平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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それに対する在家者の信仰は何を求めているのか?
二人の編集委員から返答がありました
上座仏教は出家主義を大きな特徴とする。端的に言うと、仏教では、この世に生きることは苦しみであると説き、その苦しみの原因は執着する心であるとする。
この苦しみの原因である執着を断つ最も効果的な方法が、出家をし、僧侶として修行することであるとされている。
そして、これら出家者の目的は、上に述べたとうり、執着を断つことであるが、執着を断てば、生老病死の苦しみから開放された「涅槃」の境地に到達することができると考えられている。そうすれば、苦しみの世界には、生まれることはないからである。
一方、在家者は功徳を積むために僧侶や寺に対して、布施をする。なぜなら、布施をすることが、善業であるとされ、よい来世に恵まれると考えられているからである。 そして、いつの日にか涅槃に到達することを願うのである。
上座仏教の大きな外郭については、 NHK出版『ブッダ 大いなる旅路 2』〜篤き信仰の風景 南伝仏教〜(以前NHKスペシャルで放送されたものの書籍版です。) が写真等もたくさん掲載されていて、わかりやすいと思います。
また、石井米雄『タイ仏教入門』メコン選書 池田正隆『ビルマ仏教』法蔵館 も、上座仏教について参考にしていただける書籍かと思います。
上座部仏教について述べる時、 おおよそ次の2つの視点で考えなければならないと思います。
釈尊滅後100年程して、仏教教団は戒律上の問題が起こり、 保守的な上座部と、変更を求めた大衆部に分かれたことはご存知と思います。 そのため、上座部は釈尊の時代の教えをきちんと守っている、 というイメージが定着し、 「これぞ仏教本来の姿」と、持てはやされた時代もありましたが、 今では、それは釈尊の生き生きとした法の展開とは違うことも指摘されています。
つまり出家至上主義としての偏りと、厭世的な傾向が色濃く出ていて、 釈尊の備えてみえた行動力、大衆への説得力、法の普遍性、 などが失われているのではないか、と。 そうした形骸化を批判する中から部派が分かれ、 やがて決定的な教学体系をもった大乗仏教が登場したのです。
しかし、そうした多くの批判が出てくるところまで仏教を守り抜いた実績は、 やはり無視できないものがあります。
例えば戒律の問題があります。
仏教というと今は「教えが素晴らしい」ということに注目が集まりますが、
初期の教団にとって最も重要なのは戒律でした。
『戒律について』←に釈尊在世当時の戒律を掲載しておりますが、こうした戒律を守ることが修行の基本なのです。そのため、釈尊が具体的に述べられた教えは、ほとんど再現不可能なのに対し、戒律は『パーリ戒経』(パーティモッカ 波羅提木叉)にほぼ完全な形で残されています。
さて、なぜこのように戒律が大切か、と言いますと、 他の宗教が、民族や職業や身分といった「生まれ」や「地域」を問題としていた時代に、 釈尊は「決められた戒律を守る」という「持戒」を教団の基本地盤としたのでした。 ここに仏教はきわめて純粋で自律的な教団を成立させた訳で、 それは他の教えには見られない普遍性を備えていたことの顕れでした。
教えとしては、例えば 『大パリニッバーナ経』 にも書かれてありますように、 初期の出家者の目的は「解脱」ということにつきるでしょう。 いかに迷いの生から抜け出るか、ということです。 これは他の部派仏教(小乗・アビダルマ仏教)でも共通した目的でした。
対して在家者は、教団維持のため供養を行い、 そうした際などに法を聞く縁をいただくわけです。 しかしほとんどの人は、供養によって功徳を積み、その善果を期待していたようですが、 在家者でも中には本格的に仏教を理解し、勤めを実践していく中で、 出家者をしのぐような境涯を練られた方もみえたようです。
こうして初期の教団が示した戒律と教えは 普遍的宗教の社会的な役割というものも明確にしています。 つまり人間社会を動かす原動力が「欲望」だとすると、 宗教は戒律という「抑止力」と、教えという「方向性」を与えているわけです。 現代的に言えば、ブレーキの無い車がいかに危険か、 ハンドル操作を誤るといかに恐ろしいか、 ということを諭しているのです。
ちなみに、後の大乗仏教では智慧と慈悲の実践が重んじられ、
「生きることからの解脱」ではなく、
「いかに生きるべきか」ということが問題となります。
例えば『大無量寿経』も『過度人道経』という異訳の経名がある程です。
ところで、宗教には必ず戒律はつきものです。 戒律のない宗教は教団としては存続ができません。 無戒を標榜する浄土真宗も、実際には不文律ですが戒律に相当するものがあります。 それは迷信や占い・雑行雑修の廃止や、差別に対する厳しい懺悔等です。 これらは形だけの戒律よりも余程威力のある「おきて」で、 出家の戒律がいわば肉体的禁欲なのに対し、 在家仏教は宗教的禁欲というべき戒を持っているのです。
さて、現代のように余りにも欲望が野放しになっている時代には その強力なエンジンに対応し得るブレーキが必要となってきます。 そうした意味では上座部仏教の役割は、 既にかなり以前に終っているという見方もできるでしょう。 実践の場所を探すのも容易ではありません。 何しろ金銭の授受さえできませんので、 余程周りのバックアップがしっかりしていないと、修行は続けられないのです。
かつての上座部仏教者は、インドという特殊な場を実験場にして、 持戒と教えを、生身を通して深めていったという評価ができます。 そうした実践の成果から後の部派仏教や大乗仏教が生まれ、 やがて浄土の教えにまで発展できたわけです。
現代で上座部仏教の修行をするためには、タイ等に行く方法がありますが、 ここに上座部仏教が残っているのは、幾たびかの改革の結果でもあります。 『アンナと王様』 にもありますように、近代タイにおいて行なわれた改革は、 結果として欧米の植民地化政策を阻止するはたらきを生みました。
仏教の今後の方向性として、 時代の中に生き、教学を発展させるという方向性と、 初期の教団の形から学び直す、という方向性が考えられますが、 現代における上座部仏教の存在意義は、後者にあるといえるでしょう。
合掌