[index]    [top]

七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 25

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳大義門[だいぎもん]功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【二五】
 大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根欠 二乗種不生

 この四句は荘厳大義門功徳成就と名づく。「門」とは大義に通ずる門なり。「大義」とは大乗の所以なり。人、城に造りて門を得れば、すなはち入るがごとし。もし人安楽に生ずることを得れば、これすなはち大乗を成就する門なり。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、仏如来・賢聖等の衆ましますといへども、国、濁せるによるがゆゑに、一を分ちて三と説く。あるいは眉を拓くをもつて誚りを致し、あるいは指語によりて譏りを招く。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土をしてみなこれ大乗一味、平等一味ならしめん。根敗の種子畢竟じて生ぜじ、女人・残欠の名字また断たん」と。このゆゑに「大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根欠 二乗種不生」といへり。
 問ひていはく、王舎城所説の『無量寿経』(上・意)を案ずるに、法蔵菩薩の四十八願のなかにのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、国のうちの声聞、よく計量してその数を知ることあらば、正覚を取らじ」(第十四願)と。これ声聞ある一の証なり。また『十住毘婆沙』(易行品)のなかに龍樹菩薩、阿弥陀の讃を造りていはく、「三界の獄を超出して、目は蓮華葉のごとし。声聞衆無量なり。このゆゑに稽首し礼したてまつる」と。これ声聞ある二の証なり。また『摩訶衍論』(大智度論・意)のなかにいはく、「仏土種々不同なり。あるいは仏土あり、もつぱらにこれ声聞僧なり。あるいは仏土あり、もつぱらにこれ菩薩僧なり。あるいは仏土あり、菩薩・声聞会して僧となす。阿弥陀の安楽国等のごときはこれなり」と。これ声聞ある三の証なり。諸経のなかに安楽国を説くところありて、多く声聞ありとのたまひて声聞なしとのたまはず。声聞はすなはちこれ二乗の一なり。『論』(浄土論)に「乃至無二乗名」といへり。これいかんが会する。答へていはく、理をもつてこれを推するに、安楽浄土には二乗あるべからず。なにをもつてこれをいふとならば、それ病あるにはすなはち薬あり。理数の常なり。『法華経』(意)にのたまはく、「釈迦牟尼如来、五濁の世に出でたまへるをもつてのゆゑに、一を分ちて三となす」と。浄土すでに五濁にあらず。三乗なきことあきらかなり。『法華経』(意)にのたまはく、「もろもろの声聞、この人いづこにおいてか解脱を得ん。ただ虚妄を離るるを名づけて解脱となす。この人実にいまだ一切解脱を得ず。いまだ無上道を得ざるをもつてのゆゑなり」と。あきらかにこの理を推するに、阿羅漢すでにいまだ一切解脱を得ず。かならず生ずることあるべし。この人更りて三界に生ぜず。三界のほかに、浄土を除きてまた生処なし。ここをもつてただ浄土に生ずべし。「声聞」といふがごときは、これ他方の声聞来生せるを、本の名によるがゆゑに称して声聞となす。天帝釈の人中に生るる時、キョウ尸迦を姓とせり。後に天主となるといへども、仏(釈尊)、人をしてその由来を知らしめんと欲して、帝釈と語らひたまふ時、なほキョウ尸迦と称するがごとし。それこの類なり。またこの『論』(浄土論)にはただ「二乗種不生」といへり。いはく安楽国に二乗の種子を生ぜずとなり。またなんぞ二乗の来生を妨げんや。たとへば橘栽は江北に生ぜざれども、河洛の菓肆にまた橘ありと見るがごとし。また鸚鵡は壟西を渡らざれども、趙魏の架桁にまた鸚鵡ありといふ。この二の物ただその種渡らずといふ。かしこに声聞のあることまたかくのごとし。かくのごとき解をなさば、経論すなはち会しぬ。
 問ひていはく、名はもつて事を召く。事あればすなはち名あり。安楽国にはすでに二乗・女人・根欠の事なし。またなんぞまたこの三の名なしといふべけんや。答へていはく、軟心の菩薩のはなはだしくは勇猛ならざるを、譏りて声聞といふがごとし。人の諂曲なると、あるいはまた「弱なるを、譏りて女人といふがごとし。また眼あきらかなりといへども事を識らざるを、譏りて盲人といふがごとし。また耳聴くといへども義を聴きて解らざるを、譏りて聾人といふがごとし。また舌語ふといへども訥口蹇吃なるを、譏りてア人といふがごとし。かくのごとき等ありて、根具足せりといへども譏嫌の名あり。このゆゑにすべからく「乃至名なし」といふべし。浄土にはかくのごとき等の与奪の名なきことあきらかなり。
 問ひていはく、法蔵菩薩の本願(第十四願)、および龍樹菩薩の所讃(易行品)を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもつて奇となすに似たり。これなんの義かある。答へていはく、声聞は実際をもつて証となす。計るにさらによく仏道の根芽を生ずべからず。しかるに仏、本願の不可思議の神力をもつて、摂してかしこに生ぜしめ、かならずまさにまた神力をもつてその無上道心を生ずべし。たとへば鴆鳥の水に入れば魚蚌ことごとく死し、犀牛これに触るれば死せるものみな活るがごとし。かくのごとく生ずべからずして生ず。ゆゑに奇とすべし。しかるに五不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしむ。まことに不可思議の至りなり。


