還浄された御門徒様の学び跡 |
念仏の一門に帰入されたきっかけは、善導大師「観経疏 散善義」のなかの、「一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」(一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑなり)《七祖篇 観経疏 散善義四六三頁》の御文であったとお聞きしています。
「選択集 後述」に法然上人は、「静かにおもんみれば、善導の《観経の書》はこれ西方の指南、行者の目足なり。しかればすなはち西方の行人、かならずすべからく珍敬すべし。」(七祖篇一二九一頁)
「ここの貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立ちどころに余行をとどめてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏をこと縡とす。」(七祖篇 一二九一頁)と記されている。
ここに永年にわたり真実の教えを探し求めて苦悩し、万巻の経典を披き求法に没頭してこられた法然上人が真実の教えに今、値遇することを得た喜びの一瞬を垣間見る思いがする。そして「立ちどころに余行をとどめてここに念仏に帰す」ことがなかったならば、私たちは今、こうして念仏のみ教えをいただくことはできないのである。
高僧和讃 源空讃(一〇〇)
「尊号真像銘文 末」に、親鸞聖人は『又曰 「当知 生死之家以疑為所止 涅槃之城以信為能入」文』の御文を「選択本願念仏集」(三心章 信疑決判 七祖篇一二四八頁)より引かれ、次のように註釈されている。
この個所は、法然上人が観経の「深心」を釈されたところで、「深心とは、いはく深信の心なり」に続いて述べられている。このように生死の家(迷いの世界)にとどまるのは、本願を疑うからであって、涅槃之城(さとりの世界)に入るのは本願を信ずるからである。まことに私たちが救われ浄土の往生することのできる唯一の道は唯ただ、ご本願を信順する以外はないのである。法然上人は「疑えば迷いの世界に、信ずれば涅槃の都に」とけじめ(信疑決判)を示されたのであって、それゆえに親鸞聖人は、正信偈に「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」と讃嘆されたのである。
*註*「信疑決判」と「信疑得失」について:(灘本愛慈「やさしい安心論の話八三〜八五頁より」引用)
*上に述べてきた信疑決判と似ているが、すこしく異なる意味をあらわすものに、信疑の得失、あるいは胎化得失といわれる宗義があります。それは『大経』下巻の胎化段といわれる一段に説かれています。
これは、同じく浄土往生を願っていながら、仏智の不思議を疑い、みずから善根を積むことによって往生しようと願う者は、たとい往生を得ても宮殿の中に閉されて、自在に自利利他の活動をすることができません。それはあたかも母親の胎内に宿っているのに似ていますから、これを胎生といわれます。
それに対して、明らかに仏智を信ずる者は浄土に往生して直ちに仏果を得させていただき、自由自在に自利利他の活動ができます。それを化生といわれます。このように、疑惑仏智の行者は胎生の失があり、明信仏智の行者は化生の得がある、とその得失を明らかにして、疑惑を誠め、信心を勧められています。これを因でいえば信疑の得失、果でいえぱ胎化得失といわれます。
*信疑決判の場合の信も真実信心であり、信疑得失の場合も信も明信仏智でありますから、信はどちらも第十八願の他力信心であります。しかし、「疑」の方は言葉は同じでも、信疑決判の場合の疑と、信疑得失の場合の疑とは、その内容が異なります。
信疑決判でいう疑とは、本願を信受しないことですから、阿弥陀仏の浄土を願生しない者、本願の法を知らない者などを総じて含みます。信疑の得失を語る場の疑とは、他力真実の信心を得ていない自力の心の行者をいうのです。すなわち明信仏智の他力信に対して、不了仏智(仏智をさとらず)の自力信を疑惑といわれるのです。いいかえますと、信罪福心をもって往生を願いもとめることであります。信罪福心というのは、自己の積む善根をあてにし、自己の罪を恐れる、自力心であります。。これは自力無効と知って仏願力に乗託する二種深心とは大いに異なります。
このように、信疑決判の場合の疑は本願を信受しないことですから、迷界にとどまるといい、信疑得失の場合は自力の願生者を指しますから、胎生の失を受けるといわれるのです。
高僧和讃 源空讃(一〇九)
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