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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』15

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 道樹楽音荘厳

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また、無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。条のあひだに周匝して、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず。微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍す。その音を聞くものは、深法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至第六天上の伎楽の音声、展転してあひ勝れたること、千億万倍なり。第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。清揚哀亮にして微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また、無量寿仏の国の菩提樹[ぼだいじゅ]は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]持海輪宝[じかいりんぽう]で飾られている。枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが[]れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。
 そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
 阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]柔順忍[にゅうじゅんにん]無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]明了願[みょうりょうがん]堅固願[けんごがん]究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである」
 続けて釈尊が阿難に仰せになる。
「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王[てんりんじょうおう]の聞く音楽から他化自在天[たけじざいてん]までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹[ほうじゅ]から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。それは清く[]えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。


 浄土の道場樹の詳細

註釈版
 また、無量寿仏のその道場樹[どうじょうじゅ]は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。条のあひだに周匝して、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず。
現代語版
 また、無量寿仏の国の菩提樹[ぼだいじゅ]は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]持海輪宝[じかいりんぽう]で飾られている。枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが[]れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。

 前章は宝樹荘厳について、人と人が真心で触れ合って、個性と個性が映えあい、また対立が生まれながらも浄土の土徳によって協和に転じてゆく≠ニいう功徳を学びましたが、この道樹楽音荘厳では、自分自身の修行が法蔵菩薩の修行回向によって成就する≠ニいう内容を学びます。
 まずはこの数行の中に数多くの謎が隠されていますので、箇条書きにして一つづつひも解いていきたいと思います。

 これらのことを問題として読み解いてゆくのですが、以前は数字の謎まで解いた人は皆無に近く、それどころか解いてみよう≠ニいう問題意識さえ無い人がほとんどでした。しかし近年は 島田幸昭師をはじめとして、経典の謎を解く先生も現れ、いよいよ現代は『仏説無量寿経』の真意が読み解かれる時代に入った言えるでしょう。
 ではまず、親鸞聖人の和讃で、七宝講堂道場樹は「方便化身の浄土なり」とあること≠ノついて――

 「七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり」こういうふうにありますが、二十八の願も、これは方便の願だと、こう親鸞聖人がいっておいでるのであります。
 ところが、その方便ということが、どういう意味なのか。この方便という言葉がどうも私は親鸞聖人が使っておいでる方便という言葉と、今日の学者の使っておる言葉がどうも私は、ずれがあるように思うのであります。
 例えば、方便いうこともいろんな意味があります。「嘘も方便」とこういうものもありますし、また今度、真実を知らせる、本当のものを知らせる手がかりとしての方便、こういうものもあります。いろんな意味に使われておりますが。この親鸞聖人では、方便というものは、真実を目指すもの、そういう意味で使っておいでるのだと思うのであります。

『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

「道場樹」はその名の通り修行の場所≠象徴していますので、浄土に道場樹があるのは必須のことでしょう。ただし浄土の修行は、仏でない者が仏に成る修行をするのではありません。仏が仏としての修行をする場であります。仏だからこそ真の仏と成るために菩薩の修行をする。阿弥陀仏も、菩薩が修行をして仏に成ったのではありません。親鸞聖人が見抜かれた通り、阿弥陀仏が真の阿弥陀仏と成るために法蔵となり、誓願を建て、菩薩の修行を重ねて成就した≠フです。するとこの「真実を目指すもの」として、道場樹の高さが四百万里であるとはどういう内容なのでしょう。
 まずは因位において建てられた{道場樹の願}を見てみます。

浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩で、たとえ功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝き、四百万里の高さであることを知ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

「知見する」内容というのは、<自己の置かれた場所が、いつでもそこが修行の道場であったとさとること>と師は仰いましたが、これこそ浄土の本質を良く言い表しています。
 浄土は彼方にあるのではなく常に足元にあり、人生の本質を顕現せしめ、煩悩具足の私に菩提心を起こさしめ、性根の無い自分の性根となり、未熟な自分を成熟せしめてゆくのです。それと同時に、自分とは何者か、自分を育ててくれた歴史や文明の尊さ、社会や家族や血に込められた純粋本能の尊さ、生命の尊さを知らしめるのも浄土のはたらきです。

