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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 24

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳無諸難[ムショナン]功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【二四】
 永離身心悩 受楽常無間

 この二句は荘厳無諸難功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは朝には袞寵に預びて、夕には斧鉞に惶く。あるいは幼くしては蓬藜に捨てられ、長じては方丈を列ぬ。あるいは鳴笳して出づることをいひ、麻テツして還ることを催す。かくのごとき等の種々の違奪あり。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じて間なからしめん」と。「身悩」とは飢渇・寒熱・殺害等なり。「心悩」とは是非・得失・三毒等なり。このゆゑに「永離身心悩 受楽常無間」といへり。

聖典意訳
 [なが]く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ひま]なし

 この二句を、荘厳[ショウゴン]無諸難[ムショナン]功徳成就[クドクジョウジュ]と名づける。仏は因位[インニ]の時、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは[あした]には天子の寵愛[チョウアイ]を受けながら、夕には刑罰を受けて殺されることにおののく。あるいは幼い時に粗末な所に捨てられたものが、長じて立派な食事をする身分になる。あるいは出る時には[ふえ]を鳴らしてにぎやかに道に出たが、帰る時には肉親をなくして喪服[モフク]を着て帰る。このようにいろいろな心にたがう悲しいことがある。こういうわけで「わが国土は、楽しみが続いてとぎれることがないようにしよう」と願われた。「身の悩み」とは飢渇[キカツ]寒熱[カンネツ]・殺害などである。「心の悩み」とは、是非[ゼヒ]得失[トクシツ]によって起こる三毒[サンドク]煩悩[ボンノウ]などである。こういうわけだから「[なが]く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ひま]なし」といわれたのである。


 器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳無諸難[ムショナン]功徳成就」の詳細を観察します。ここでは極上の快楽を享受し続ける場として浄土の徳をいただき、往生を願う心行をより一層確実なものにしていきます。

 快楽追求の本心を裏切る心

 永離身心悩 受楽常無間
 この二句は荘厳無諸難功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは朝には袞寵に預びて、夕には斧鉞に惶く。あるいは幼くしては蓬藜に捨てられ、長じては方丈を列ぬ。あるいは鳴笳して出づることをいひ、麻テツして還ることを催す。かくのごとき等の種々の違奪あり。

▼意訳(意訳聖典より)
 [なが]く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ひま]なし
 この二句を、荘厳[ショウゴン]無諸難[ムショナン]功徳成就[クドクジョウジュ]と名づける。仏は因位[インニ]の時、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは[あした]には天子の寵愛[チョウアイ]を受けながら、夕には刑罰を受けて殺されることにおののく。あるいは幼い時に粗末な所に捨てられたものが、長じて立派な食事をする身分になる。あるいは出る時には[ふえ]を鳴らしてにぎやかに道に出たが、帰る時には肉親をなくして喪服[モフク]を着て帰る。このようにいろいろな心にたがう悲しいことがある。

 人間、誰しも望むことが<[なが]く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ひま]なし>という願偈にあることに違いありません。身も心もずっと悩みがなく、一生楽しむことばかりが続いてほしい=Aこれが人間の本心の中の本心でしょう。
 しかし多くの場合こうした本心を言動に表すと、「わがままだ」「あつかましい」などと他人から釘を刺されてしまいます。そして他人からの介入が頻繁になると本心を心の底にとどめるようになってしまい、本心と違うことを言ったり行ったりするようにさえなります。すると次第に本心が抑圧され、他人の欲望や都合に翻弄[ホンロウ]せて行動する、いわゆる飼いならされた状態≠ノなってしまいます。これを仏教では「畜生」と呼び、三悪道のひとつに数えています(参照:{無三悪趣の願})。こうした場合は本当は、身も心もずっと悩みがなく、一生楽しむことばかりが続いてほしいのだ≠ニ大声で叫んだ方が良いのです。
 もちろんこれには「快楽追求ばかりでは人間が堕落してしまう」、「艱難辛苦[カンナンシンク]あればこそ得るものがある」等の反論もあるでしょう。しかしそのような副作用を克服して後顧の憂いもなく、人生一切の内容を網羅した上で真の快楽を求めてゆく、そうした極上の快楽を享受し続けたい≠ニの願いには確固たる本心の裏づけがあります。
 経典にも――

