シャム(タイ)の宮廷に英語教師として赴任したアンナ・レオノーウェンズの体験を元に映画化された作品がこの『アンナと王様』である。過去に『アンナとシャム王』(1946年)、『王様と私』(1956年)と二度にわたり映画化されいて、どちらも名作として評価は高いが、国王モンクット(ラーマ4世)の実像を映し出すまでには至っていなかった。理由は、シナリオがマーガレット・ランドの小説を元としているためで、多分にアジアへの理解不足が見て取れるものだった。
しかし今回は、アンナ自身の体験記を元としているため、こうした偏見は取り除かれ、堂々たる歴史絵巻を堪能することが出来る。
◆ 背景となる歴史
映画を見る前に、是非知っておいてほしい事が二つがある。それは当時アジアが次々に西洋の植民地化の餌食にされていた歴史と、モンクット王が即位するまでの僧院での活躍である。
1862年当時は内乱に乗じて国を乗っ取る作戦は、欧米の常套手段だった。事実マラッカ、シンガポール、ビルマ(ミャンマー)はイギリスにより植民地化され、ベトナム、カンボジア、ラオスはフランス領インドシナを形成。中国も分割統治され、シャム(タイ)も当然その標的となっていた。ちなみにその危機は日本にもあったが、江戸城明け渡し、大政奉還等の処置により回避されている。
ここで国政を誤れば、ただちにその餌食になる。モンクット王の置かれた立場は実に厳しく舵取りの難しいものだった。
こうした事態を打開するため、大抵の人が考えるのは軍事力強化で、これは映画のクライマックスでクーデターを起こしたアラク将軍の意見に代表されている。彼が「ビジョンを持った王」として尊敬するピャ=タークシンは、1767年にアユタヤ朝を滅ぼしたビルマ軍を手勢5000の兵で反撃し、これを撃退した王だった。ちなみに現在ワット=プラケオ寺の本尊となっている有名なエメラルド仏は、タークシンがラオスから奪った戦利品である。
タークシンは晩年、精神錯乱に陥り、僧侶に「我を礼拝合掌せよ」と命じ、拒否した僧を弾圧するなど横暴を極めたため反乱が起こり、部下だったチャオプラヤー=チャクリに処刑されている。
その後チャクリはラーマ1世と名乗り、タークシンを礼拝した僧を還俗させた。そして僧院の改革に努め、仏典の編集にも力を注いでゆく。古来より王室は仏教と強いつながりがあるのだが、ラーマ2世(モンクットの父)、ラーマ3世(モンクットの兄)も僧侶の学問的水準の向上をはかっていった。
モンクットは、王位継承を争った兄のクロマムーン(ラーマ3世)の治世が長く続いたため、27年間も僧籍に身を置いたのだが、結果としてそれは僧院の改革につながってゆく。
まずモンクット自身、王族として初めてパーリ語の上級試験に合格するほど仏教研鑚に励み、またラテン語や英語、キリスト教理念、西洋の科学や天文学等も学んでゆく。そうした国際的な視野に立ち、当時の迷信排斥の世界的動向を見極め、「仏教においても呪術的で迷信めいた儀礼等を廃止するべきだ」と考え、タマユット(仏法に忠実なもの)運動を起こしてゆく。
具体的には、乱れきった僧侶の戒律を正すためモン人僧侶に学び、スリランカから三蔵経典を取り寄せ、古来タイ仏教の経典や注釈書のうち釈尊の教えと矛盾する書500巻を退けてゆく。彼の改革に賛同する僧らはタマユットニカイ(正法派)を形成、これに従わなかったマハーニカイ(大衆派)と分裂し、ここに今日のタイ仏教の二大派閥が形成されていった。
上座部仏教が本来の仏教であるという考え方は、近代の仏教研究の一分野を成すが、日本でも「大乗仏教は非仏説」とする説は今も研究者の間で根強く残っている。ちなみにこうした考えは教学を閉塞的な状況に追い込んでしまい、歴史的事実からも遠ざかっていることが次第に明らかになってきたが、当時の西洋文明はそうした証拠主義的検証を尊ぶ傾向にあり、モンクットの改革は、当時の西洋各国に、タイの植民地化の正当性を失わせる役割を果たしたと言って良いだろう。
こうして僧院の様々な改革の遂行中に兄のクロマムーン(ラーマ3世)は1851年に逝去し、モンクット(当時既に47歳)に王のお鉢が回ってきたのだが、西洋のアジアに対する偏見は拭いがたく、開かれた王室を実現するため、また王子たちに様々な西洋の教養を身につけさせるため、イギリスから家庭教師を招いた訳である。