<高さ四百万里>
「四」は、浄土の四つの徳(常・楽・我・浄)を象徴しています。
「常」とは、外道や声聞・縁覚の無常を越えた如来常住の報身(行為的世界の根本主体)が回施されることであり、「楽」とは、外道の苦を捨て正定聚に住するがゆえに必ず滅土に至る≠ニ、生きて甲斐あり死んで悔いの残らぬ人生が回施されることであり、「我」とは、欲望や生死に迷う穢悪の我を捨てて真の主体を立ち上げることが回施されるということであり、「浄」とは、娑婆の苦を捨てて仏菩薩の正法に帰依するということです。(参照:{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを「#常楽我浄の四顛倒 」})。
 このように、大乗経典で「四」という数字があって別段の注釈がなければそれは覚り≠竍浄土の四徳≠象徴していると見て間違いないでしょう。後の章(第21章)には浄土の華の上を歩む場面が出てきますが、「足その上を履むに、陥み下ること四寸」とある四寸も浄土の四徳を表しています。
 ちなみに梵語経典の願文には<高さが千六百ヨージャナある彩りすぐれた菩提樹>とありますがこれは4×4=16で、浄土の四徳が重々無尽となっていることを象徴しているのでしょう。

<その本の周囲五十由旬[ゆじゅん]なり>
「五」は五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)で、覚りの「四」とは逆に迷いの世界≠象徴します。ちなみに「六」も六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)迷いの世界を象徴します。
{法蔵発願 思惟摂取}には、「五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」とありますが、これは五悪趣を超えたところに本願を見つけた≠アとをあらわしています。
 すると、浄土の菩提樹の根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]である、ということは何を象徴しているのでしょう。
〈淤泥華〉とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆して、つねに絶えざらしむと。
『往生論註』93

淤泥華[おでいけ]」とは、経《維摩経》に「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれている。これは、この土の凡夫が煩悩の泥の中にあって、浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのである。まことに仏法僧の三宝を十方世界にひろめて、つねに絶えないようにするのである。

(聖典意訳)


 このように、浄土の蓮華が菩薩の場所的自覚を象徴しているのと同様、道場樹も「この迷いの世界を踏まえて、根を張って、そこからさとりの世界に届いておる」ことを示しています。

<枝葉四に布けること二十万里なり>
(枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている)
「二十」という数字が出てきましたが、4×5=20という簡単な掛け算に気づいた人は過去何人いたのでしょうか。二十は「煩悩即菩提[ぼんのうそくぼだい]」であり「穢土即浄土[えどそくじょうど]」ということを表しています。
 浄土の四徳と五悪趣は、内容には十万億刹土の隔たりがありますが、相対[あいたい]せば互いに照らし合って相手を明らかにします。善と悪もそう、白と黒もそうでしょう。悪がないまま独立して善が存在することはないし、黒がなく白だけが存在する世界はあり得ません。黒と白が相照らしあうことによって、黒も白も相手を明らかにしつつ、自らの存在を明らかにするのです。
 浄土の四徳と五悪趣も、独立して存在するのではありません。互いに相手を明らかにすると同時に、それによって[かえ]って自らを現わすという関係にあるのです。矛盾したまま一体となっているのが真実であり、どちらか一方だけ存在しているという見方は真実ではありません。全ての存在や行為は矛盾的であることに気づかねば、自らの尾を追う犬のように無駄に疲れてしまいます。浄土と穢土が矛盾しながら一体となった場が修行の場、これを「二十万里の枝葉」と表しているのでしょう。

 それゆえ私たちは、浄土と穢土[えど]の両土に足をつけ、穢土を穢土と照らして浄土があり、浄土を浄土と知らしめて穢土があることを覚るのです。穢土において苦悩すれば無明・我執の[とが]を照らす浄土がはたらき、浄土の快楽安穏[けらくあんのん]の荘厳を喜べば浄土建立のきっかけが穢土の苦悩にあることが骨身にしみて解るのです。またこの浄土と穢土の入出無礙[にゅうしゅつむげ]の門を見つけることが信心の要めなのです