聖典意訳
 大乗善根[だいじょうぜんごん][さかい]は 等しくして譏嫌[きけん]の名なし
 女人及び根欠[こんけつ]と 二乗[にじょう]の種生ぜず

 この四句を、荘厳大義門功徳成就[しょうごんだいぎもんくどくじょうじゅ]と名づける。「門」とは、大義[だいぎ]に達するところの入口である。「大義」とは、大乗の所以[いわれ]である。人が誰でも[みやこ]に行こうとする場合には、門さえあれば入ることができるようなものである。もし人が安楽浄土に生まれることができれば、大乗のさとりに至る門を得たことになるのである。仏は因位[いんに]の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、仏や賢聖[げんしょう]などがおられても、五濁[ごじょく]の世界であるから、一乗の法を分けて三乗として説かねばならぬ。あるいは[まゆ]をひらいて媚態[びたい][てい]すると[そしり]を受ける。あるいは[おし]と生まれても指をもって語るために[そしり]を受ける。そこで「わが国土は、大乗のさとり、平等のさとりであって、大乗の菩提心[ぼだいしん]を失った二乗の心はおこらず、女人・不具者[ふぐしゃ]などその名前もまた断つであろう」と願われた。こういうわけだから「大乗善根[だいじょうぜんごん][さかい]は 等しくして譏嫌[きけん]の名なし 女人及び根欠[こんけつ]と 二乗[にじょう]の種生ぜず」といわれたのである。

 問うていう。王舎城[おうしゃじょう]で説かれた《無量寿経[むりょうじゅきょう]》をうかがうと、法蔵菩薩[ほうぞうぼさつ]が四十八願の中に「もしわたしが仏となったとき、国の中に声聞[しょうもん]に限りがあって、その数を知ることができるようなら、正覚[しょうがく]をとらない」と[おお]せられてある。これは声聞がある第一の證拠[しょうこ]である。
また《十住毘婆沙論[じゅうじゅうびばしゃろん]》(《易行品》)の中に、竜樹菩薩[りゅうじゅぼさつ]が阿弥陀仏を讃嘆[さんだん]する偈文[げもん]を造って、
    三界の牢獄[ろうごく]超出[ちょうしゅつ]して 目は蓮華[れんげ]の花びらのようである
    声聞たちは無量である それゆえぬかずき[らい]したてまつる
といわれる。これは声聞がある第二の證拠[しょうこ]である。
また《摩訶衍論[まかえんろん]》(《大智度論[だいちどろん]》)の中に「仏土に種種不同[しゅじゅふどう]がある。ある仏土は、もっぱら声聞を僧とする。ある仏土は、もっぱら菩薩を僧とする。ある仏土は、声聞と菩薩を僧とする。阿弥陀仏の安楽国[あんらくこく]などがこれである」とある。これは声聞がある第三の證拠[しょうこ]である。
諸経[しょうきょう]の中で安楽国を説くところには、多く声聞があるといわれ、声聞がないとはいわない。声聞は二乗の一つである。ところがこの論には「乃至[ないし]二乗の名さえもない」といわれている。この相違をどのように理解したらよいのか。

 答えていう。道理の上からおしはかると、安楽浄土には二乗があるはずがない。なぜこういうのかといえば、病があれば薬があるのは当然のことである。《法華経》に「釈迦牟尼如来[しゃかむににょらい]は、五濁[ごじょく]の世に出られたゆえに、一乗を分けて三乗とせられた」と説かれてある。浄土はすでに五濁でないのだから三乗のないことは明らかである。
また《法華経》に「もろもろの声聞はどういう解脱[げだつ]を得るのか。ただ三界を離れるのを名づけて解脱とする。この人はまだほんとうに一切の解脱を得ていない。まだ無上道[むじょうどう]を得ていないからである」と説かれてある。
まことに、この[]から[]し量ると、阿羅漢[あらかん]はまだ一切の解脱を得ていないから、きっとなお[しょう]ずるところがなければならない。こういう人たちは、もはや三界[さんがい]に生まれない。三界の[ほか]では浄土を除いて再び生ずるところがない。こういうわけであるからただ浄土に生ずるのである。
声聞[しょうもん]」というのは、よその世界の声聞が生まれたのを、そのもとの名によって呼んで声聞というのである。帝釈天[たいしゃくてん]が人間界に生まれた時は、 キョウ尸迦[きょうしか]という姓であったから、後に天主[てんしゅ]となっても、釈迦如来は人にそのもとを知らせようと思召[おぼしめ]されて、帝釈と語られる時には、やはり キョウ尸迦と呼ばれたのはこの例である。
また、《浄土論[じょうどろん]》には、ただ「二乗の種が生じない」といわれてある。そういう意味は、ただ安楽国には二乗の種子[たね]すなわち声聞の心が発生しないということであって、またどうして、二乗がよそからくるのを[さまた]げようか、妨げない。たとえば[たちばな][なえ]揚子江[ようすこう]の北にはできないけれども、洛陽[らくよう]果物店[くだものみせ]には橘があるのを見るようなものである。また鸚鵡[おうむ]壟西[ろうせい]を超えて来ないけれども、東の[ちょう][]の国の鳥篭[とりかご]の中には鸚鵡がいるのを見る。この二つのものは、ただその種子[たね]が渡らないというのである。浄土に声聞がいるというのも、またこのとおりである。このように解釈するならば、経と《浄土論》とがよくあうことになる。

