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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』13

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 聖衆無量

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。いまの大目ケン連のごとき、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫において、乃至滅度までことごとくともに計校すとも、多少の数を究了することあたはじ。たとへば大海の深広にして無量なるを、たとひ人ありて、その一毛を析きてもつて百分となして、一分の毛をもつて一タイを沾取せんがごとし。意においていかん、そのシタダるところのものは、かの大海においていづれをか多しとする」と。阿難、仏にまうさく、「かのシタダるところの水を大海に比するに、多少の量、巧暦・算数・言辞・譬類のよく知るところにあらざるなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞・菩薩を計へて、知らんところの数はなほ一タイのごとし。その知らざるところは大海の水のごとし。

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 釈尊が続けて仰せになる。
「無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」
 阿難がお答えする。
「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」
 釈尊が阿難に仰せになる。
「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。


 悉有仏性の初動

 前回は、「阿弥陀仏と念仏者の寿命(主体)が長く久しい」という経意を、創造的世界の創造的根本主体≠ナある阿弥陀仏の寿命が、創造的前衛主体である念仏者(正定聚[ショウジョウジュ]の菩薩・声聞)の寿命と成って無限に展開している事実から確認しましたが、今回は弥陀成仏の際に集まった「初会[ショエ]声聞衆[ショウモンシュ]と菩薩衆の数」が称計[ショウゲ]すべからず(数え切れない)という内容を事実として明らかにしていきます。

註釈版
仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。

現代語版
無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。

 阿弥陀浄土に集う声聞・菩薩の数が量り知れないということは、前回も<また声聞・菩薩、その数量りがたし>とありましたが、今回は「初会」の声聞・菩薩衆の数ですからまた意味合いが違います。前回は、今現在の阿弥陀仏浄土に集う声聞・菩薩衆の数ですが、今回は、阿弥陀仏が十劫成道を果たした(参照:{弥陀果徳 十劫成道})その瞬間、既に声聞・菩薩衆の数が計り知れないほど集っていたというのです。これは実に驚嘆すべき内容、そして有り難い内容なのですが、何が驚くべき有り難い内容であるのか解りますでしょうか。

阿弥陀仏の初会の衆は、声聞・菩薩の数無量なり。
神通巧妙にして算ふることあたはず。このゆゑに広大会を稽首したてまつる。
『讃阿弥陀仏偈』15

弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき
浄土をねがはんひとはみな 広大会を帰命せよ

『浄土和讃』16

 このように曇鸞大師や親鸞聖人は、阿弥陀仏の初会(初めての説法)に集まった声聞・菩薩の数が無量であることを褒めてみえますが、この果報を生んだ因は{声聞無量の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくともに計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ>にあります。願文では「国中の声聞」のみですが、その背景として「国中の菩薩」も隠れています。このことは後にも触れます。

 初会の衆の数が無量であるといっても、大勢の人たちが寄り集まって阿弥陀仏の教えを聞きに行った≠ニいう意味ではありません。逆に、阿弥陀の側から一切衆生には全て聞法精神・求道精神が宿っている≠ニ見抜かれたのです。仏教徒であるなしに関わらず、またどんな悪人でも、心の奥底では真実の法を聞きたい≠ニか真にこの人生を成就させたい≠ニいう願いがあるのですが、阿弥陀仏は衆生に先んじてこれを覚り、衆生は阿弥陀仏より回向される形で聞法精神・求道精神を身に受けることになります。
 自分の不甲斐[フガイ]なさを嘆き自暴自棄になりそうな私たちに、阿弥陀仏から褒められる形で不断なる聞法求道の精神を頂くのです。そして同時に阿弥陀仏は、成就の方法(方便)も確立しているために<弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき>と自信を持って言い切れたのです。

 いくら「一切衆生悉有仏性」と見抜けても、結果として仏性が身に満ち生活として展開しなければ有っても無きが如しであり、有っても無きが如し≠烽フであれば仏教では評価することはできません。阿弥陀仏は既に「五劫思惟」によって五悪趣の迷いの世界を超えたところに本願を見つけ、清らかな行を選び取って浄土を荘厳(創造)するため永劫の修行を成就された、こうした裏づけ・果徳を得ている阿弥陀仏だからこそ聖衆無量と言い切れるのです。逆に言えば、せっかく集まった声聞に縁・無縁の優劣をつける経典は、その経家の覚りがまだ狭く[さわ]りがあり、現実に一切衆生を導く内容に成り切っていないことの裏返しでもあるのです。