 この他にも、数字の謎を読み解けば経典の内容がよりはっきり解る箇所は多く存在します。
 たとえば先にも挙げました{法蔵発願 思惟摂取}で、世自在王仏が法蔵菩薩に「広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて」とある二百一十億ですが、これは迷いの六道を基底に蓮華こづみにして六段階重ねた総数(6+5+4+3+2+1)であり、「この世の在り方が重々無尽に交錯していることを表している」と解釈できます。
 また『観無量寿経』には「菩薩三万二千ありき」と説いてありますが、島田幸昭師はこれを浄土の四徳と八正道(4×8=32)の重なりと読み、王舎城[おうしゃじょう]耆闍崛山[ぎしゃくつせん]に参集した菩薩は往相の菩薩ではなく、既に覚った仏のままで菩薩の修行をする還相の菩薩であることを明らかにしています。
 また同経典で「仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり」とありますが、これは「分限をあかせる真実の身にあらざる義」などではなく、「三界は我が有なり」という仏の本質として読み解くことができます。つまり六十万億は、人間の頭数の十万億と六道を掛けたもので、迷いの世界全体を阿弥陀の国と定めた数になります。あらゆる仏は、もともと自分の国を持っていません。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏土(浄土)を造るのです。阿弥陀仏は「衆生のあるところ至らざるところなし」で、一切衆生の国土を自らの国土と抱き取った存在です。一切衆生を我が子・我が国民と抱き摂って、摂取した国土を浄め、各種仏宝によって荘厳し成就させ浄土につくりかえる、この活動の継続こそが阿弥陀仏の存在意義なのです。

<一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり>
(それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]持海輪宝[じかいりんぽう]で飾られている)
 月光摩尼の摩尼は如意宝珠[にょいほうしゅ]で、心の如く、心のままに宝を生み出す宝玉です。これを読まれた方の中にはそんな迷信じみた玉など現実には存在しない≠ニ反論する人もいるかも知れませんが、仏教はこうした迷信じみた話さえ換骨奪胎[かんこつだったい]して利用し、迷信性を排除しつつ正信の[たと]えとすることがよくあるのです。
心の如く、心のままに宝を生み出す=Aその宝は総じて言えば仏法僧の三宝です。三宝を敬うところに人生のあらゆる宝が生み出されてきます。また三宝は、あらゆるものを宝にする宝であり、順境も逆境もどんな苦難も人生成就の宝に転じます。
 では「月光」とは何でしょう。月はよく覚りに[たと]えられますが、これは月の光は太陽の光と違い高い精神性を感じせしめるもので、常に孤独を写し出す厳しく冷たい光だからです。ただし、月が太陽よりも高い精神性を持っている≠ニ言っているのではありません。求道の過程で月を見ることによって、人間の側が高い精神性を感じるのです。

  今までの宗教は全部、大日如来とかあるいは天照大神というような、そういう光明主義というのは大抵温かい、そういう太陽のようなどんなものをもみんな安らわしてくれる。帯ひも解いてくつろぐことができる。そういうものが、大体宗教だと思うておったのです。
 ところが、仏教は違うの。例えば九条武子さんみたいに「何事も人間の子の迷いかや、月は冷たき久遠の光」というておりますが、本当の宗教というものは、我々を絶対抱いてくれんもの。そういう「一人だぞ」「人間は一人だぞ」と。お月さまの光というものはなんぼすがっていこうと思うても、太陽のように抱いてくれんの。人生は独りぼっちということで突き放すの。それならば、突き放すという、ただ残酷なのか。「何事も人間の子の迷いかや、月は冷たき久遠の光」というが、本当に冷たいのかというと、そうでないのです。突き放すと同時に、その突き放した孤独の中に立たせて、そこから抱き取ってくれるの。

『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 なれなれしい♀ヨ係も、個々の孤独を無視して触れ合っていると、突然、相手の存在が重く鬱陶[うっとう]しくなることがあります。仲違いも大半こうした無遠慮な触れあいによる嫌悪感が原因でしょう。[]れ合いの関係は仏法の本意ではありません。相手に直接触れるのではなく、孤高の関係の中で相手を認め、普遍の法によって平等の救いがもたらされるのです。この譬えとして月光が用いられたのでしょう。このように仏法には、個と個が尊厳を保ちつつ触れあう厳しさがあります。