 問うていう。名前は、ものがらを示す。ものがらがあれば名前がある。安楽浄土には、すでに二乗とか女人とか不具者[ふぐしゃ]とかいうものがらがない。またどうして、これらの三つの名前までないといわねばならぬのか。

 答えていう。心の弱い菩薩で勇猛心[ゆうみょうしん]がそう[はなは]だしくないのを、そしって声聞[しょうもん]というようなものである。また、人がへつらい、また臆病[おくびょう]で弱いものを、そしって女人というようである。また、眼は明らかに見えても、物事を知らないのを、そしって盲目[めくら]というようである。また耳は聞こえても、義理[ぎり]を理解しないのを、そしって[つんぼ]というようである。また、舌は語るけれども、口ごもって言葉のなめらかでないのを、そしって[おし]というようである。このように眼・耳・舌などの[こん]がそなわっても、そしりの名前があることがある。こういうわけで「名さえもない」といわねばならぬ。明らかに、浄土にはこのようなそしりの名はないのである。

 問うていう。法蔵菩薩の本願(第十四願)および竜樹菩薩[りゅうじゅぼさつ]弥陀[みだ]讃嘆[さんだん]される御文[ごもん]には、みな浄土に声聞[しょうもん]が多くいるのを、すぐれているとするようである。これはどういうわけがあるのか。

 答えていう。声聞はただ三界[さんがい]生死[しょうじ]を出るだけをもって[さとり]とする。考えてみると、また仏果[ぶっか]を求める心は起こらない。それを阿弥陀如来の不可思議な力をもって、[おさ]めてかの浄土に往生させ、きっとまた、不思議なはたらきをもって、その無上菩提心[むじょうぼだいしん]を起こさせるであろう。たとえば、鴆鳥[ちんちょう]が水の中に入ると、魚や貝がすべて死ぬが、犀牛[さいぎゅう]がこれにふれたならば、死んだものがよみがえるごとくである。このように起こらないものに菩提心を起こさせるものだから、これを不思議とするのである。ところで五つの不思議の中で、仏法が最も不可思議である。如来は、この声聞に再び無上菩提心を起こさせる。まことに不可思議の中の最もすぐれたものである。


 器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうちの第十六、「荘厳大義門[だいぎもん]功徳成就」の詳細を観察します。なお前章までは『往生論註』の文脈に沿って解釈を試みてきましたが、この章の解釈は、時代性や社会環境などから問題箇所も多いので、必ずしも文脈には沿わず、『論註』の問いは活かしながらも一旦『浄土論』に戻り、さらには浄土経典を虚心坦懐[きょしんたんかい]に読み直して真実義を尋ねていこうと思います。そしてあらためて『往生論註』の内容を検証し、問題点があれば率直に指摘していきます。

 名は体を表す

 まずはこの章のもととなった『浄土論』を引きます。他の章では曇鸞大師の広範な解釈が領解の助けになってくれているのですが、この章ではむしろ複雑化の原因となってしまっていますので、要点を整理する意味で論に戻るのです。

荘厳大義門功徳成就とは、偈に「大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根欠二乗種不生」といへるがゆゑなり。浄土の果報は二種の譏嫌の過を離れたり、知るべし。一には体、二には名なり。体に三種あり。一には二乗人、二には女人、三には諸根不具人なり。この三の過なし。ゆゑに体の譏嫌を離ると名づく。名にまた三種あり。ただ三の体なきのみにあらず、乃至二乗と女人と諸根不具の三種の名を聞かず。ゆゑに名の譏嫌を離ると名づく。「等」とは平等一相のゆゑなり。
『浄土論』10 解義分 観察体相

▼意訳(意訳聖典より)
大義門功徳[だいぎもんくどく]の成就とは、偈文[げもん]
  大乗の善根[ぜんごん]によって成就せられた 如来の世界は平等一味[びょうどういちみ]であって
  女人や根欠[こんけつ]二乗[にじょう]のともがらがなく また[いや][そし]りの名もない
というてある。浄土の果報[かほう]は二種の嫌な譏りを離れている。一つには[ものがら]、二つには名である。体に三種がある。一つには声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]の人、二つには女人[にょにん]、三つには諸根[しょこん]不具[ふぐ]な人である。この三つの過失[かしつ]がないから[ものがら]の譏しを離れるという。名にもまた三種がある。ただ、これら三つの体がないばかりではなく、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]と女人と諸根不具[しょこんふぐ]という三種の名もまた聞かないから、名の[そし]りを離れるというのである。「[とう]」とは、浄土へ往生した者は平等で一つのさとりとなるからである。