 舎利弗、かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。

『仏説阿弥陀経』3

▼意訳(現代語版より)
 舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、極楽というのである。
とあり、阿弥陀仏の浄土は人々が本心より楽しみ望む国土であることを示しています。

 しかしこうした本心一途な願いを無視し、身心の悩みを[]め込み、屈折[クッセツ]したコンプレックスや[うら][つら]みに[しば]られている人たちが世の中にはたくさんいます。快楽を得られないせいで多くの者は恨み辛みを持て余してしまうのです。さらにはこのような復讐心[フクシュウシン]を下地として臥薪嘗胆[ガシンショウタン]で頑張っている人たちも多くいます。ところがこうした頑張りには無理があり、心の底から歓喜に[]くことがありませんので、時として他人の成功や歓喜する姿に嫉妬[シット]難癖[ナンクセ]をつけ、他人の不幸を喜ぶようにさえなってしまいがちです。この方向性でいくら努力しても、身心の安穏[アンノン]は得られません。成功者の足を引っ張ったり他人を見返すために励んでも、人生の楽しみは次々と去ってゆくのみです。そしてこの延長線上にある最悪のものが殺人や戦争なのです。
 このようにみずから楽しみを拒否し、快楽を否定的にとらえている人は結構大勢いるのですが、これは一つには、世の中は悲劇的なことが多いので快楽を期待しながら何度も裏切られてしまい、かえって悩みを深くする経験が重なってしまったせいでありましょう。またさらには、最初から快楽を否定的にとらえ、快楽そのものを罪悪視する教えや宗教が世に蔓延[マンエン]しているせいでもあります。

 後者のようなネガティブな世界観は全く無意味ですから今すぐ捨ててしまえば良いのですが、問題は、いつの間にか快楽を追求することに臆病[オクビョウ]になってしまった人たちです。『往生論註』のこの部分では、人生の紆余曲折[ウヨキョクセツ]翻弄[ホンロウ]され、激しい痛みや苦しみ、悩みに襲われ<種々の違奪[イダツ]>がある、違奪とは「心にたがう、ちぐはぐな行き違い」ですから、様々な行き違いによって本心が貫けないことを言います。

 究極の快楽を得る

このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じて間なからしめん」と。「身悩」とは飢渇・寒熱・殺害等なり。「心悩」とは是非・得失・三毒等なり。このゆゑに「永離身心悩 受楽常無間」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで「わが国土は、楽しみが続いてとぎれることがないようにしよう」と願われた。「身の悩み」とは飢渇[キカツ]寒熱[カンネツ]・殺害などである。「心の悩み」とは、是非[ゼヒ]得失[トクシツ]によって起こる三毒[サンドク]煩悩[ボンノウ]などである。こういうわけだから「[なが]く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ひま]なし」といわれたのである。