 持海輪宝もやはり摩尼(如意宝珠)であり、海のように偉大な徳を有する宝玉であり、衆宝の王とも言われています。大海の水を保ち支えるところから持海の名があり、生命の育みに順じて地や人を[うるお]す。そして<衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり>ですから、このようなはたらきをもって道場樹を荘厳しているのです。

 以上を総合的に言えば、道場樹は「浄土の修行」を象徴し、仏だからこそ真の仏と成るために菩薩の修行をする≠ニいう、欲を脱した「願いの修行」なのですが、これは自堕落な馴れ合いの関係からは生まれません。互いの尊厳を認めつつ普遍の法によって平等の救いがもたらされるもので、これは海のように偉大な徳を有し、生命の育みに順じて地や人を[うるお]してゆくのです。

<条のあひだに周匝して、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず>
(枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが[]れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである)
 宝網については{荘厳虚空功徳成就}に詳説しましたので参照していただきたいのですが、簡単にまとめてみますと――
「羅網」は、諸仏・諸菩薩や有縁の人々が大悲護念のまごころによって自分を見守っていて下さることを象徴しています。また大悲護念はただ見守るだけではなく映えあって互いを認め褒めあう、これが空中にひろがる飾りあみ≠ノよって表現されています。
 また、宝玉の飾りの色が数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている≠アれは何故かというと、苦悩に千差万別あるがゆえで、これによって浄土の<百千万色にして種々に異変す>という荘厳があるのです。穢土[えど]の苦悩を苦悩と映して浄土があり、浄土の楽を楽と映して穢土があります。苦難の現実と安穏の浄土は真反対の内容でありながら、互いに内包し、互いを映し出しています。ですから、現実に起こる苦難のどの一つをとってもそこに浄土が映し出され、浄土のはたらきである功徳のどの一つをとってみてもそこには現実の苦悩が映し出されているのです。
 これによって私たちは、娑婆[しゃば]の苦を苦悩としてのみ味わうのではなく、私の苦悩の中において衆生一切が苦悩を乗り越えてきた歴史的修行≠味わうことになり、ここにおいて諸仏の智慧が私に回施され、諸仏の徳のはたらきを我が生きる力とする術を得ることになるのです。

 三法忍を得て不退転に住す

註釈版
微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍す。その音を聞くものは、深法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。

現代語版
 そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
 阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]柔順忍[にゅうじゅんにん]無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]明了願[みょうりょうがん]堅固願[けんごがん]究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである」

<微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す>
(そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる)
「微風」は
{「極楽の余り風」の本当の意味}にも書きましたが、気象の風ではなく人生に吹く風です。また人生に吹く風はそよ風ばかりではなく、熱風も寒風・暴風もあるでしょう。ところが浄土では「地獄の猛火風と変じて涼し」で、恐ろしい人生顛倒[てんとう]の熱風・寒風・暴風が涼風に転じられていきます。なぜなら浄土は真実願土であり真実報土でありますから、あらゆる苦難が真実人生成就の大切な縁に転じられてゆくのです。
「枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる」というのは、仏教は論理の積み重ねで成り立っているのではない、ということを言います。苦悩の現実を歩む中で教えが語られているのです。「無量の妙法の音声」は名号・念仏の徳によることは言うまでもありませんが、ただ南無阿弥陀仏という六字だけではなく、南無阿弥陀仏の内容が様々な言葉や行動を生み出して教えとなることを言います。

<その声流布して諸仏の国に遍す>
(その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる)
 阿弥陀仏は一切諸仏・諸菩薩を生み出す根本主体でありますから、阿弥陀仏が永劫の修行をしたことが展開して一切諸仏の国に遍満[へんまん]することは当然のことです。
 しかしこれを私の側から申しますと、私は自らの国を成就する修行≠ノ勤めている、この過程一々において、私が直面する苦難は古今東西誰も遭遇したことのない苦難であります。しかも自分自身で乗り越えることが不可能な苦難ばかりが襲い掛かってきます。
 そこで阿弥陀仏の修行は諸仏の修行に超えて浄土の四徳をあらわし、なおかつ現実の五悪趣の真っ只中で修行をしてこれを成就する。この阿弥陀仏の修行の成果が全て私一人に回向されてくる。もちろん功徳は一切衆生に回施されるのですが、私はその中の一部を得るのではありません。一切衆生ひとり一人に阿弥陀仏の功徳全てが回施されるのです。こうした仏の一切の徳を宿した内容が「名号」なのでありますが、受領[じゅりょう]する衆生の側から言えば「念仏」となります。名号と念仏は本質は同じですが、仏と衆生の立場の違いから言葉を変えるのです。