 この箇所では、阿弥陀仏の浄土は大義門[だいぎもん](大乗の善根)の徳のはたらきによって荘厳(創造)された世界である、という側面を明らかにします。
 大義門は大乗の善根[ぜんごん]によって成就した要所[ようしょ]であり、門とあるのは浄土と穢土[えど][さかい][さわ]りなく出入りできるということです。つまり、浄土に立って人生を語ることもできれば、五濁[ごじょく]悪世界の穢土[えど]に立って人生を語ることもできる。穢土を穢土と照らして浄土があり、浄土を浄土と願わしめて穢土がある。この二つが無障[むげ]となった要所が大義門であります。

 この要所[ようしょ]を得た一面として平等一味[びょうどういちみ]という結果を挙げることができるのですが、浄土は平等一味でありながら「青色青光[しょうしきしょうこう]黄色黄光[おうしきおうこう]」で、千差万別の個性が報い輝く面を持った世界でもあります。浄土の特徴は「平等」と「差異[さい]」が並び立つところにあるのです。逆に穢土では「平等」に固執して「差異」が排除されたり、「差異」に固執して「平等」が崩れたりしています。
 具体的に言えば、人間を型にはめて平等を押し付け、はみ出そうとする者を排除することが「平等」に固執して「差異」が排除≠ウれる状態であり、人間の差異を固定化・実体化し、人格的に差別することが「差異」に固執して「平等」が崩れた¥態です。
 このような穢土の五濁が浄まれば、差異が個性として認められ、「一切衆生悉有仏性[いっさいしゅじょうしつうぶっしょう]」と生命一切が輝き、「生きとし生けるものみな尊し」との平等一味の功徳が個性豊かな一人ひとりの人生の中で顕現[けんげん]されてゆきます。このように、「平等」と「差異」が矛盾し対立するのではなく、並び立つことが浄土の特徴なのです。

<浄土の果報は二種の譏嫌の過を離れたり、知るべし。一には体、二には名なり>
(浄土の果報[かほう]は二種の[いや][そし]りを離れている。一つには[ものがら]、二つには名である)

 ここは何気なく通り過ぎてしまいがちな箇所ですが重要なところです。体と名について論じてありますが、「体」はものごとの本質や実体の意≠ナあり相(外的相状)や性(内的本体)を属性とする主体的体質≠ナす。「名」は文字通り「名前」ですが、「名は体を表す」という[ことわざ]がある通り、名というものは、そのものの性質や中身などをうまく表している場合が多く、まして経典においては、名は実体そのもののをよく言い当て、名と実体とが見事に適合しているものです。
 名と実体については、たとえば「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり」(大経義疏)とある通りで、名は単なる記号や番号ではありません。本質や歴史的成果全てが込められているのです。それゆえ、衆生にはとっては「名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし」(同)と利益をもたらし、それが「よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし」(同)と真実信心に成りきることができることを証明しています(参照:{光明無量 十二光})。それゆえ、浄土における菩薩は浄土の土徳によってお育て頂くのですが、穢土[えど]や他国土における菩薩は名号の徳によってお育て頂くのです。
 このように、諸仏の名は衆生を善に導き悪を滅するのですが、名が逆にはたらく場合もあります。それが「譏嫌[きげん][とが]です。
 四十八願で言えば、{離諸不善の願}において不善の名を廃し、様々な[そし]りを離れるのは、「名は体を表す」ということで、今現在の内容を問うことが第一にあることは確かです。しかしそれと同時に「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり」の逆もまた真なりで、言わば三種はみな悪徳を名に込める。名を称するはすなわち悪徳を称するなり≠ニか(三種の)名を称するはすなはち悪徳を称するなり。悪徳よく罪を生じ福を滅す。名もまたかくのごとし≠ニいう困った状況が起きるので、「[みょう]譏嫌[きげん]を離る」と言うのでしょう。

 経典にある「女人」「根欠」「二乗」の内容

 では、三種は具体的に何を指すのか、ここが一番の問題です。

『浄土論』『往生論註』とも三種を「女人」、「諸根不具[しょこんふぐ]根欠[こんけつ])」、「二乗[にじょう]声聞[しょうもん]縁覚[えんがく])」と決めていますが、これが果たして本当に「仏の経教を解して仏義と相応」している内容なのでしょうか。またそれぞれの具体的な内容も確かめなければなりません。そこで以下、一つづつ浄土経典の真意を確かめて真偽を明らかにしたいと思います。