 前回の声聞・菩薩衆の数が無量≠ネのは、実際に仏法が転じられている今現在の果報を言いますが、初会の衆の数が無量≠ナ解るのは、法を語る最初から、既に阿弥陀仏は一切衆生の願往生と入正定聚を確信してみえた、ということです。この阿弥陀仏の確信があるゆえに、願成就の報土である阿弥陀の浄土は広大会[コウダイエ]として、何者をも拒むことなく、皆が皆を尊敬し、全ての衆生が心ゆくまで本音を語り合い、仏法を聞き開き、楽しく仏道を修することが適う場となるのです。
 しかし諸仏の場合は、相手が一定の条件を満たしていなければ入門を断わらざるを得ません。これは諸仏に悪差別があるせいではなく、諸仏の宗教的動機が特殊であったり、時代性や地域性が完全には抜けず、方便にも限界があるせいなのです。そのため諸仏は一切衆生悉有仏性[イッサイシュジョウシツウブッショウ]と覚ってはいても、所謂[いわゆる]キャパシティーには限界があり、そのため受容人数が限られてしまい、聖衆無量と言い切ることができないのです。

 たとえば大乗の『涅槃経』では「一切衆生悉有仏性」とも「衆生即仏性」とも言いまして、生きとし生ける者全てに仏性が有る≠ニ発見し、皆が仏に成れることを可能性として説いていますが、この可能性が本当に実現してゆく道程までは説かれていません。また中には「彼等のような者たちは退出した方がよかった」と、説くべき対象が一切衆生ではないことを理由に最高級・真実の裏づけとしている経典もありますが、これは全ての機に応じ切れていない結果でもありましょう。しかし『仏説無量寿経』では、悉有仏性の前提・理念・初動・展開・結末まで全てをこと細かに開いてみせています。
 初会の衆無量は初動の段階ですが、ここにおいて既に結末までの展開が充分予想されていますので頼もしい限りと言えましょう。なぜなら、一切衆生を抱いて仏国土を創造し続ける根本主体(阿弥陀仏)にとって、負担とも見えていたであろう私たち悪衆生が、負担どころか、仏の願いを聞き開き、仏行展開の担い手とさえなってくれる存在であることを確信したのですから。

 可能性としてだけ念じられていた悉有仏性が、仏性の側から一切衆生に聞法精神(声聞)・求道精神(菩薩)を見出した。これは具体的な一歩、それでいて確実に願成就の方向性を見出した一歩でしょう。諸経においては去る者は追わず≠ニ捨て置かれた悪衆生も、阿弥陀仏の「わが声聞よ」との呼びかけには[うなづ]かざるを得なくなるのです。どこまでも追いかけて法を説く浄土経典によって、衆生に見出した仏性の萌芽を阿弥陀仏の側から衆生に呼びかけ、衆生に成りきり、五劫思惟と永劫の修行によって、今ようやく真実の法を聞いてみようという心がけができた、という道程が明らかになります。

いくたびか お手間かかりし きくの花
(加賀千代)

 ところで浄土においては、声聞の数と菩薩の数はどちらが多いでしょうか。
『大智度論』には「弥陀仏の国には、菩薩僧は多く声聞僧は少なし」とあります。どうして菩薩の数が多いかと言うと、<「声聞」は、法を聞こうとする聞法の態度を現わし、「菩薩」は、人間関係において、また社会人として、どう生きるかという求道精神を象徴している>わけですから、阿弥陀仏の浄土においては、人々に聞法精神が回向されると、[おの]ずとこの聞法精神が深められ求道精神に展開し、自己変革と環境創造に勤しむ生活(菩薩の法式)が身につく、ということでしょう。またこれは声聞衆と菩薩衆が別に存在して数の多少を言っている≠ニいう意味もあるでしょうが、むしろ同じ聖衆の意識が聞法精神より求道精神に深められている事実を数の多少でたとえているのかも知れません。
 なおこの『大智度論』の説は現在の阿弥陀仏の国土のありさまを言います。では初会においては声聞衆と菩薩衆はどちらの方が多い(比重が大きい)のでしょうか。一度皆様方でお考え下さり語り合って頂けると、思わぬ真実が明らかになるのではないでしょうか。