<その音を聞くものは、深法忍[じんぽうにん]を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり>
(その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
 阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]柔順忍[にゅうじゅんにん]無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。)
 要約すれば、浄土の道場樹より発せられた念仏は、念仏者に「深法忍[じんぽうにん]を得て不退転に住す」功徳を与え、六根清浄[ろっこんしょうじょう]をかなえて、やがて仏道を完全に成就せしめてゆく≠ニいうのですが、まずは一つひとつ言葉の解釈をします。
 深法忍[じんぽうにん]は、三法忍(音響忍[おんこうにん]柔順忍[にゅうじゅんにん]無生法忍[むしょうぽうにん])を代表してた無生法忍と解釈されています。四十八願で言えば、{得三法忍の願}の成就であります。
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「忍」は智慧とほぼ同じ内容ですが、経験智とか体験智という実生活に即した内容となっています。私たちは日々人生を積み重ねつつ今を生きるのですが、この人生は限りない宝を宿すがゆえに、限りなくその宝を尋ねてゆくことになります。
「智」は「あれはあれ、これはこれと分別すること、また決断に名づく」ですから、青蓮華のように分明で物事の千差万別を見分けることができ、また善悪を決して行動することをかなえます。
「慧」は、「空、無我に名づく、不動に名づく」と解説されていますから、「智」に先立ち、先入観や我執を離れ、なおかつ衆生の本心や真心を見ることができ、甘言や脅しに崩されず、腹が据わって困難に耐えてゆくことをかなえます。
「忍」は「推求に名づく」ですから、先の「智慧」が体験智となり、自分の生き方はこれで良いのだろうか≠ニ、常に問いを持って人生を歩むことを言います。問いを持つことは、迷いの人生から抜け出す第一歩であり、人生成就の要めであります。仏道は問いに始まり問いに終わる。問いを無くした仏道はもはや仏道ではありません。ジャン・エラクル師は「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」(十字架から芬陀利華へ)と仰いましたが、人の究極的真実への真摯な求道≠ヘ必然的に真心の問いを生むことになり、真心の問いがあるからこそ覚りに至る門も開かれるのです。

音響忍[おんこうにん]」は、音と響きを聞き分けてその矛盾と同一を知ること、と言われています。たとえば「諸行は無常である」と聞いて肯く、しかしそう私に肯かせたのは無常ならざる世界からの呼びさましです。穢土を穢土と知らしめて浄土があり、浄土を浄土と願わしめて穢土があります。先に申しました「浄土の四つの徳」は全て矛盾と同一の両面がある内容ですし、人生に関する課題は全てこの矛盾と同一を含んだ内容です。
 身近な例で言えば、「これは問題だ」と指摘される事があった時、つい問題を指摘されること自体を無くすことを考えがちですが、道場樹の念仏は問題があるから良いのだ=A問題を指摘されることが良いのだ≠ニ私を導きます。
 また自分自身を「罪悪深重[ざいあくじんじゅう]煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生」と内省し懺悔する、しかしこのことによって自分に絶望するのではなく、むしろこれが「一切衆生悉有仏性[いっさいしゅじょうしつうぶっしょう]」の歴史を自らの身心で証明していることになる。懺悔せしめるはたらきが自分のバックボーンとして身に満ちていることを証明するのです。
 さらには、音としての言葉や意識の奥に、響きとして言葉や意識を超えた内容が受け取れるのも音響忍のはたらきでしょう。これによって、個々の人間の存在や言動の奥に、その人間や言動を成り立たせている無限の歴史や環境が解るのです。