●「女人」について

 浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)において「女」とあるのは、「男となし、女となして」「善男子・善女人」「少長・男女ともに銭財を憂ふ」というように、ほとんどが男も女も≠ニいう意味で記されています。中には「五百の侍女」とありますが、これは状況的に韋提希[いだいけ]とともに仏の所説を聞いて菩提心[ぼだいしん]を発したのですから女性特有のことをとり上げた記述ではありません。唯一、女性のみを問題とした箇所は{女人往生の願}にあります。

 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽[かんぎしんぎょう]し、菩提心[ぼだいしん]を発して、女身を厭悪[えんお]せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。

 この現代語版は以下のように訳されています。

 わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 さて、ここではまず、現代語版の訳し方を問題としなければならないでしょう。<女身を厭悪[えんお]せん>というところを「女性であることをきらったとして」と訳しているのですが、女に生まれてきた者が女であること自体を嫌うということは自己否定になってしまいますので、自己実現を目指す大乗仏教の方向性とは明らかに異なっていると言わざるを得ないでしょう。「変成男子[へんじょうなんし]の願」という言い方も聖人独特の言い回しですが、浄土三部経典にはそのようなことは一切書かれていません。女が男に生まれ変わって成仏するという解釈は、法華経の「女根がなくなって男根が現われる」等という記述の影響であり、浄土経典としては少し特殊な解釈と言うべきでしょう。
 浄土においては、男は男として、女は女として、それぞれ足元の本質において人生を全うすることが願われているのです。そうでなければ一切衆生の済度[さいど]など適うはずがありません。そもそも全ての女性に男根を生やすことに何の意味を見出せるでしょう。了義経[りょうぎきょう]である『仏説無量寿経』を不了義の諸説に従って解釈するとこのような不一致が起こりますので注意しなければなりません。もちろん「性は男と女のみではない」ということもありますが、「女人」の記述の問題を論じていきますのでここでは略します。

 では女人往生の願の「女身を厭悪せん」の真意は何かというと、女性として身を[つつし]むべし≠ニいうことに尽きると思います。女は女のまま仏に成れば良いのですが、女として背負っている業が暴走すれば、人生と環境が業に支配され崩壊してしまいますから、菩提心を発して身を慎むことを勧めるのです。
 この解釈が正しい証拠は、まず四十八願の構造から解釈すれば、この女人往生の願(35)から常受快楽の願(39)までの五つの願は念仏生活の私的な面の成就を願うもので、特に聞名梵行の願(36)では常修梵行[じょうしゅぼんぎょう](性行為の遊戯性が自覚され、性欲に狂うことなく慈愛を[あつ]くし、家庭人として人格を円満にし「愛欲即是道[あいよくそくぜどう]」の行を修めて仏道を成就してゆく)という性欲聖化が願われていて、第三十五願はその前提としての願ですから、女性として身を慎むべし≠ニいう意が真っ当な解釈であることが解るでしょう。
 また古今東西、宗教の歴史を訪ねてみても、女性の身の慎み方について触れていない教えはほとんどありません。なぜなら、女性が身を慎まず全開放してしまっては家庭や社会が成立しませんし、それより何より女性自身の人生が性の業に飲み込まれた無自覚なものとなってしまうからです。もし四十八願の中でこの点に触れていなければ『仏説無量寿経』には欠陥がある≠ニいうことになってしまうでしょう。
 ではどのように身を慎むべきかと言うと、たとえばイスラム教では全身を布で覆い、他人に顔を[さら]すことも控えます。女が顔や身を曝せば男は性的刺激を受けるのでこれを罪とするのです。こうすれば確かに慎みは保てるでしょう。しかし女子の本懐≠ニいう点ではやや消極的かも知れません。女性が菩提心[ぼだいしん]を発し、自己実現していくためには、身を慎みながらも女性として生まれた特徴が活かされなけなければならないでしょう。この点、和服などは、身体の線は消しながら、女性ならではの華やかさや特徴が発揮され非常に創造的です。伝統的に仏教の影響が大きい日本では、理論的な解釈はいざ知らず、文化的には経典の意に沿う形で文化が育くまれてきたのではないでしょうか。
 これは服装という一つの例ですが一事が万事で、生活の中で、身に象徴される性的特質は慎みつつ、女が女として、自分が自分として、足元の本質において人生を全うする、こうした創造的な生活を浄土の土徳によって育むことができるのです。

●「根欠」について

諸根不具[しょこんふぐ]根欠[こんけつ])」は、一般的に身体障害者を指す≠ニ思われているようですが、これは大いなる間違いというべきでしょう。真実は、見識に[かたよ]りがあったり、狭い世界に独り閉じこもって、世の中の重々無尽[じゅうじゅうむじん]なる尊さに耳を貸さない≠ニいう人を問題にしているのです。
 四十八願の中では{聞名具根の願}(41)に願われていますので確かめてみましょう。

たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋[しょこんけつる]して具足せずは、正覚を取らじ。

 この第四十一願の現代語訳は以下の通りです。

わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

諸根闕陋[しょこんけつる]」を「その身に不自由なところがある」と訳していますが、「諸根」は[げん][][][ぜつ][しん][]六根[ろっこん]、「闕」はものをコ型にえぐりとる=A「陋」は狭く縮んだ≠ニいう意味ですから、文字通り訳せば六根に欠陥があり狭く縮んでいる状態≠ニ訳せます。しかし、根は感覚を起こさせる機能・器官≠ニいうことですから、闕陋はいわゆる身体障害者を指すものではありません。六根が清浄かどうか、六根が快楽に満ち[あふ]れているかどうかを問うているのです。(参照:{道樹楽音荘厳 「#三法忍を得て不退転に住す」}
闕陋[けつる]」の反対は、たとえば『仏説無量寿経』3では、阿難が世尊の尊いお姿を拝見し、お心を受け――

今日世尊、諸根悦予[しょこんえつよ]し、姿色清浄[ししきしょうじょう]にして光顔巍々[こうげんぎぎ]とましますこと、明浄[みょうじょう]なる鏡の影、表裏に[とお]るがごとし。
(現代語版:世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます)
と、世尊の諸根が悦予[えつよ](快楽)なることを褒め称えています。(参照:{荘厳無諸難功徳成就}
 また『仏説無量寿経』28(衆生往生果)では――
かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足[ぐそく]す。智慧成満[ちえじょうまん]して深く諸法に入り、要妙[ようみょう]究暢[くちょう]し、神通無礙[じんずうむげ]にして諸根明利[しょこんみょうり]なり。
(現代語版:だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる)
と、浄土に生まれた衆生もまた諸根が明利[みょうり](六根が明朗で利発、六神通を得て自在)であることを明かします。
(六神通=参照:{令識宿命の願}等)

 このように六根が快楽に満ちあふれ、六根の本分を満たした状態であることを願い、そうでない諸根闕陋[しょこんけつる]の状態が無いよう改革するのです。具体的には先に申しましたように、見識に[かたよ]りがあったり、狭い世界に独り閉じこもって、世の中の重々無尽[じゅうじゅうむじん]なる尊さに耳を貸さない≠ニいう人を問題にし、六神通を得て偏りの無い見識を得、広く世界に飛び出し、世の中の重々無尽[じゅうじゅうむじん]なる尊さを聞き開く人間となるよう、浄土の土徳が導いてゆくのです。

●「二乗」について

 二乗[にじょう]とは、「声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]」を指します。大乗仏教では常にこの二乗を廃することを重視しているのです。
 例えば『十住毘婆沙論[じゅうじゅうびばしゃろん]』において龍樹菩薩は『助道法』を引き、二乗に陥ることを大きな損失であり災患[さいげん]であると弾じています。

もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。
もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。
仏みづから『経』(清浄毘尼方広経)のなかにおいて、かくのごとき事を解説したまふ。
人の寿を貪るもの、首を斬らんとすればすなはち大きに畏るるがごとく、
菩薩もまたかくのごとし。もし声聞地、
および辟支仏地においては、大怖畏を生ずべし。

  (聖典意訳)
もし声聞の地位や  縁覚の地位に堕ちるならば
これを菩薩の死と名づける  そうなれば一切の利益を失う
たとい地獄に堕ちても  かような[おそ]れは生じないが
もし二乗の地位に堕ちるならば  すなはち大きな畏れとなる
なんとなれば地獄の中に堕ちても  ついには仏果に至ることはできるが
もし二乗の地位に堕ちるならば  ついに仏になる道をさまたげるからである
仏みづから経の中に  こういうことを説かれてある
寿命を惜しむような人は  首を斬られることを大いに畏れる
菩薩もまたこの通り  もしもし声聞の地位や
縁覚の地位に堕ちるならば  大きな畏れを生ずるであろう

(参照:{『十住毘婆沙論』と『往生論註』}
 これを受け曇鸞大師は<声聞は自利にして大慈悲を[]ふ>と釈しています。「声聞」は、師の教えによってさとる人で、仏の教えを直接聞き、四諦[したい](苦諦・集諦・滅諦・道諦)の道理によってさとる人たち、およびその立場を言います。「縁覚」は、理法を体得して自らさとる人で、仏の教えによらず、ひとりで十二因縁の道理を観察してさとる人たち、およびその立場を言います。大乗の立場から言えばこの二種の人たちは、仏教の形式的な面にとらわれすぎたり、私的なさとりに満足し、慈悲による衆生済度を忘れている者≠ニ批判せざるを得ません。

 たとえば、声聞の道は自己一人が救われる道です。師の教えを聞き、欲を離れ執着を断ち、一切のものから自己を解放して独立者となり、真の自由を得るのが声聞の道です。この道の成就のため、まずは常に起こる煩悩を油断なく抑え伏してゆき、次に煩悩の根を断ち切り、最後は煩悩の余習・習気を捨て去ってゆくのです(参照:{百八煩悩})。しかしこの道理によって涅槃に至る道には、煩悩を滅した自分は果たして何者なのか、どう生きるのか≠ニいう足元の問いがなく、さらには人間関係における自分を問題とし、深く人生的に解決する≠ニいう社会性が希薄です。特に現代においては、人間関係や社会環境を無視しては真に問題が解決するはずがありません。