 本願一乗を領解して

註釈版
いまの大目ケン連のごとき、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫において、乃至滅度までことごとくともに計校すとも、多少の数を究了することあたはじ。たとへば大海の深広にして無量なるを、たとひ人ありて、その一毛を析きてもつて百分となして、一分の毛をもつて一タイを沾取せんがごとし。意においていかん、そのシタダるところのものは、かの大海においていづれをか多しとする」と。阿難、仏にまうさく、「かのシタダるところの水を大海に比するに、多少の量、巧暦・算数・言辞・譬類のよく知るところにあらざるなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞・菩薩を計へて、知らんところの数はなほ一タイのごとし。その知らざるところは大海の水のごとし。

現代語版
目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」
 阿難がお答えする。
「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」
 釈尊が阿難に仰せになる。
「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。

 ここでは聖衆無量ということを具体的に示していることは解るのですが、受け取り方として、上座部との対比で説かれている≠ニいう見方と、一乗仏教の立場で説かれている≠ニいう見方ができるでしょう。

 まずは上座部との対比で説かれている≠ニいう見方で受け取りますと――
 目連はご存知の通り釈迦十大弟子の一人であり、神通第一の弟子と伝えられています。その神通第一の目連でさえ阿弥陀仏初会の聖衆の数を知ることができるのは全体のごくわずかである、というのですが、これを単純に理解すればそれほど初会の聖衆は数が多いのだ≠ニ受け取れます。しかしこのままでは、どこまで多いのか=Aどの範囲までを初会の聖衆と言うのか=Aまたそもそもどの時代の聖衆を指すのか%凾フ問題が残っています。また、目連の持つ「神通」は「勝れた智慧」「不可思議で自在な威力」「超人的な能力」等を言いますが、この経で説かれている六神通と同じなのか異なるのか、という問題もでてきます。と言いますのも、もし目連が本願として願われた六神通を成就していながら初会の聖衆の数を知ることができないとすれば、六神通の成就が無意味になってしまうからです。
 
宿命通によって現在只今の歴史的事実を覚り、 天眼通によって一切衆生の仏性世界を拝み見て自利利他円満の菩薩道を歩み、 天耳通によって一切衆生の本心の叫び声を聞いて心身深く刻んで憶え、 他心通によって相手の悩みや本心を理解する真心を得、 神足通によって相手の身になり立場に立って自他を超えてゆく心を得、 漏尽通によって自利利他の菩薩行を行じる際に妄念・我執をおこさず偽善や執着がない、 こうした本願に適った六神通を成就していれば、初会の聖衆の数を知ることは可能なはずです。では、どうして神通第一の目連が数を知り得ないのかというと、まずは目連の神通力は大乗や浄土の神通力とは異なる≠ニ考えることができます。
 目連は神通第一の弟子として上座部仏教では尊敬されていますが、大乗仏教では事情が違い、時として批判対象になることもあります。たとえば『維摩経』では、舎利弗や摩訶迦葉と同じく目連も大乗の信者である維摩長者に説法で負けてしまうのです。

『……そもそも法を説く者には実は説くこともなく、示すこともない。その法を聴く者にも聞くこともなく、得ることもない。譬えば、幻術使いが幻の人のために法を説くようなものである。このような心がまえをして、法を説くべきである。衆生の能力・素質に利鈍があるのを了解して、知見についてさわりなくとどこおることなく、大悲心をもって大乗を讃じ、仏恩を報じようとして、三宝を断じないように念じて、そうして後に法を説くべきである』と。
維摩がこの法を説いたときに、八百人の家主は無上のさとりをもとめる心をおこしました。ところがわたくし(目連)にはこの弁がありません。だから、わたくしはかれのところに行って見舞を言うことができないのです。