 一般的には「快楽=煩悩」と理解されているようですが、これは世捨て人に合わせた特殊な理解であり、去勢された教えであり、生きる力とならない、毒され偏った見方であります。仏教では、身心を悩まし[わずら]わせ惑わし、さとりの実現をさまたげるあらゆる精神作用を「煩悩[ボンノウ]」とよびます。つまり煩悩は、みずから自分自身を裏切るものの総称でありますから、本当は快楽追求の本心を裏切る心こそが煩悩なのです。そして仏教徒は絶えずこれに打ち克つ努力を尊び、また煩悩を菩提心[ボダイシン]に転じて徳となす智慧を重んじてきました(参照:{百八煩悩})。
 ちなみに菩提心とは、「入真[ニュウシン]正要[ショウヨウ]とす、真心[シンシン]を根本とす、邪雑[ジャゾウ][シャク]とす、疑情[ギジョウ][シツ]とするなり」(真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、まことの心を根本とする。よこしまで不純なことを誤りとし、疑いをあやまちとするのである)という卒業のない求道心であり、これは「願作仏心[ガンサブッシン]」(仏になろうと願う心)であると同時に「度衆生心[ドシュジョウシン]」(衆生に願作仏心を起こさしめる心)でもあるのです。(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}
 これを現代に即して言うならば、菩提心とは、明確な意志と、正しい世界観と、真の依りどころを持つこと≠ノ尽きるでしょう。ちなみに今『往生論註』観察門を解釈しているのは、正しい世界観を得るために行っているのです。
 しかしこうした智慧や菩提心は、自分だけの頑張りで成就するものではありません。歴史と環境の後押しがあってはじめて「無諸難[ムショナン]」の徳が全ての衆生において成就するのです。

 ところが前節の通り「心にたがう、ちぐはぐな行き違い」によって快楽追求の本心を裏切る煩悩が世にはびこっています。<このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じて間なからしめん」>ということですが、『仏説無量寿経』における直接の願文は{常受快楽の願}に当たります。

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。

▼意訳(現代語版より)
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ち切った修行僧と同じようでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 先ほども申しましたように、人間としての真の生き甲斐[がい]は快楽を得ることにあります。快楽の無い人生は何と虚しいことでしょう。苦痛ばかりの人生では生まれてきたことさえ恨みに思ってしまいます。鳩摩羅什[クマラジュウ]が阿弥陀仏の浄土「安楽国[アンラクコク]」を「極楽[ゴクラク]」とまで意訳した本意もここにあるでしょう。ニーチェは「人間は楽しむことがあまりに少なかった」、そのことを「原罪」と告発しています。また『讃仏偈』においても、浄土に到る者は「快楽安穏[ケラクアンノン]」ならんと願われています。
 ただし、蜜を塗った刀をなめれば舌を切るように、「楽」と思って近づくとかえって「苦」を受けることがあります。鉄眼道光は――「まどへる人の楽と思ふは、苦をもって、楽と思へるなり」(鉄眼仮名法語)と諭しています。またフランスの作家アンドレ・ジイドは――「快楽を得ようと努力するのではなく、努力そのもののうちに快楽を見出すこと」と格言を残し、さらに小泉吉宏さんは「幸せを めざすのなら その道のりも 幸せで いたいよね」(ブタのいどころ)と重要な提言をされています。
 先にも申しましたが、臥薪嘗胆[ガシンショウタン]は決して幸福な日々ではありません。また「目的のためには手段を選ばない」式の努力や、努力の内容が苦痛ばかりで満ちていたのでは、目的にたどり着くまでの大半の人生が不本意な内容になってしまいますし、もし目的にたどりつくことができなければ、その人生は苦痛を受けるだけの虚しい人生になってしまいます。偈に「楽しみを受くること常に[ひま]なし」とあるのは、そうした問題点が留意されていたからでしょう。艱難辛苦[カンナンシンク]と映る努力そのものも快楽であり、同時に苦悩の副作用から離れなければなりません。
 では、経や偈に表された煩悩を離れた真実の快楽≠ヘどこにあるのでしょう。曇鸞大師は「楽に三種あり」と分析されています。

楽に三種あり。一には外楽、いはく五識所生の楽なり。二には内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三には法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏(阿弥陀仏)の功徳を愛するより起れり。

『往生論註』114(巻下 解義分 願事成就章)より

楽に三つの種類がある。
一つには外楽、これは眼・耳・鼻・舌・身の五識によっておこる楽しみである。
二つには内楽、これは初禅天・二禅天・三禅天の禅定の意識でおこす楽しみである。
三つには法楽楽、すなわち仏法の楽しみ、これは智慧によって生ずる楽しみである。この智慧によっておこる楽しみは、阿弥陀仏の功徳を愛楽するよりおこるのである。

