平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
質問:3/14・更新のQ&A 「難信の法など信じられる人は少ない?」 を読んで。 <中略>
この質問と回答を読んで、普段に私が感じている事とダブって感じました。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや しかるに世のひとつねにいわく、悪人なを往生す、 いかにいはんや善人をやと。この条、いったんそのいはれあるに にたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、 自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、 弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。 煩悩具足のわりらは、いづれの行にても生死をはなるること あるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人はと、 おほせさふらひき。
↑の様に書かれてあり、それについて、「やっとかめ」の皆さんに質問をしようと思っていた矢先に、知人から、この解釈について教えて頂き私の「他力」に関しての大きな誤解を覚らせていただきました。
「他力」を理解することは、浄土真宗を理解することでもあると思います。
↑の様に言われているのですが、
|
確かに、浄土真宗はこの「他力」を明らかにする宗旨です。ただし、これはあらゆる宗教が関わる問題でもあるのです。
相対的世界、つまり差別の中であやふやな価値観で生きている私たちと
絶対の世界、つまり確かな価値観との出会いが宗教といえるでしょう。
この溝を自らの努力によって克服していくのが自力の道で、
絶対の世界から回向されてくるのが他力の道です。
世界に存在するほとんどの宗教がこのどちらかの道、もしくはその折衷なのですが、実は突き詰めてゆくと、どちらも根本的な矛盾にさらされてしまいます。
自力はどうしても自らの力の限界という壁に突き当たります。 また、努力したらしたで、そのことを誇り、その上にあぐらをかいて、 他人を見下げ、努力の成果をみせびらかすようになります。 これでは努力する前より悪くなってしまいますね。 こういう人は世間一般でもよく見かけます。
他力というのはそうした努力に依るのではなく、 確かな絶対的な世界からの回向を依りどころとしていきます。 しかし、そうした世界を信じ切れる自分なのでしょうか。 自力以上に、この他力の道も難しいと言わざるを得ません。
実はほとんどの宗教がこの信仰の道を完全ならしめるため、 地獄の恐怖を用いてきました。 永遠の地獄か永遠の天国かの分かれ道を設定し、 信仰せざるを得ない状況を作り出しておくわけです。 そして救いの条件を戒律や懺悔や信仰心などで提示しておき、 それに順じていくことで救いの実感を得ることができるわけです。
浄土の道も親鸞聖人が現れる以前はこの地獄の恐怖を用いていました。
「往生要集」に表された地獄極楽の描写は、
多くの人々に地獄の恐怖と浄土へのあこがれを植え付けてきました。
ところが本来、弥陀の浄土のはたらきは、もっぱら人生と環境を成就することが誓われており、
個人の善悪など度外視して救うほどの絶対的なはたらきであるのです。
この絶対的な救いを信ずるのは、難の中の難であることは
「難信の法など信じられる人は少ない?」で詳説しましたが、
数多くの出会いによって、確かに私の元に信心が届けられていたことを喜ばせて頂けるわけです。
五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり『正像末浄土和讃 (三一)』
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし『正像末浄土和讃 (五九)』
未完成の私でありながら、如来の願いを私の主体にして生きることができる、 こうした今現在の喜びこそが他力の真実であり、 死後の往生は自ずと定まっている副次的なものにすぎないのです。
PS: 「歎異抄」にある「悪人正機」については 「悪人正機と悪人の概念」 に詳説してあります。