柔順忍[にゅうじゅんにん]」は、物事や人生の流れに身も心も柔らかく順じてゆく智慧のことです。先の「音響忍」で心が静まり、宿業と浄土の矛盾と同一が見えることによって日常生活や行動が素直になるのです。[かたく]なに自説に執着し、様々な苦難から逃避し宿命に反抗ばかりしていた私が、受けねばならぬ宿命は引き受けてゆこう≠ニ現実に根を張り、結果を柔らかく受け入れて苦難を乗り越えてゆく、こうした智慧を柔順忍といいます。三十二大人相(仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴)の一つに手足柔軟相[しゅそくにゅうなんそう]が数えられていますが、これは柔順忍の果報を言うのでしょう。
 こうした柔順な智慧に対して、「これだ」とつかんでしまったもの、これは信心であれ覚りであれ抜け殻であり、かたくなな執着に過ぎません。人間が陥りやすいのはこうした「つかんだもの」への執着であり、特に「思想」は総じて執着性を持っているので危険なのです。本当は、昨日「これだ」と讃じたとしても、今日ここで私に間に合わなければ捨てても構わないのです。ただし、こうしてあっさり捨てながらも、単に思想を使い捨てにするのではありません。思想や方向を取捨選択せしめた柔軟な智慧が浄土の道場樹より回施されてくるのです。

無生法忍[むしょうぽうにん]」は三法忍を代表し、しかも「菩薩の無生法忍、もろもろの深総持[じんそうじ]を得」た智慧ですから(参照:{聞名得忍の願})、一切諸仏の音響忍・柔順忍を内包した智慧であり、人生や社会現実の根底にあって全てを支えている智慧であり、虚ろで渾然[こんぜん]と見える現象の背後にあって虚ろではない厳然とした法則の裏づけを得た智慧、ということです。また深総持[じんそうじ]とは陀羅尼[だらに]のことであり、「一語の中に無量の義を有っている」言葉ですから、「諸の深総持」を得た智慧というのは、一語一語の中に込められた数多くの本音や本質を聞き分ける智慧であり、さらには言葉だけではなく、現実に起こる一々の体験や見聞きしたことをきっかけに、その背後に潜んでいる文化や文明の本質を知ってゆく。小さな人生の機微[きび]を知ると同時に、そこに全世界を支え保つ基軸を見出してゆく智慧が菩薩の無生法忍でしょう。

不退転[ふたいてん]に住す」ということは、浄土の仏地に足がついて迷いの世界に退転しないことをいい、覚りの側から言えば、必ず仏に成る位ということで「正定聚[しょうじょうじゅ]」ともいいます。これは道心が定まって退転しない位、という意味です(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})。正定聚に住していない人は、道を求めながらもまだ暗中模索状態で、迷いの中にいて、きっかけがあると一気に底に沈む可能性があるので「退転の菩薩」といい、覚りの側から言えばまだ「不定聚・邪定聚」で、成仏が定まっていない段階なのです。
 不退転の菩薩の特徴は、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願う(既に即得往生した菩薩がその真価を発揮したいと願う)だけではなく、菩薩が自らの国を発見し、往覲偈にあるように「自分の国も阿弥陀仏の浄土のような素晴らしい国土にしたい」と願いを起こしていることです。この願いがあるからこそ次の六根清浄も適うのです。

六根清浄[ろっこんしょうじょう]」というのは、目耳鼻舌身意の感覚・認識作用が清らかなことを言います。しかし正定聚に達していない衆生の眼には依怙贔屓[えこひいき]の色眼鏡がかかっていたり、先入観から物事をあるがまま見ることができず、耳も、口さがない人びとの虚言[きょげん]に汚され、相手の真意を聞き逃したり、歪曲[わいきょく]して聞いてしまいます。このような邪見や曲解などのない六根清浄を得るには、どうしても浄土の道場樹より発せられる念仏に遇わなければ適いません。
 なぜならば、阿弥陀仏の浄土にあこがれ、真意を回向され、自らの国もかくあらん≠ニ願うことによってのみ浄土の存在意義を認めることができるのであり、これによって本心一途な願いが私の身心に満ちるとともに、これを阻害[そがい]している宿業の頑迷[がんめい]さを同時に領解することができからです。南無阿弥陀仏の名号は単なる文字ではありません。因位における本願と永劫にわたる修行一切の徳がその名に込められていますので、これを信じ名号を褒め称えれば、その道場樹一切の徳が私にはたらき、清浄なる六根を通した念仏となって私の人生一切に顕現[けんげん]してくるのです。

<これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と>
(それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]明了願[みょうりょうがん]堅固願[けんごがん]究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである)

