宗派でこの経典を用いますが、「すべての教えの要となっている」と言うのは評価しすぎで、「初期大乗仏教を切り開いた」という表現が当っていると思います。

 仏教の法門は八万四千あるといわれる。これらを全部読み尽くすことは困難であるから、インドの秀れた学僧がこれら八万四千の法門を要約し、まとめたものが『般若心経』であるといわれる。しかし、実際にはこの経典は大きな般若経典の中から一部を抽出して、それに前後の文句を付加してできあがったもののようである。つまり八万四千といわれる種々の仏教の法門の抜粋ではないのである。というのは、仏教文献の中にはいろいろな教理を説明したものがあり、その中には重要な述語が多数出てくる。それらすべての教理の要約であるとすれば、それなりの教理や述語が盛り込まれていなければならないのであるが、この経典は般若経典類の思想の要約であって、すべての教理の要約ではない。したがって『般若心経』は八万四千の法門を要約した経典とは厳密にはいえないのである。ただ仏教の基本思想である空の理法を説き、その内容を簡潔にまとめ、おさえている点では八万四千の法門の要約経典とはいえるであろう。

『仏教経典散策』東京選書/(中村元 編著)田上太秀 著 より

 さて、ご質問に「浄土真宗では家のお仏壇に般若心経をあげてはいけないのでしょうか?」とありますが、よく事情を知ってみえますね。
 教団では浄土三部経(大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)と、それに付随する論釈や文類の読経を勧め、『般若心経』や『法華経』その他聖道門で用いられる経典は読みません。ただ「あげてはいけない」と拒否するのではなく、「あげる必要がなくなった」という姿勢が正しい解釈です。

 これは「浄土真宗では座禅を禁止しているのでしょうか?」でも引用しましたが、例えば『教行信証』には――

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 聖道釈 二門通塞 より


【現代語訳】
 いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法の時代のためのものであって、像法や末法や滅法の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。
とありますように、聖道門の経典では法の目ざすところと自分の機や時代が合致しないのです。

 いくら説かれた教えが正しくても、実践が伴わなければ絵に描いた餅であり、実践しても成果である証しを得なければその方法(方便)は自分のためには意味を失ってしまいます。(浄土真宗の証しは「正定聚・不退転の位」)

 また、「経典結集の歴史」に述べましたが、<多くの経典が、それ以前に編集された経典を受け継ぎ、かつそれを整理・改良して発展させてきた、という歴史>の中で、浄土経典は人間成熟の現場を知り尽くした人々による編纂、ということが言えると思います。

 私が本気で仏教を聞きだした十七、八の頃には、講師は「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を観むる」と、自力の禅宗も他力の念仏も、道は違ってもさとりは一つと説き、村人もそれに同調して、仏教もキリスト教も、宗教は皆究極の真理は一つであるといっていた。
 しかし宗教を求める動機が違い、道が違えば、さとりも違う。
 原始仏教が問題にしたことは、生死からの解脱、苦悩の解決で、その道は迷いを転じて「涅槃」の「悟り」を開くことである。その人は煩悩を断って、自己の独立を成し遂げた「アラカン」である。
 初期の大乗仏教は、この世は形ある滅びて行く仮の世界であるとして、永遠に滅びることのない「法性真如」の世界を求めて「智慧と慈悲」を兼ね備えた「仏」を「覚り」とした。
 後期の大乗仏教の『華厳経』は、人生が苦であろうが、無常であろうが、私たち人間にとってはさらに問題ではない。人間は未完成である。人間自身を完成することこそ一大事である。その完成の道は「人は人によって初めて人になる」と、五十三人の師に育てられて、「智慧と徳」を成就した「仏」になることを説いている。
 親鸞が真実の宗教と称えた浄土教の『大無量寿経』は、さらに一歩を進めて、人間完成の道は人によるだけではない。「人は環境の産物である」と、自分がそこに置かれている歴史的現実に立って、主体的人間と環境を創造して止まぬ「無量寿国」の土徳の「四十八の願力」に乗じて、創造的世界の創造的前衛である「不退転の菩薩」となることを説いている。
 これを見ても求道の動機が何であるかが、如何に大切か解るであろう。

島田幸昭 著 [仏教のさとり(八葉通信4号)]より

 以上のように、『大無量寿経』という究極のお経がよりどころとして示されているのに、今さら未完成の(仏願を完全に顕していない)経典は読む必要がないと(手前味噌かも知れませんが)考えているのです。
 もちろん教学上は他の経典も参考にしますし、『顕浄土真実教行証文類』(親鸞聖人著)には実に多くの経典が引用されていますが、礼拝時の読経には浄土に関連した経典を用いるのです。

 なお、「浄土真宗でもあげてよい短いお経」ということですが、以前「浄土真宗の簡単なお経」に紹介しましたが、『讃仏偈』(嘆仏偈)、『重誓偈』(三誓偈)、『十二礼』、『仏説阿弥陀経』(小経) 、『帰三宝偈』などは、比較的短い時間(数分から十数分)で読み終えることができます。


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