◆ ストーリー
アンナが最初、どこまでこの国の実情を知った上で家庭教師を引き受けたのか分からないが、映画は、彼女が受けるカルチャーショックを追体験するような映像の連続で幕を開ける。
1862年、タイのバンコックに着いたアンナ(28歳)と息子のルイ(10歳)を迎えたのは、象の先導する道中、市場の喧騒だった。ようやく王宮につくと、王を神のように崇める儀礼を目にし、また23人の妻と42人の側室と58人の子どもを紹介され「僧院での生活が長かったから励まねば」と言う王に驚く。そして家を用意するという約束が果たされず、また奴隷制度などの非人道的な習慣にも憤慨し批判を加えるするアンナ。
「しかるべき時が来たら改める」という言葉にも苛立ちを抑えきれずにいたが、次第に王の豊かな教養や、包容力と威厳のある行動に理解を示し、チェラロンコーン皇太子(11歳)はじめ子どもたちの良き教師としての実績を積み重ねてゆく。
また諸外国の高官を招いての夜会で、アンナは英国の植民地政策を批判し、驚いた王は彼女をダンスの相手に選ぶ。こうして互いに深い愛と尊敬で信頼関係を築いていった二人だが、それ以上の行動を取ることは立場上、抑制せざるを得ない。
しかし若い側室タプティムの駆け落ち(未遂)事件をめぐって二人は決裂。アンナは絶望し帰国のためイギリス船に乗り込んだ。だがそこで、アラク将軍(前述のタークシンを尊敬)がクーデターを起こし、王一族の命が危険にさらされていることを知る。アンナは急いで王宮に戻り、王と共に身を隠す旅に出るのだが、反乱軍に逃亡先を察知され、追い詰められてしまう。彼らの手に落ちれば、妻子全員が虐殺されてしまうだろう・・・
◆ 素晴らしい人間ドラマ
1956年に発表された『王様と私』ではユル・ブリンナーの存在感が印象に残るのだが、モンクット王の経歴を踏まえると「少し力みすぎ」の感は否めなかった。しかし今回のチョウ・ユンファは国王の実像に迫る落ち着きと包容力を見せている(実際のモンクット王には会っていないが・・・)。
またジョディー・フォスターは、辛い過去を背負いながら未知の世界に飛び込む勇気をもつアンナ、という難しい役どころを見事にこなし、ユンファとの間合いも自然に親密度を増す様子が良く出ていた。まあ、さすがジョディーだ。
アラク将軍はこの映画ではほとんど唯一の敵役だが、ランダル・ダク・キムは見事にはまっていた。単なる悪役ではなく「思うところあってのクーデター」であり、かなりしぶい演技である。
駆け落ちを企て処刑されるタプティムを演じるのはバイ・リン。恋に一途な想いを行動に移す役柄である。裁判の場面では、実際に頭を剃り激しいやり取りを見せている。個人的な感想だが、彼女の剃髪姿は中々美しい。
こうした役者たちの活躍が光るのに加え、『クレオパトラ』(1963年)以来という豪華絢爛な王宮のセットが目を引く。資料を見るまで私は当然タイの実際の王宮を撮影場所にしたのだと思っていた(あれを造って、まさか撮影後に壊したのか?)。さすが、金の使いどころを心得てる。
シナリオも素晴らしく、タイの内政外交の危機的状況やヨーロッパの動向、文化の違いからくる誤解とそれを互いに理解する智恵。そして人間ドラマとしても、情に流されず、抑制のとれた情感が画面から湧き出ている。
◆ 実を結んだ愛
タイの歴史に今も燦然と輝くモンクット王(ラーマ4世)であるが、アンナが家庭教師の役目を終え帰国した翌年に崩御されている。後を継いだのは皇太子だったチェラロンコーンで、彼は15歳でラーマ5世となり、奴隷制度を廃止し、教育制度を改革するなど国の近代化を進めていった。そうした内政や外交努力が実を結び、タイは植民地化されることなく独立を保つことができたのだった。
こうした活躍によりラーマ5世は「タイ史上最高の王」と称えられているのだが、これは父王の強い意志とアンナの教育の賜物であり、二人の愛はタイの地に確実に実を結んだと言えるだろう。
優しく勇気ある教師と、穏やかだが威厳ある父親――今の日本には特に必要な人物像である。