還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第三集 24

真実の信楽まことに獲ること難し

【浄土真宗の教え】

 眞實信楽實難獲

教行信証 信文類三(本)大信釈 嘆徳出願
つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。
大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。
この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず。
真実の信楽まことに得ること難し。なにをもってのゆえに。いまし如来の加威力によるがゆえなり。博く大悲広慧の力によるがゆえなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。 (註釈版二一一頁)
 現代語訳
つつしんで、往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない清らかな信であり、如来の光明におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世問一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる清らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。
 この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、また至心信楽の願と名づける。また往相信心の願とも名づけることができる。
 ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生まれ変り死に変りし続ける衆生は、この上もないさとりを開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。
 たまたま清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。 〈教行信証現代語版一五九頁〉

 信不具足

教行信証はまことに多くの引文をもって教えの勘要を示されている。涅槃経を引かれた御文がある。
またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、『信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆえに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。 これを名づけて信不具足とす』と。 (註釈版 二三七頁)
現代語訳
 また次のように説かれている(涅槃経・迦葉品)。
 信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二っには、よくその意味内容を知って信じるのである。
 ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。
 また信には二種がある。一つには、たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、二つには、その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。
 たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない。 (教行信証 現代語版 二〇七頁)

早島鏡正先生がこの引文に関連し次のように言っておられます。
私がかねがね仏教を学んでまいりまして気づいたことは、仏道を会得するためには「道あり」、つまり「悟りの世界あり」と信ずると同時に、悟りという道に向かって「歩んでいく人」、あるいは「すでに歩み終わった人」の存在することを信ずること、すなわち「道ありと信ずると同時に、得道の人ありと信ずる」、この二つがなければ、完全な信心ではないということです。
 このことは親鷺が、『教行信証』の中で大般涅槃経の文を引用して教えてくれました。
 道を念仏ということばに置き換えてみると、「念仏あり」ということは、念仏者を同時に信じていくことになる。私どものように、念仏そのもののいわれが、つまり真実の世界の具体的なあり方がなかなかわからない者にも、念仏に生きる念仏者の姿を通して、念仏そのものを把握していくことができます。
 「念仏あり」と同時に「念仏者あり」
で、この二つを信じていくことを親鷺は『教行信証』で明らかにしています。それが実は道を求めて道を歩んでいく、念仏を求めて念仏に生きる人のあり方だと私は思います。
(NHK出版「正信偈を読む」十八頁)

* この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆえに名づけて信不具足とす」(前掲 涅槃経)
現代語訳
ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。

 ある話合い法座で「ただありがたいというのではなく、なぜ『なむあみだぶつ』の御名がありがたいのか、そのことをよくよく聞き披[ひら]くことが大事なのではないでしょうか」
と意見を言ったとき、
「何を聞くのか?」と聞きなおされて、
「お念仏のおいわれを聞いていくことではないですか」と答えたことがあります。
「毎日の勤行で正信偈を読誦されています。その《法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所…・・》に始まる個所からが南無阿弥陀仏のおいわれを説いていただいている個所ではないですか」と続けました。数人かの方が「そんなことが書いてあるとは知りませんでした。」「そんなことを知らないといけないのでしょうか?」……等々の意見がありました。

 法話の中で、「何も知らなくてもよいんです.ただ南無阿弥陀仏があればよいのです」とお聞きすることがありました。門徒もまたそのように鸚鵡返しにいうことがあります。でも、「何が有難いのか?」を抜きにしてよいのでしょうか。

 親鸞聖人が引用された涅槃経からの経言、何故この言葉を引かれたのか、よくよく考えなければならないところだと思っています。

阿弥陀仏の御名をきき 
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して 
一念大利無上なり

浄土和讃(三〇)

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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