 念仏者はみな三法忍を得、不退転を得、仏道成就まで六根清浄の功徳を身に満たしていくのですが、これらは念仏者ひとりの力に依るものではありません。すべて法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力のおかげであり、この根本主体の寿命を自らの寿命と引き受け展開した先人たちの遺徳のたまものでしょう(参照:{弥陀果徳 寿命無量「#阿弥陀仏の寿が念仏者の命と成る」})。
威神力[いじんりき]」については『仏説無量寿経』の後半に――

世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまひて、威神力をもつて衆悪を摧滅してことごとく善に就かしめたまふ。所思を棄捐し、経戒を奉持し、道法を受行して違失するところなくは、つひに度世・泥オンの道を得ん。
『仏説無量寿経』40(巻下・正宗分・釈迦指勧・五善五悪)

世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう。

(現代語版より)
と説明があります。また本願力以下については『述文讃』に――
〈本願力故〉といふは、[すなはち往くこと誓願の力なり。]〈満足願故〉といふは、[願として欠くることなきがゆゑに。]〈明了願故〉といふは、[これを求むるに虚しからざるがゆゑに。]〈堅固願故〉といふは、[縁として壊ることあたはざるがゆゑに。]〈究竟願故〉といふは、[かならず果し遂ぐるがゆゑに]
『述文讃』(『顕浄土真実教行証文類』行文類二42・大行釈・引文より)
〈本願力の[ゆえ]に〉とあるのは、わたしたちが往生するのは阿弥陀仏の本願のはたらきによるということである。〈満足願の故に〉とあるのは、衆生を救う願いが欠けることなく成就されているということである。〈明了願[みょうりょうがん]の故に〉とあるのは、阿弥陀仏の願い求められることには決して間違いがないということである。〈堅固願の故に〉とあるのは、本願はどのような縁にも破られることがないということである。〈究竟願[くきょうがん]の故に〉とあるのは、阿弥陀仏の願いは必ず果しとげられるということである。
(現代語版より)
と解釈がありますが、この通りの内容で間違いないでしょう。

 法楽楽[ほうがくらく]は億千の外楽[げらく]内楽[ないらく]を超える

註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至第六天上の伎楽の音声、展転してあひ勝れたること、千億万倍なり。第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。清揚哀亮にして微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。
現代語版
 続けて釈尊が阿難に仰せになる。
「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王[てんりんじょうおう]の聞く音楽から他化自在天[たけじざいてん]までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹[ほうじゅ]から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。それは清く[]えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。

 前章に「清風、時に発りて五つの音声を出す。微妙にして宮商、自然にあひ和す」とありましたが(参照:{宝樹荘厳 「#対立を協和に転じる」})、音楽は総じて快楽を象徴しています。衆生が様々な苦悩を味わいながらも力強く生きていけるのは、ひとえに苦悩以上の快楽を得ることができるからです。人生は本来楽しむためにあるのであり、決して苦悩するためではありません。
 しかし智慧の浅い衆生は苦を楽と思い込み、楽を苦と思い込んで嫌ってしまいます。煩悩性の高い快楽は副作用の苦悩が永く身心を襲うにも関わらず人々が群がり、覚りに至る修行は副作用の苦悩がない純粋の快楽であるにも関わらず求める者は少ないのです。
 そこで経典では、他化自在天という一切衆生が求める欲界の最高峰を譬えに用い、それを上回る快楽を示して覚りに至る修行を人々に回施します。
「無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声」は、この章の道場樹はもちろん、前章の七宝樹(人と人が真心で触れ合って、個性と個性が映えあい、また対立が生まれながらも浄土の土徳によって協和に転じてゆく)から生まれる快楽は、たった一音であっても、他化自在天の数限りない音楽よりも勝れていることを示しています。

 なぜなら浄土の道場樹や七宝樹から発せられる音楽は法楽楽[ほうがくらく]といって仏法の下地があり、求道の快楽は副作用もないので、これこそが末通った真の快楽なのです。これは智慧によって生ずる楽しみであり、この智慧によっておこる楽しみは、阿弥陀仏の功徳を愛楽することで生じるのです。比べて他の音楽は内容的に外楽[げらく]内楽[ないらく]でありますから副作用があり、楽と苦の混同もありますので末通った真の快楽とは言えません。
(参照:{荘厳無諸難功徳成就」 }

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