平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

他力にすがっていては問題解決の能力を奪ってしまうのでは?

他力といふは如来の本願力なり

質問:

 歎異抄を読みました、でも読んでスッキリしないのは 何もかも、阿弥陀仏に南無阿弥陀仏ですがってしまっては 目の前にある様々な日々の問題に対して、自分で問題を解決していく能力を奪ってしまうのではないか? というスッキリしない気持ちです。
 他力信仰って全部大きな存在に任せてしまうことなのでしょう?
 でも現実にそれでは生きていけない・・・
 今日も明日も辛い思いもして働かなくちゃ生きていけないし、借金は少しづつでもきちんと返さなくてはイケナイ
 阿弥陀仏が借金の肩代わりはしてくれないでしょう
 何か問題が起これば、それを解決するために、具体的に方法を考え、一つ一つ実行していく以外に、その問題は解決されてはいきませんよね。
 苦しい生活の問題を抱えた人が念仏していれば、超自然的な力が自然と自分を助けてくれるなんて、現実にはあり得ないし 念仏して阿弥陀仏にすがった人がある時こんな事していても何にもならない現実に気付いたとき、絶望して本当に精神的な危機に陥ってしまうのでは無いでしょうか?
 念仏していれば一時的に目の前の問題から気を逸らして於くことは出来るでしょう。でも問題はそのまま残っているし。わかりません。
 教えて下さい。

返答

 浄土真宗で1番多い誤解が他力に関する事柄です。これはテレビやラジオにおいても顕著で、誤解されたままコメントされ、その誤解の上に「他力本願ではいけない」などという常套句を聞かされることになります。この宗教音痴なマスコミには、何度抗議しても改善が見られず、果ては「常用し日本語として定着しているから」ということで、お詫びのコメントもなされていません。
 実に情けない有様で、「日本や東洋の文化・生活に深く根をおろす他力の思想を、これほどまでに無視し、誤解を放置していて何が国際化だ」と言いたいところですが、軽薄を売り物にするようなメディアに直接抗議するより、まず真剣に道を求める縁のある人たちに、他力の真実を知っていただき、そうした輪が広がることで誤解が解かれ、如来の真実があきらかになれば、と願っています。

◆ ふたたび他力について

 さて、ご質問していただいた他力の内容は以前、はからいを捨てることは求道心も捨てること? に掲載した内容がそのまま答えになるかとも思いますが、くり返しまとめて述べてみますと――

 如来と自己を別に見て努力を放棄するのは「相対他力」であり、これは現実逃避・自己満足の信になってしまいます。有限の自己が無限の存在に溶け切って無くなってしまう、自己が無能の存在に貶められるわけで、これを組織ぐるみでやれば「洗脳」になってしまいます。これでは自灯明の仏教の原則を破ってしまいます。

 真実の信心は「絶対他力」であり、自分は有限の存在でありながらこの有限性を奇跡的に自覚する。そこに如来の無限の力が引き受けられ、その徳が表出する中に自分が活動している、という関係になることです。これは個人の努力が自ずと「個人を超えた普遍性と歴史性を獲得する」ものに転換されることを意味します。

 これは求道心のモチベーションが、自力(=有限)の枠から、他力(=無限)に底が抜ける、ということで、こうした究極の求道心は「菩提心」と呼ばれ、また決して崩れないことから「金剛心」とも呼ばれます。
 こうした信心は「歓喜地」でもあり、私の意志は萎えることがあっても、如来の智慧が常に私に道を指し示しています。私の奥深いところにこのような如来の根が張りますから、表面の花や葉は枯れることがあっても、必ず浄土のはたらきが再び私の中に芽吹き、私と社会を輝くものにしてゆくのです。

 さらに、「父母のために念仏したことはない」の真意 に書きましたが、信心の本質は「平等心」という「愛情をこえた怨親平等の心」をいただくことであり、また「一子地」という「すべての衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこす位」に至ろうとする心となるのです。

 これは自分が無限の存在になるのではなく、あくまで自分は有限の存在、有限の力、有限の智慧しか獲得できていないことを自覚し続けている状態が続くことを意味します。<今日も明日も辛い思いもして働かなくちゃ生きていけないし、借金は少しづつでもきちんと返さなくてはイケナイ >という生活をする中で、ある種の人生観が形成されていくのですが、仏身・仏国土を念じていれば今の人生観の狭量性にすぐに気付き、常に更新されていくわけです。自分の生悟り・悪悟りが破られるのですから、自分を越えた念が自分に沸き起こる、ゆえにこれを他力と言うわけです。

◆ ご質問に添って

 そうした観点から、もう一度ご質問を読ませていただき、想いを述べさせていただきますと――

〉 何もかも、阿弥陀仏に南無阿弥陀仏ですがってしまっては 目の前にある様々な日々の問題に対して、自分で問題を解決していく能力を奪ってしまうのではないか?