外楽[ゲラク]」は、欲望を外側から充足させる楽しみです。具体的には、五官を楽しませ、贅沢[ゼイタク]をし、異性と交わり、名誉や権力を得る等の楽しみです。これは欲界・凡夫の楽しみで、楽と苦が表裏一体になっている楽しみですから本当の快楽とは言えません。外楽は、得ることが適わなければ苦を生じ、得れば得たでまた苦を生じます。例えば、贅沢はしたくても出来ない場合があり、もし贅沢できても精神が堕落し、他人からは嫉妬され、対立を呼び、没落の懸念も消えません。まして来るべき死という壁に直面すれば贅沢は意味を失います。他の外楽も同様でしょう。
 世間一般では外楽のみが快楽≠ニ誤解していますので、先に「人間としての真の生き甲斐は快楽を得ることにあります」と読んだ人の多くは違和感を感じたことでしょう。確かに五官の快楽ばかり追求していれば、快楽以上の虚無感や苦悩が生じ、人生は崩壊してしまいますので「楽しみを受くること常に[ひま]なし」という願いは成就しません。

内楽[ナイラク]」は、内面世界や精神世界における楽しみです。外楽が外側から快楽を充足させるのに対し、内楽は内側から快楽を充足させていく楽しみで、具体的には芸術活動や瞑想等による楽しみを言います。<初禅[ショゼン]・二禅・三禅の意識所生[イシキショショウ]の楽>は色界の天人の楽しみで、欲界の楽しみに比べるといくらか清らかですし、世間を知り仏となるためには一度は通る道でしょう。ただ内楽は重要な快楽であるとは言えますが、まだ不純で副作用も残っていますので、本当に末通[すえとお]った快楽とは言えません。芸術活動の多くは歓喜と同時に苦悩に満ちたものであり、瞑想も現実に打って出る境地を持ちえていませんので「空生巌畔、花狼藉」(参照:{「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味ですか?})との批判があります。それにこの境涯は流転の可能性が高く、天人から堕ちる時の苦しみは地獄の苦しみより激しいのです。
(参照:{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」}

法楽楽[ホウガクラク]」は求道の楽しみで、これこそが末通った真の快楽です。菩提心[ボダイシン]が生ずれば、出遭う人たち、見聞きするもの、降りかかってくる災難や迫り来る死でさえ、あらゆる物事を自分の人生成就のための宝として生かすことができます。私たちは無常なる生命を覚るがゆえに「今」を永遠に活かし切ることができるのであり、価値観が異なったり憎むべき相手と出会うがゆえに自分の殻を破って一切衆生と関わることができるのです。浄土観察による功徳はこうした宝を発見することでありますが、宝が尊いと同時に、宝を見つける心の眼を開くことが尊いのです。こうした「打出[ウチデ]小槌[コヅチ]」の如き法楽楽を得た境地は流転することがありませんから真の不退転であります。また副作用もありませんので「法楽楽」の楽は苦を含まない、丸ごとの快楽なのです。島田幸昭師は、<世にこの求道の楽しみ、人間成就という自己の花を咲かす楽しみに勝る楽しみは、外にはないでしょう>と仰いました。
(参照:{荘厳触功徳成就}

