還浄された御門徒様の学び跡 |
私たちは心の中で心底、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」「曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と思い極めているであろうか。心のどこかに自力作善をおもい、それに縋り、幾らかの善業をもって、「積善のおかげにより、わたしだけは救われようのない罪悪生死の凡夫ではない」と思い、そして驕りの心を持ち、育てているのではないでしょうか。それは、穢悪汚染にして清浄の心がないわたしだから疑いの心が生じ、本願を疑う心から自力作善の心が生ずるのでありましょう。
だからこそ親鸞聖人は、教行信証 信巻 至心釈において、
しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染[えわくわせん]にして清浄の心なし、虚仮諂偽[こけてんぎ]にして真実の心なし。と示されたのではないでしょうか。(註釈版二三一頁)
そのような私であるからこそ、生死をはなれ、輪廻流転の迷いを離れ、清らかな浄土に往生するに、いかなる自力も作善も何の役にも立つものではない。唯ただあるのは阿弥陀仏の本願力にうちまかせるほかはないとお示しいただいているのである。
*「桐渓先生がいつもおっしゃっていたことは『二種深信というのは円環構造で考えていかなければならない』と教えていただきました。
その二種深信の考え方というのは、『必ずお救いにあずかっていく、→必ずお救いにあずかるのだげれども、お救いにあずかればあずかるほど、地獄必定の私であるということもそこに知らされてくる。→地獄必定の私が知らされてくればくるほど→その私に、間違いなく如来の願力のはたらきでありましたということが知らされてくる』ということをおっしゃられました。」(浅井成海「信心の社会性」二二頁)(→は筆者挿入)
「仏教に随順し、仏意に随順す」…・・まことにその通りのことであります。このことができればよいのです。何のはからいもなく、何も付け加えることなく、教えを信じ、教えにしたがい、阿弥陀さまの御心のままにいただく。
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき正像末和讃悲嘆述懐讃(九八)
そうなんですね。何の手だてもないこの身がご本願の光に照らされ、導かれ、招喚[まねかれ]され、南無阿弥陀仏の船に乗って安養の浄土に渡る、それも命尽きれば忽ちに浄土に生まれ仏とならせていただくのである。
母は九十二才で浄土に往生した。その一カ月前に、私にあてて
「有リガタイヤ 有リガタイヤ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏ノ舟ニ乗リ 今日コソハ 弥陀ノ 出船カナ マツエ 九十二才 榮三サマ」
と書残していった。まことにこの苦海をか細いかぼそい身体で九十二年をかけて泳ぎ渡り、「如来の願船」のおわしますお蔭により 苦海をも忽ちのうちに浄土に往生されたのである。
わたしの眼には見えないが、仏さまの母がいつもそばにいてくれる、そして母の南無阿弥陀仏のひびきがわたしに伝わる思いがする。
唯ただ なもあみだぶつ なもあみだぶつ………・念仏申すのみである。
若不生者のちかいゆゑ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ浄土和讃(二六)正念といふは 本弘誓願の定まるをいふなり。
この信心うるゆゑに かならず無上涅槃にいたるなり。
この信心を一心といふ。この一心を大菩提心といふなり。
これすなはち他力のなかの他力なり。有念無念の事より抜粋(註釈版七三五頁)
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