このように『維摩経』は初期大乗仏教独特の気迫がこもり、上座部仏教への批判が辛辣ですが、やがて大乗仏教が優位な立場となると、一度は捨てた上座部はじめ部派仏教の修行の成果も全て取り込み、一切の仏教はじめ全ての宗教や文化・文明を網羅する経典(一乗仏教)の編纂が試みられるようになりました。この最盛期に編纂された経典が『仏説無量寿経』なのですが、やはりこの経典も大乗仏教の優位性を含んで聖衆無量を述べている気配はあるのです。といいますのも、前章では二乗(声聞・縁覚)批判を含んで寿命無量を明らかにしていますので、聖衆無量についても上座部への批判が含まれている可能性があるのです。
 つまり、「目連のようなものたちが<中略>知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである」と比較して説いている、さらには大乗の功徳は大宝海、上座部の功徳は一滴の水≠譬えていると見ることもできるのです。これは『維摩経』ほど露骨ではありませんが、『仏説無量寿経』も大乗仏教の広がりを経た上で新たな地平を目指して編纂された経典ですから、上座部の聖者は限定的な譬えに登場する傾向があるのではないか≠ニの推測も拭いきれないのです。

 しかし、あくまでも一乗仏教として成熟した経典≠ニ領解し直してみると別の見方も生まれます。たとえば親鸞聖人はこの一乗の法を「本願一乗円融無礙真実功徳大宝海[ホンガンイチジョウエンニュウムゲシンジツダイホウカイ]」と勧められました。

いま一乗と申すは、本願なり。円融と申すは、よろづの功徳善根みちみちて、かくることなし、自在なるこころなり。無礙と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。真実功徳と申すは名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。
『一念多念証文』18
▼意訳(現代語版より)
 ここで「一乗」というのは、阿弥陀仏の本願のことである。「円融[エンニュウ]」というのは、すべての功徳や善が満ちみちて、欠けているものがなく、そのはたらきが自在であるという意味である。「無礙[ムゲ]」というのは、衆生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、そこなわれないことをいうのである。「真実功徳」というのは、名号のことである。この名号には、一実真如[イチジツシンショ]のすぐれた[ことわり]が欠けることなくそなわっているから、世親菩薩は大宝海[ダイホウカイ]にたとえておられるのである。

 するとこうした一乗仏教の立場で目連が登場し、聖衆無量の譬えとされたのはどういうわけでしょう。島田幸昭師は、現在の衆生を代表する存在として目連を登場させたと見ておられます。

……一体これは何のためにおっしゃったのか。こういいますと、実は阿弥陀の、浄土の聖衆というのは、声聞や菩薩というのは、実は私たちの姿である。今日ただいまの私たちの姿である。こういうことが言いたいために、この目連を引き合いに出してきたんだと思うのであります。
 そして、後のもう一つの譬え、例えば大海の……
<中略>
 これは何かと言いますと、ただ単に十効の昔という、そういうことだけではなしに、これは永遠に人類のあらん限り、ちゃんと阿弥陀の聖衆に十効の昔にさとられた、そういう中に皆おるのである。こういうことが言いたいのだと思うのであります。
 締めくくって、「仏、阿難に語りたまわく、目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞と菩薩を計えんに、知一たいのごとし。その知らざるところは大海の水のごとし」と、こういうことでもって、全部私たちのそういう空間的にもほとりがない。そして、時間的にも、いつでも時間を超えて私たちは弥陀初会の聖衆の一人であると、こういうことを言おうとしておられるのだと思うのであります。
 それならば一体これは、今日のわれわれにとって何になるかと言いますと、実はこれは私が救われる言、私が救われる原理だと、こう思います。と言いますのは、私たちは大体、いままで真宗では罪悪深重泥凡夫と、こう三千の諸仏が見放されたものを阿弥陀仏が助けてくれると、こういうように言われておったのでありますが、全くこれは間違いであります。何かと言いますと、三千の諸仏では、私たちは罪の深いものと、こう見えたんだろう。ところが、阿弥陀仏はそうではなしに、表は迷っておるかもしれないが、心底はさとっておるのだと。「一切衆生、悉有仏性」と、こう私たちを見抜かれた。それが、私が救われる原理だと、こういうことであります。

『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 こうした領解こそ、仏教本来の穏やかで無限の辺を持つ経意を汲んだ勝義といえるでしょう。特に<いつでも時間を超えて私たちは弥陀初会の聖衆の一人である>とは、何と清々しい、それでいて深い領解でしょう。先師の眼はどこまでも善意に満ち、一切衆生の躍動と歴史の深さをともに見据えています。

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