 ところで、以上の「外楽」「内楽」「法楽楽」はどういう関係にあるのでしょう。一般的には三種の楽は独立している、もしくは互いに反発しているものとして理解されがちでした。つまり、「外楽が多すぎると自分で内楽を発生させる力が弱まる」とし、また「外楽や内楽が多すぎるとそれで満足してしまい法楽楽に目が向かない」という理解です。
 これには一理あり、「世俗的快楽と宗教的法楽楽は両立しない」と断じ「外楽や内楽などは捨てよ」と[しか]る僧侶も多いのです。 親鸞聖人が比叡山で命がけの修行をされたのも、「外楽」「内楽」を極限まで削ぎ落として道心を極める目的があったからです。仏教以外にも、世俗的快楽を罪悪視し、永遠の宗教的快楽と比較して断罪する宗教も多くあります。
 しかしたとえば『明恵上人遺訓』(意訳)には――「風流の道を好む人びとの中から、立派な仏教者が出てくることは、昔も今も変らない。詩を作り、歌をたしなむこと自体は、仏の本旨ではないけれども、このような文芸の道に心ひかれる人は、やがて仏教も好きになり、智慧を具えた者となるから、かれの優しい心遣いも気品にあふれたものとなる」とあります。
 さらに、浄土の功徳を生活に現れた土徳として披露している「解義分」に聞きますと――

 荘厳無諸難功徳成就とは、偈に「永離身心悩 受楽常無間」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。経にのたまはく、「身を苦器となし、心を悩端となす」と。しかるにかしこに身あり心ありて、楽を受くること間なし。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』77(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典より)
 荘厳[ショウゴン]無諸難[ムショナン]功徳成就[クドクジョウジュ]とは、[]に「永く身心の悩みを離れて 楽しみを受くることは常に[ひま]なし」と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかというと、経(《法句譬喩経[ホックヒユキョウ]》・《出曜経[シュツヨウキョウ]》などの意)に「身は苦しみの器であり、心は悩みを受ける本である」と説かれている。しかるに浄土の人人は身があり心があるけれども、楽しみを受けることが絶え間ない。どうして思いはかることができようか。
と、驚くべきことが書いてあります。

 浄土における「法楽楽」は、「外楽」や「内楽」と別でありながら、同時に「外楽」や「内楽」の快楽を真に生かし切り、しかもそれらの短所を除く作用も持つというのです。
<しかるにかしこに身あり心ありて、楽を受くること間なし>(浄土の人人は身があり心があるけれども、楽しみを受けることが絶え間ない)とありますが、これは身心は「外楽」「内楽」の両作用(快楽と苦悩)を受ける器なので、本来は身心を離れなければ苦悩も離れないのですが、阿弥陀仏の浄土では、「外楽」や「内楽」を受ける身心(総じて言えば日常生活)がありながら、なおかつ法楽楽を受けることが絶え間なく、苦悩を生じることが無いのです。つまり、人びとは生きて煩悩を受ける身心を持ちながら、浄土往生を願う身となれば、「外楽」「内楽」の副作用的苦悩は去って快楽のみが生じる。そのため「法楽楽」はもちろん、「外楽」も「内楽」も全て丸々活かされる上に欠点が除かれてしまう。これが浄土の土徳であり、法楽楽の功徳が成就した「荘厳無諸難[ムショナン]功徳成就」の具体的なありさまなのです。

 これは一つには、如来回向の信心が功徳を発揮し、執着と無明が破れることで「外楽」や「内楽」の欠点が克服されるためであり、さらには、本願力に乗じれば一切の煩悩も菩提心に転じ、みな「法楽楽」の味わいになるためなのです。もちろん、この世に生きて生活する限り苦悩は尽きないものですが、念仏者は娑婆と浄土の両土に足をつけることが適い、入出無碍[ニュウシュツムゲ]の門を見出していますので、苦悩の中でこそ極楽を見出し、極楽においてこそ苦悩の現場に生きる智慧と快楽を見出してゆけるのです。

 資料

観察門 器世間「荘厳受用功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【二四】
 永離身心悩 受楽常無間
  此二句名荘厳無諸難功徳成就仏本何故興此願見有国土或朝預袞寵夕惶斧鉞或幼捨蓬藜長列方丈或鳴笳道出麻歴経催還有如是等種種違奪是故願言使我国土安楽相続畢竟無間身悩者飢渇寒熱殺害等也心悩者是非得失三毒等也是故言永離身心悩受楽常無間

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