 また縁覚は独覚とも言い、自分の人生だから、自分だけの考えで成就させてやる≠ニ、仏や師の教えに依らず、同朋を遠ざけ、自然の中で因縁を観察して独りさとる者を指します。こうした反骨精神旺盛な行者は、映画やドラマでは絵になる存在≠ニして重宝されるかも知れませんが、実際には大きな欠点があるのです。それは、師から教わらず、同朋との語らいがない者は、歴史の功徳を得ることができないため、極めて初期の段階から歩まねばならず、人生成就に遅れをとってしまうのです。科学にしろスポーツにしろ各種学問でも、どんな分野においても、先人たちの成果を学び指導を受ける利益は莫大なものがあります。自分だけで体得するには百年かかることも、良い師と同朋を得れば一年もかからず達成できることは数多くあります。縁覚・独覚が「大慈悲を[]ふ」ことはこれを見ても解るでしょう。

 このように二乗を並べると、「声聞」は師の教えに真っ直ぐ素直に従ってゆく行者で、「縁覚」は師に逆らい反骨精神旺盛な孤独な行者ということが言えるでしょう。この二乗を批判し本願一乗海を勧める願は、実は{声聞無量の願}(14)に記されています。

たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量[けりょう]ありて、[しも]三千大千世界[さんぜんだいせんせかい]の声聞・縁覚、百千劫[ひゃくせんごう]において、ことごとくともに計校[けきょう]して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。
(現代語版 : わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数を知ることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません)

 ここで注視すべきは、「国中の声聞」と「下、三千大千世界の声聞」は同じなのか違うのか、という問題です。結論を言えば、わざわざ「国中声聞」としてあるのは、「阿弥陀仏の浄土の声聞」と「下、三千大千世界の声聞」は似て非なる[ものがら]であることを示しているのでしょう。つまりこの願においては、師の教えに素直に従ってゆく「声聞」も、師に逆らい反骨精神旺盛な孤独な「縁覚」も、ともに本願一乗海に回入[えにゅう]してほしいと願っているのです。

 ですから浄土経典中に「声聞」と書かれてあっても、それが浄土の中の「声聞」であれば、それは二乗の声聞ではなく、聞法精神を象徴した表現と領解すべきでしょう。浄土の土徳が二乗の者をも本願一乗海に導き育てるのです。この点、島田幸昭師も――

これからさきも、その願によって、呼びかけられる相手の名が、あるいは諸仏とか、衆生とか、菩薩とか、いろいろに変りますが、これは相手の人が変るのでなく、相手の在り方が変るのです。それと同時に呼びかけている法蔵菩薩の立場も変って、その見方が変ってくるのです。たとえば今もありました「声聞」は、聞法者として。「人天」は、その人の果報を現わす場合。「諸仏」は、独立した一人格者として。「衆生」は、道に迷うている場合。「菩薩」は求道者としての場合ですが、それは人間関係において、また社会人としての場合です。また「国中菩薩」は、自己自身の道を内に深め明らかにしようとする場合。「他方菩薩」は、自らの徳を形をとって外に成就しようとする場合と、使い分けています。

と、厳密に分析されてみえます。

 ところで、この二乗の者を本願一乗海に導き育てる′エ点はどこにあるのでしょう。『仏説無量寿経』をつぶさに読み返してみると、それは{法蔵発願 思惟摂取}にあることが解ります。
 これがどういう経緯[いきさつ]かと申しますと――
法蔵菩薩が(一切衆生の)仏国を摂取して、無量の妙土を清浄に荘厳しようとする際、師の世自在王仏に「わがために広く経法を宣べたまへ」と願い出るのですが、師は一旦、「どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう」と断ります。しかし法蔵菩薩はなお、「いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います」と申あげたので、師もその[こころざし][]んで<広く二百一十億の諸仏の刹土[せつど]の天人の善悪、国土の粗妙[そみょう]を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ>のです。
 これは、当たり前のことかも知れませんが法蔵菩薩が声聞や縁覚ではないことを証明しているのであり、なおかつ、仏の本分は、自らの国土を得て清らかにととのえることにあるのであり、そのためには良き師を得て、諸仏の世界を学ぶ必要があることを示しているのです。そしてこの菩薩の精神が回向されて念仏者の精神となり、仏の功徳が回向されて念仏者の身に満ちる、ということが信心獲得[しんじんぎゃくとく]の一念において成就するのです。