 これはおそらく阿弥陀如来を向こう側に置いて、自分はさしたる努力もせずに事態が好転するように拝む、ということを他力だと思われてしまっているのではないでしょうか。こうした相対的な他力を求めることを「自力の信」と言いまして、確かにこれでは「自分で問題を解決していく能力を奪ってしまう」ことになります。
 しかし、もうお気づきだとは思いますが、「他力の信」は、迷いの人生を目覚めの人生へと転換する願いが私に至り届いたこと意味し、さらに他の人をも目覚めさせるはたらきさえ具わっているのです。

〉 他力信仰って全部大きな存在に任せてしまうことなのでしょう?

 その通りです。しかし「全部」であるということが重要です。また、大きな存在とは真実を意味します。私が真実のはたらきにであい、本当の私を見出し、虚偽の人生が慚愧によって真実の人生に転換されてゆく、ということです。さらに言えば、真実に任すと同時に、真実が私に成り切る。私が立ったか如来が立ったか、真実と私が不二の関係になるのであり、これを南無と言うのです。

 真実でない信仰者は、自分の欲望だけを、その都合に合わせて任せている、つまり自らを切り売りしているのです。これではいつまでたっても正しい人生観は得られず、ふらふらと甘い話に乗せられてさ迷ってしまうのです。

〉 今日も明日も辛い思いもして働かなくちゃ生きていけないし、借金は少しづつでもきちんと返さなくてはイケナイ
〉 阿弥陀仏が借金の肩代わりはしてくれないでしょう
〉 何か問題が起これば、それを解決するために、具体的に方法を考え、一つ一つ実行していく以外に、その問題は解決されてはいきませんよね。

 借金を返したり問題を一つ一つ解決していく、そのような日常の生活が、日常の生活のまま、単に日常にとどまらず、真実の働き場として発見され、普遍性と永遠性の展開をみることになるのです。孤独でつまらなかった日常が、全てに開かれ喜び溢れる日常に転換されてゆくのです。

 また阿弥陀如来は借金の肩代わりはしませんが、「はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない」すべての衆生に対し、「苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められた」ことにより、「如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就され」、そしてその成就された心を「煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられた」のです。(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈)
 これは単なる夢物語ではなく、私と社会の成り立ちに真実が厳然と関わってきたことを述べた歴史的ドキュメントなのです。

〉 苦しい生活の問題を抱えた人が念仏していれば、超自然的な力が自然と自分を助けてくれるなんて、現実にはあり得ないし 念仏して阿弥陀仏にすがった人がある時こんな事していても何にもならない現実に気付いたとき、絶望して本当に精神的な危機に陥ってしまうのでは無いでしょうか?

 ここで言われる「超自然的な力」というものが、所謂「奇蹟」であるとすれば、いのちより大切なものとは?(#仏教は自覚的無限、キリスト教は啓示的無限) に述べましたように、それは仏教ではありません。

 仏教は、有限の私が有限の私を自覚することによって本来の無限性を開示する、ということが超越なのであって、如来のはたらきは、まさにこの自覚をもたらすものなのです。

〉 念仏していれば一時的に目の前の問題から気を逸らして於くことは出来るでしょう。でも問題はそのまま残っているし。わかりません。

 こういう姿勢は現実逃避であり、まさに「宗教はアヘンである」という誹謗には頭を下げるしかないでしょう。しかし本当の念仏のはたらきは、逆に現実から目を背けないところに賜る心なのです。金子大栄氏は『歎異抄・金子大栄校注』の第9条の注釈において、「念仏はわれらを恍惚の境に導くものではない。現実の自身に目覚ましめるものである。信心は浄土のあこがれにあるのではない。人間生活の上に大悲の願心を感知せしめるにあるのである」と述べてみえました。また同本において――

