平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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座禅について質問させて下さい。浄土真宗では座禅を禁止しているのでしょうか?
釈尊は座禅を組んでいて悟りを開いたと聞きました。一般的に座禅は心を落ち着かせたりするのに良さそうなイメージがあるのですが。
この質問には二つのポイントがあると思われます。
ひとつは、浄土真宗の門徒・僧侶は釈尊と同じように座禅をするべきなのか、してはいけないのか。
もうひとつは、座禅は心を落ち着かせたりするために行なうのか。
この二点についてお応えさせていただきます。
実は前回、[浄土真宗と法華経など諸経との関係] についてお応えするうち、[聖人の三願転入]について述べさせていただいた中でも触れましたが、親鸞聖人が20年間にわたって比叡山で修行に励まれた中で、真言密教や法華経や座禅の修行では覚りを得ることができず、法然上人の導きによって阿弥陀如来の第十九願へ入り、第二十願へ移り、そして究極の第十八願へ転入されてみえます。
そうした段階で、聖道の諸教についてのお考えは、前回も紹介しましたが――
まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。と述べられた文によく顕されていると思います。『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 聖道釈 二門通塞
【現代語訳】
いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法の時代のためのものであって、像法や末法や滅法の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。
聖道の人々はよく「時代が変っても、この世は釈尊が悟りを開いた場であり、この娑婆においてもしっかり修行すれば、釈尊と同じ悟りを開くことができる」と口にされます。座禅は釈尊の修行を追体験するものであり、この理屈から言えば、修行すれば皆釈尊になれるわけです。
しかし、この理屈には二つの問題があるように思われます。それは釈尊の修行を追体験をするためには、道場を世俗と切り離した場所に置かねばならず、そうした環境を整備するには莫大な費用がかかり、修行者以外に多くの支援者が必要になる、ということです。そのため、どんなに修行者が立派でも、修行して悟りを得ることのできる人と、単に教えの導きの縁にであうだけの人、に別れてしまいます。つまり、<全ての人々を覚りに導く>という大乗仏教の精神からは後退せざるを得ません。
もうひとつ、支援者はもちろん出家者も時代に生きその環境に暮らしています。世俗と完全に切り離された修行場などはなく、時代と社会の大波に揺れながら暮らしています。
釈尊が悟りを開かれた時は、「悟りを開くまでこの場を離れない」と決心して菩提樹下に座られましたが、果たしてそれだけの覚悟が現在の修行者にあるでしょうか。釈尊の決心は、新たな時代を創造する社会の要請と無関係ではありませんでした。時代と社会に正直になればなる程、迷妄とした現代社会の矛盾は修行にも影響を与え聖道の妨げとなります。
それでも中には大悟して人知れずその功徳を社会に還元している人がいるかも知れません。そうした人々の活躍については、否定するどころか、大いに学ぶべきであろうと思われます。
ただし、念仏の道に入りながら、信心もあやふやなうちに「座禅の修行も良さそうだし、釈尊もしてみえたと聞くから、並行してやってみよう」という、かじり散らすような気持ちでは、どっちつかずで道は得られません。
宗教の中心軸をどこに置くか、ということを無自覚に行なうと、結局自分に甘えたり過度に自己否定を繰り返すようになり、時として非常に危険な状態になります。
仏教は、釈尊の悟りが顕現のきっかけになっていますが、歴史的に膨大な時間と人手をかけて様々な地域・時代に試され、方法も教学も様々確立されてきました。そのため、一人の人が一生かかっても一切経を全般的に把握することさえ困難で、ましてそれを体験として生かすことは不可能に近い状態です。
