聞法ノート 第三集 22
あえてよかったこのいのち
【浄土真宗の教え】
◆ あえてよかったこのいのち
- 一、ことぱとしての「あう」。
- 遇う・値う[まうあう]・会う・合う・遭う・逢う・
- 二、「あえてよかったこのいのち」の「いのち」は、だれの「いのち」なのだろう?
- 主文から言って、「このいのち」はまさしく「わがいのち」である。
そしてはるかなる「いのちの歴史」を背負った「いのち」である。
なぜなら、このいのちは無量億劫のいのちをうけついでいる。たとえば、今の自分があるためには、たった四十代前の親の数ですらなんと壱兆壱千億人が必要であり、五十代前では千百二十六兆人の親の数になる。たかだか一三〇〇年から一五〇〇年前をたづねるだけでこの数字になるのである。人類の歴史は四〇〇万年から五〇〇万年であるという。さらに尋ねれば地球の歴史は四十億年とも言われる。そして三十五億年前の海に単細胞生物が発生したとき、地球にいのちの歴史が始まったのである。その単細胞生物の持った遺伝子情報は今もすべてのいのちに受け継がれている。
このいのちの重さに打ちひしがれそうであるが、この無量億劫のいのちであればこそ、わがいのちであってわがいのちではないと思えるのである。
そして、このいのちは、このような悠久のいのちを受け継がなければ生まれなかったいのちである。まことに「人身うけがたし。いますでに受く」いのちなのである。
三、だれにあえてよかったのか?
- 上に述べたように、わがいのちであって、わがいのちではない「このいのち」であれば、わがいのちがわがいのちに出遇えたことがまず喜ばしいことである。これは自分のいのちのなかに息づいている無量億劫のいのちとの出遇いの喜びである。
- 一切衆生みな仏性を有つほとけさまである。善悪を造り、言うのは人間のみの持つ驕りである。
自分のいのちのなかに息づいている無量億劫のいのちは自分にとってすべてが還相の仏さまである.
ここに仏との出遇いがある。仏との出遇いは「難値難見」難得難聞」なのである。いまその仏に遇わあさせてもらっている。
「あえて よかった このいのち」は仏との出遇いの喜びである.
四、「このいのち」と「他のいのち」との出遇い
- 「このいのち」と同様に「他のいのち」がある。「他のいのち」とはすべてのいのちである.一切衆生である。この「いのち」との出遇いは、人間の一方的な都合で善悪の価値が造られる。だから、たとえばその出遇いに感情が生まれる。よかったと思う出遇い、悪かったと思う出遇いである。悲しいことである。
- 「出遇い」は偶然性のものである。必然の出あいではない。然しその出遇いが一瞬のうちに価値を変える。偶然も必然も超越した仏との出遇いである。だから「値遇う[まふあう]」なのであるう。
- 「去来現仏 仏々相念」、過去仏も今の仏さまも未来の仏さまも互いに念じあわれている世界、それは別世界のことではないと思うのである。一切衆生互いに拝み、拝まれている世界、「このいのち」と「他のいのち」の出遇いの世界、それが今であり過去世であり未来なのである。
一切衆生みな仏性ありということは、今生かされているこの時、今生が仏の世界なのである。
だから「このいのち」と『他のいのち』との出会いは仏との出遇いなのである。
[釈勝榮/門徒推進委員]
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