仏とは覚を意味するから人が人である意味を覚り、人となるべき道を行い、真の人となることを仏となるというのであろう。この意味において「仏となる」とは、人間の理想を満足することであらねばならない。
 ここで問題となるのは、人間の理想とは、いかにあるべきものであるかということである。仏教ではそれを自覚覚他(自もさとり、他をもさとらしめる)といい、また自利利他を成就するものというのである。我らの求むるものは単なる自身の涅槃ではない。すべての人の不安と苦悩のないようにということである。しかしその高遠なる理想はいかにしても我らの一生において満足されるものではない。
<中略>
人間一生において解決のつかないことは、永劫をかけても解決はつかない。ここに聖道の理想の成就しがたい所以がある。つまりこれ人間の自力を頼むものであるからである。しかるにその「仏となる」ことは如来の「本願を信じ念仏をまうす」ことによって可能となるのである。それが「浄土のさとり」である。即ち阿弥陀仏と同じものとなるのである。
 しからば「本願を信じ念仏まうす」ものの「仏となる」過程はいかなるものであろうか。それは本願を信ずる者には大悲が感ぜられ、念仏をもうすものは摂取不捨の光に護られているからである。念仏するとは、常に摂取の光の中に自身を見出すことである。したがって念仏する身には、人間の一切の生活は、すべて光明摂取の中に行われるものとなるであろう。そこに善に誇らず悪を愧[は]じ、悲しみの裡[うち]にも喜びを見出し、快楽の上にも反省せしめられるものがある。また自ら我執を離れ、他の立場を了解して真実に協和しゆくこととなるであろう。それは煩悩のままに流転してゆく人生が、「仏となる」ものへと転成するのである。この摂取不捨の利益によってえられる境地を「正定聚の位」という。それは正しく報土往生に定まれるものということである。またその摂取不捨の徳として身心に現われるものを、柔和忍辱という。それは硬直と柔弱とにあらざる健全の身心である。
 これによって永劫無限の時を経て修行しなければ成れない「仏」に、あるがままの人生の終帰として成らしめられるのである。これ即ち人間の理想としては不可能であることが、如来の本願によって成就することである。しかるにその「浄土のさとり」はすでにいうごとく弥陀と同証するものである。したがって仏とならば、また弥陀と同じく「おもふがごとく衆生を利益」しうるものとなるであろう。それは環相回向として説かれたものである。

『歎異抄・金子大栄校注』解題・教義(三) より

とも書かれ、念仏は如来と私の壁を越えさせ、衆生を済度するはたらきの全面的な展開であることを顕しています。

◆ 他力の味わい

 また、例えば親鸞聖人の「つねの仰せ」として、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄・18)と、如来の本願を述懐されていたことについて、安田理深氏は――

 一例をあげれば他力という言葉をみんな知っとるでしょう。あれは曇鸞大師がいい出したことですわね。龍樹は易行といった。易行をさらに明らかにするため他力と。
<中略>
 自己主張というものを転じて、もっと大きな世界というものに目を転じさせるために他力と、仏力を他力、如来の本願力ということを他力と、こういわれたと。こういうような意味で、啓蒙的なところがある。
 けど天親菩薩はそういうことをいわんですわ。利他というんです。他力といわずに利他と。他を利すると。他利じゃない、利他なんだと。
<中略>
他力の他は、如来のことを他力というんでしょう。仏を他というんだ。我々からいった言葉、だから啓蒙というんだ。我々からは、仏は他ですわ。
 けど利他という場合、仏からいう言葉でしょ。その場合の他は衆生ですわね。如来から衆生を考えた言葉ですわ。我々から仏を考えるんじゃない。仏そのものから衆生を考えた場合に利他というんだ。如来の限定なんです。如来が自己自身の正機として衆生を見出してきた。その衆生を見出すことによって、如来の使命を自覚したんだ、如来は。如来を生み出したんだ、衆生が。そういうような自覚を親鸞一人がためというんです。五劫思惟の願はこの親鸞から始まったんだと。そういうもんだな。そういう具合に目をさましてくると、親鸞が助かりたいというようなことをいっておれんじゃないか。それだから利他ということは本当に純粋なんですわ。他力というのは啓蒙的だ。