座禅も念仏も、<これひとつを徹底してゆく>ということを前提に教学と方法が確立されていますので、まずはそうした導きに従うべきでしょう。
例えば禅宗(臨済宗)の一休宗純も――
看経すべからず座禅すべし。掃除すべからず座禅すべし、茶の実、種うべからず。座禅すべし、馬に乗るべからず座禅すべし。『真珠庵法語』
と述べられていたということですが、同じように、浄土真宗が阿弥陀如来に「一心一向」を打ち出したことは、実は宗教上においては全く常識的な方針なのです。そうした真実信心を喜ばせていただいた上で様々な経典を見させてもらうと、やはりそこには<この上ない尊い道>としての導きが、どの教えにも示されていることが伺え、他宗旨や他宗教の教学からも多くを学ぶことができます。
事実、蓮如上人と一休宗純の交流は有名で、親鸞聖人二百回忌法要の時、一休は
襟巻のあたたかさうな黒坊主こいつが法は天下一なりという歌を蓮如上人に呈してみえますが、上人も座禅の道を知ってみえたから交流ができる訳です。
このように見てまいりますと、「浄土真宗では座禅を禁止しているのでしょうか?」という質問には、「信心があやふやな時期に座禅をすることは、結果として有害無益でお勧めできません」というお応えをすることになります。
そして真実信心の上からは、様々な宗旨宗教を学ぶことも念仏の道の助けとなりますが、その時点になりますと既に自分が座禅をする必要は全く無いことがよく分っていますので、自ら好んで座禅はしなくなります。いわば暗い夜道を歩くためには街路灯をつけたりライトが必要ですが、朝日が昇れば照明器具は必要なくなるようなものです。
では、「他人から勧められて座禅をするのはどうか」ということになりますと、座禅は他人から勧められてするようなものではなく、自ら励み命がけでする修行ですから、結局は念仏の同行は座禅はしないのです。
次に「一般的に座禅は心を落ち着かせたりするのに良さそうなイメージがある」という点について、考えてみたいと思います。
私自身は、命がけで座禅をしたことがありませんので、体験からのお話はできませんが、以前 、「日日是好日」について調べた中で、興味深い記述を見つけました。 ([「日日是好日」とは]参照)
徐 [おもむ] ろに行いて踏断 [とうだん] す流水の声、縦 [ほしいまま] に観て写し出す飛禽 [ひきん] の跡。
草茸茸 [くさじょうじょう] 、煙羃羃 [けむりべきべき] 、空生巌畔 [くうしょうがんばん] 、花狼藉 [ろうぜき] 。[碧巌録 第六則 頌]
前の句では、流水の音も鳥の声も自分と一体となって聞くことができ、しかもなお、それに夢中になって自らの歩みを忘れつまづくようなことはない。自由無碍な創造生活を送ることができる――ということで、まさに「絶対と相対が矛盾せず、心も落ち着いている」ということが言えるでしょう。おそらく一般人は、こうした自然と自分が一体となっている状態が座禅のイメージなのでしょう。
しかし、次の句では一転して、「そんな三昧の生活は、草が生い茂ったようでむさ苦しく、煙がぼうぼう漂っているみたいに見通しが利かない」と断じ、「空見に取りつかれてどうする、気をつけろ」、「洞窟に閉じこもっているような奴は狼藉者だ」と、自由無碍な生活をし人生を達観したような修行者を叩きのめします。
つまり、混乱した社会に打って出て、厳しい環境に置かれた人々や虐げられた人々と共に生き、そこで法を生かす努力をしないようでは修行が完成しないのでしょう。事実、いにしえの禅の修行者は、ある程度の境涯が出来ると、寺を去り、乞食をしながらその境涯を練った、と伝えられています。
ですから、単に心を落ち着かせるだけの目的で座禅などしたら、かえって中途半端な境涯に閉じこもることになり、修行したことを誇るようなむさ苦しい人間が出来上がります。これも実際、多くの修行脱落者の暴挙が伝えられていますし、現代でも危険な偽宗教者は枚挙にいとまがありません。
宗教では「生悟り」が1番危険です。それを避けるためには信頼のおける師匠が必要になります。同じように念仏の道でも善知識は欠かせません。正しい導きと多くの出会いが道を示すのです。