 浄土論や論註の問題点

 さて、以上のように領解[りょうげ]がかないますと、どうしても『浄土論』や『往生論註』の問題点が浮き彫りになってきます。たとえば――

あるいは眉を拓くをもつて誚りを致し、あるいは指語によりて譏りを招く。
(意訳:あるいは[まゆ]をひらいて媚態[びたい][てい]すると[そしり]を受ける。あるいは[おし]と生まれても指をもって語るために[そしり]を受ける)
という箇所など、「眉を拓くをもつて誚りを致し」は経意に相応していますが、「指語によりて譏りを招く」は個人的な嫌悪感に過ぎないでしょう(参照:{手話通訳を通じて})。

 また声聞について『論註』では、「声聞」という言葉自体を嫌悪していることが明らかですが、これは「浄土の声聞」と「二乗の声聞」の別をはっきり分けていないせいなのではないでしょうか。
 さらには、「またなんぞ二乗の来生を妨げんや」(またどうして、二乗がよそからくるのを[さまた]げようか、妨げない)とありますが、この理由が正しければ浄土には縁覚も多数居なくてはなりません。声聞は経典に「声聞衆の数、称計すべからず」とありますが、「縁覚衆の数、称計すべからず」という記述はありません。したがって「二乗がよそからくる」という解釈だけでは不充分と言わざるを得ないでしょう{弥陀果徳 聖衆無量 }

 真実は、浄土の土徳が二乗の者をも本願一乗海に導き育てるのですが、縁覚は独覚ですから、浄土に往生すればすぐにその過失を知ることができますので、往生した途端、縁覚は声聞や菩薩に転じられてゆくのです。二乗の声聞については、浄土に往生すればすぐにその過失を知ることができますが、往生した途端、二乗の聞法精神は、浄土の功徳が回向された大乗聞法精神≠ノ転じられますので、同じ「声聞」という名であっても内容が違ってくるのです。

 さらに言えば、浄土の声聞は、浄土の側から見出された声聞であって、衆生はその底深き精神に気付かないことも多いので、奮闘努力による聞法に依るのではなく、浄土から回向された聞法精神ということを念頭に置いて、これを自らの背後において認識していくことが肝心でしょう。

 資料

観察門 器世間「荘厳受用功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【二五】
 大乗善根界 等無譏嫌名
 女人及根欠 二乗種不生

  此四句名荘厳大義門功徳成就門者通大義之門也大義者大乗所以也如人造城得門則入若人得生安楽者是則成就大乗之門也仏本何故興此願見有国土雖有仏如来賢聖等衆由国濁故分一説三或以拓{聴各反}眉致誚或縁指語招譏是故願言使我国土皆是大乗一味平等一味根敗種子畢竟不生女人残欠名字亦断是故言大乗善根界等無譏嫌名女人及根欠二乗種不生問曰案王舎城所説無量寿経法蔵菩薩四十八願中言設我得仏国中声聞有能計量知其数者不取正覚是有声聞一証也又十住毘婆沙中龍樹菩薩造阿弥陀讃云超出三界獄目如蓮花葉声聞衆無量是故稽首礼是有声聞二証也又摩訶衍論中言仏土種種不同或有仏土純是声聞僧或有仏土純是菩薩僧或有仏土菩薩声聞会為僧如阿弥陀安楽国等是也是有声聞三証也諸経中有説安楽国処多言有声聞不言無声聞声聞即是二乗之一論言乃至無二乗名此云何会答曰以理推之安楽浄土不応有二乗何以言之夫有病則有薬理数之常也法花経言釈迦牟尼如来以出五濁世故分一為三浄土既非五濁無三乗明矣法花経道諸声聞是人於何而得解脱但離虚妄名為解脱是人実未得一切解脱以未得無上道故覈推此理阿羅漢既未得一切解脱必応有生此人更不生三界三界外除浄土更無生処是以唯応於浄土生如言声聞者是他方声聞来生仍本名故称為声聞如天帝釈生人中時姓驕尸迦後雖為天主仏欲使人知其由来与帝釈語時猶称驕尸迦其此類也又此論但言二乗種不生謂安楽国不生二乗種子亦何妨二乗来生耶譬如橘栽不生江北河洛菓肆亦見有橘又言鸚鵡不渡壟西趙魏架桁亦有鸚鵡此二物但言其種不渡彼有声聞亦如是作如是解経論則会問曰名以召事有事乃有名安楽国既無二乗女人根欠之事亦何須復言無此三名耶答曰如軟心菩薩不甚勇猛譏言声聞如人諂曲或復&M022472;弱譏言女人又如眼雖明而不識事譏言盲人又如耳雖聴而聴義不解譏言聾人又如舌雖語而訥口&M004271;吃譏言&M022524;人有如是等根雖具足而有譏嫌之名是故須言乃至無名明浄土無如是等与奪之名問曰尋法蔵菩薩本願及龍樹菩薩所讃皆似以彼国声聞衆多為奇此有何義答曰声聞以実際為証計不応更能生仏道根牙而仏以本願不可思議神力摂令生彼必当復以神力生其無上道心譬如鴆鳥入水魚蚌咸死犀牛触之死者皆活如此不応生而生所以可奇然五不思議中仏法最不可思議仏能使声聞復生無上道心真不可思議之至也

[←back] [next→]

[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)