安田理深 著『摂大乗論聴記』学問の道 より

と、「他力」という言葉は、自己の世界に閉じこもっていた教学を利他の光によって開いてゆく、ということを目指した啓蒙的な意味であったことを述べてみえます。

 「信心」には名詞的な使い方と、動詞としての使い方とがあります。これは名詞では「信心」、動詞では「信心する」という文法上の言葉づかいです。
 動詞の「信心する」とは、こちら側が変わらず、向こう側にいる神や仏に何かを期待し、周りを動かしていこう、病気を治して下さい、何とかしていただきたいという考え方です。
 これに対して、名詞の「信心」は、私の心が「信心」という状態になること、私の心が変わっていくことである、という区別ができると思います。
 「信心」という言葉は、中国の漢字から日本に来て使われているもので、インドの方は、インドの言葉でいっています。そのもとの言葉を捜してみると、仏・法・僧(仏さま、その教え、教えを求める人びとの集まり)の三宝に対して帰依の心を持ち、しっかりとした信念を持っていること。あるいは、心が穏やかに澄んで、清らかとなり、深く喜びの心が感じられる状態。また、何か相手に向って、しっかりと対象をつかまえるという心――という、いろいろな言葉がインドにはあったようです。
 それらを中国の言葉に訳して、また、日本に伝えられてきたのです。
 この中でも、仏教の話を聞くとき、必ず出てくるのは、「信心」が仏教の出発点であるということです。
<中略>
 浄土真宗の受け取り方は、もちろんそういう相手を信用、信頼するという意味の「信心」ということを捨てはいたしませんが、「信心」は最初だけではなく、最後まで、入口だけでなく、奥の奥まで「信心一つ」であるという考え方に立っています。
 ですから「信心」を非常に大切にしている宗派だと考えていただきたいと思います。また、この「信心」という使い方は、一般の使われ方とはおよそ違う意味を持っています。
 それは、仏さまからいただく「信心」であるということです。先ほどの名詞としての「信心」の典型的な例が、浄土真宗の考え方だといえます。ですから、仏さまから私に「信心」が恵まれることによって、いただいたものとして、私に「信心がある」と考えます。
<中略>
 ただ、生命が終わったあと、お浄土でさとりを開くということだけが目的であったら、今の問題にはあまり深くつながってきません。生命終った先のことだけでなく、さらに、この世に生命ある限り、私たちはどう生きていくかということも、この「信心」ということの中で開かれていくということが、もう一つの特徴ではないかと思います。
  「念仏者は無碍の一道なり」

(『浄土真宗聖典』注釈版・八三六頁)
 という親鸞聖人のお言葉が、『歎異抄』という書物に残されています。お念仏申す人生というのは、何ものにも妨げられない人生である。
  「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」
(『浄土真宗聖典』注釈版・同頁)
 天の神、地の神、悪魔たちも、決して、念仏者を妨げることができない――という力強いお言葉があります。私たち真宗の教えに生きる者の、いちばん力強い支え、励ましになる言葉です。

『門主法話集・さとりと信心』さとりと信心 より

 一般的に「信心」と言えば「私が何かを信じる」という心的行為に重きが置かれます。しかし「真実信心」は、私の部分的行為ではなく、「信心」そのものに私が受け取られてゆく、といことなのです。こういう体験を通じて、私は私のありのままの姿を見、かたくなな心も開いてゆくのです。

 「南無阿弥陀仏」は、私が称えておると思ったけれども、実は、阿弥陀さまが私をよんでくださるそのお声、お心が、私に届いたということなのでありまして、阿弥陀さまのお心を聞かせていただく、そこにお念仏の根本があるということを、改めて味わわさせていただくことであります。
 私どもは、平生、わが身を頼りにし、わが身によって生きていると思っております。
 しかし、その根本は、実は、阿弥陀如来さまに支えられているのであった、と気づかせていただくとき、広い世界が開かれていることが知られます。
 親鸞聖人は、「御同朋御同行」と呼びかけてくださいましたが、同じ阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされる生命として、私たちは、お浄土に生まれるまでの大切な人生を、手に手を取って歩んでいくのである、と味わわせていただくことであります。

『門主法話集・さとりと信心』人まねでない人生を より


(参照:{「他力本願」は、他人の力に依存すること? }


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