還浄された御門徒様の学び跡 |
思い立って備忘録としてはじめた聞法ノートも三冊目になった。読み返ししているうちにまた、新しい発見があり、新しい課題が生まれる。
平成十三年から二年ほど、教区の門信徒・男女共同参画を進めるについて考える機会を頂いたお蔭で色々な課題について学ぶことができた。そのことを通じて、改めて問題意識を常に持ちつづけることがいかに大切であるかを実感したことである。
この第三集は「正信偈」を学びの中心において聴聞した。日々読誦する正信偈のご文の一つひとつに深い意味があり、またその一句に込められたご開山聖人の想念や願いを、諸先生の書かれた書物やご法話をを通じて聴聞させていただいた。有難さがこの身からこぼれる思いがする。先日、常例法座でご講師の先生が、正信偈の「煩悩障眼雖不見」をとりあげてお説きになられた時、「『障』の字は、お経さんには偏[へん]と旁[つくり]が反対になっていますね」と仰られ、黒板に「」と書かれ た。新しい経本を常用しているので「障眼」とばかりに思っていたが、成る程その通りである。み教えを聴聞する喜びと合わせてこうした気づきをいただくのも法座のご縁である。
十年程になるだろうか、既に還浄されている恩師がまだ元気に過ごされていた折、「榮ちゃん、ぼくはなあ、ほかの本を読んでいる暇がないんや。ご開山の書き残されたご本で、まだまだ読んでないのがたくさんあるんや。」とわたしに述懐されたことがある。先生の読まれた歎異抄をはじめとして親鸞聖人の著わされた本の余白には殆どのページに書き込みがされていた。いま、わたしは先生のその言葉をしみじみと想い起している。有難いことに、わたしの周りにはこのように手を引き、導いてくださった方々が沢山いて、今もわたしにはたらきつづけていてくださる。
ご門主は門信徒会運動四十周年・門徒推進員二十周年記念大会(平成十四年十二月一日)のご親教で、次のようにご法話をされている。
「南方仏教に伝えられる経典によりますと、ある時、阿難尊者はお釈迦さまに尋ねられました。『大徳よ、私たちが、善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、すでにこの聖なる道の半ばを成就したに等しいと思いますが、いかがでしょうか。』すると、お釈迦さまは『阿難よ、善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、この聖なる道の半ばにあるのではなくして、まったくそのすべてなのである』(相応部四五)とお答えになっています。また、宗祖親鷺聖人は、ご和讃に 『他力の信心うるひとをうやまひおほきによろこべばすなはちわが親友ぞと教主世尊はほめたまふ」(正像末和讃五八)と述べられました。 今まで当てにし、頼りにしてきた仕事や家庭を始めとする戦後社会の価値観が揺らぎ、少子高齢化社会の難問が広がる中、生きる力を見失っていく人びとが増え続けています。お念仏のみ教えは迷いのなかにある私に、自らを失うことなく苦難の中に希望を見いだす生き方を示して下さいました。その歩みを共にする仲間に出会うことは、み教えをいただくことと同じ意味を持つと、お釈迦・親鷺さまが教えて下さいました。今日、人間の思い上がりは止まるところを知りません。 私を凡夫であると知らしめ、南無阿弥陀仏によって迷いを越えさせて下さる浄土真宗えの意義はいっそう高まっています。」
教書は「念仏は、わたしたちがともに人間の苦悩を担い、困難な時代の諸問題に立ち向かおうとする時、いよいよその真実をあらわします。私はここに宗祖親鸞聖人の遺弟としての自覚のもとに、閉ざされた安泰に留まることなく、新しい時代に生きる念仏者として、力強く一歩を踏み出そうと決意するものであります。」と結ばれています。今の時代をともに生きる仲間として、この決意こそ門信徒すべてに求められていることでありましょう。
中村元「原始仏教」/NHKブックス
笠原一男「親鸞」/NHKブックス
奈良康明「釈尊との対話」/NHKブックス
ワイド版 浄土三部経(上・下巻)/岩波書店
白川静 「漢字百話」/中公新書
山折哲雄「悪と往生」/中公新書