還浄された御門徒様の学び跡 |
武内紹晃先生は、その著書「縁起と業」(本願寺出版社)で次のように述べておられ ます。
縁起と業は、言葉の成り立ちからもやや違います。『縁起』という言葉は、仏教独自の言葉であります。仏教になって初めて出来た言葉なのです。仏教以前にあった言葉ではありません。
そして、その縁起という言葉には、『縁起を見るものは法をみる、法をみるものは縁起を見る』という有名な文に、その代表的意味をみることができます。まさに縁起は、法そのものであります。だから仏陀は、法を悟って仏陀になられた、法を体得して仏陀になられたのです。その法の内容は何かと言えば、それは縁起であります。だから縁起即法です。
その仏陀の体得せられた法は、『仏、世に出づるも出でざるもかわらざる天地自然の真実である』というわけです。それが縁起であるから、縁起というのは無我、あるいは無常、あるいは無自性というふうな言葉と共に、仏教の最も根幹に位置する言葉であると言ってもいいと思います。
けれども、この言葉は、現在残っている仏教の最も古い資料の一番最初から出てはいないのです。しかし、『縁起』と言う言葉が出来ると、その言葉がインドだけでなく、中国・日本に至るまであらゆる宗派、あらゆる学派の教学の中心問題になっていったのであります。いかなる宗派の宗乗・余乗の教義でも、縁起を離れた教学はまず成り立たないと言っていいかも知れません。それほど非常に大事な言葉であります。(一〇から一一頁)
私は、「いのちの尊さ」を考えるとき、自分のいのちが無量のいのちを受けて今ここに存在することの不思議に想いを致さずにはおれない。人として「生」を受けることになった縁を尋ねれば、父母をはじめとして無量無数の親の存在がなければ私の今はないし、その私はまた無量のいのちをいただき、そのいのちに支えられて存在している。私の両親、その親、またその両親…・と、それぞれの親もまた然りである。人に生まれることの不思議は、宗教的感覚を離れて近代科学の成果で検証しても同じことがいえる。遺伝子、DNA,ゲノムとその単位を微分すればするほどに人と生まれることの不思議が実感される。
DNAは四個の塩基で構成されている。ヒトも、猫も、虎も、魚も、微生物も…・・すべてのいきものが同じ四個の塩基で構成されたDNAでつくられている。なのにヒトは人に、イワシは鰯になる。決してイワシは鯨にはならないのである。
人道に生ずるを得るは難く 寿を生するもまた得難し
世間に仏あるは難く 仏法を聞くを得ることは難し(法句経)
今ここに自分がいることは無量億劫のいのちをいただいているおかげなのである。 不思議な不可思議なご縁の賜物なのである。やはりいのちは縁起の法でしかその尊さを問えないと思うことである。
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