還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第三集 17

源信和尚讃嘆

【浄土真宗の教え】

 源信和尚讃嘆

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

現代語訳
・ 源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にお勧めになった。
・さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、化土にしか往生できないが、念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかにされた。
・「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に攝め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって見たてまつることができない。
・しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる。」と述べられた。

 信和尚は、天台の僧侶で、天台教学を極められたが、名声を嫌い横川の恵心院に隠棲されたので恵心僧都とも称された。釈尊一代の教えを蔵する大蔵経を五度も披かれて深く学ばれ、お釈迦さまの教えは、阿弥陀仏の西方浄土に往生することにあるとして、すべての人々が安養の浄土に往生することを願うよう念仏の教えを広くめられたのである。
「往生要集」は四十四才の時に著わされたもので、わが国における最初の本格的な浄土教の教義書とされる。

*往生要集巻上 序
「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎たれか帰せざるものあらん。……中略……このゆえに念仏の一の門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披き修するに、覚りやすく行じやすし。総べて十門あり。分かちて三巻となす。一は厭離穢土・、二は欣求浄土、三は極楽証拠、四は正修念仏、五は助念方法、六は別時念仏、七は念仏利益、八は念仏証拠、九は往生諸行、十は問答料簡なり。これを座右に置きて、廃忘に備へん。」(七祖篇七九七頁)

 このように説き出だして、まず第一に最も厭離すべき穢土の相を七つに分かち、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道及び総結とし、正法念経をはじめ諸経を引き、厭離すべきおぞましい穢土を克明に記している。
 六道の天は人界よりもとらわれの度合いが低い上の世界であるが、地獄道・餓鬼道・畜生道に較べはるかに上の望ましい世界であるように思えるが、「往生要集」には、「涅槃経」を引き、

・「天上より退せんと欲する時には、心に大苦悩を生ず。地獄のもろもろの苦悩は、十六にして一にも及ばず。」
・「余の五の欲天ことごとくこの苦あり。上二界(色界・無色界)のなかにはかくのごとき事なしといへども、ついに退没の苦あり。乃至非想(悲想悲悲想処天)も阿鼻をばまぬかれず。まさに知るべし、天上もまた楽しむべからず。」(七祖篇往生要集八三九頁)
などとあって、羨望の的とも思える天界もまた苦悩の源に満ちた世界であるというのである。

 今は昔、子供たちは、おじいちゃんやおばあちゃん、また親たちは勿論、他人であっても目上の人たちから「そんなうそついたら地獄におちて閻魔さまから舌を抜かれてしまうぞ」とか「悪いことをすると必ず地獄に落ちて火の海、針の山に落ちてそれはもう恐ろしい罰を受けるんだぞ」といわれたものである。

 嘘をつくことや小悪ばかりではない、生き物を無暗に殺したりいじめたりすることは、はるかに悪事であり、それは地獄におちること間違いなしのことであったのである。だから小さな虫ですら必要以外に殺生することははばかられたものである。夏休みの課題で昆虫採集があるが、わたしは蝉や蝶にアルコールなどを注射してその標本をつくるときなど、とてもいやな思いがしたものである。それらのことは、小さい時から言い聞かされたことが深層心理にあって働いたのであろう。このような人口に膾炙した言い伝えは、ひとえに源信僧都の往生要集に説かれている地獄・餓鬼・畜生道などのおどろおどろしい描写よるものではなかろうか。そしてそれらの言い伝えは千年もの間、人々の持つ悪道の心をおさえ、非道な振舞いに対して強い抑止効果を持ってきたのである。

 いまその教えが埋没し、世の中には想像もつかぬ悪逆非道が何の不思議も無くまかり通っているのではなかろうか。まさに今そのものが末法の世というべきではないか。

*極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

意訳 しんじんのうた 
罪の人々 み名を呼べ われもひかりのうちにあり
まどいの眼には 見えねども ほとけはつねに 照らします

「極重悪人」とは、観無量寿経正宗分下下品に、「下品下生というは、あるひは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもってのゆゑに悪道に堕し、…・・」と説かれている所謂悪人を指す。その極重の悪人は命終に際し、善知識に遇うことを得て観経に説かれる如く唯ただ念仏を称する以外に救われるすべは無いのである。

*大悲無倦常照我
「往生要集 正修念仏 観察門 雑略観」(七祖篇九五六頁)に仏の相好の中から「白毫相」、八万四千の光明を説かれる中で「…・・その光の中に一切の仏身を現じ、無数の菩薩、集会して囲繞せり。また微妙の音を出して、もろもろの法海を宣揚す。またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、常にわが身を照らしたまふ。…・・」と説かれている。

傍線部 原文には「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」とある。
 正信偈の句は源信和尚の言葉から傍線を引いた一字づつを略してそのまま引用されている。そして読誦しても、黙読しても、とても味はい深く、阿弥陀さまのお慈悲がわが身に沁みてくるものがある。

 源信和尚は「一心に称念すべし。……行住坐臥、語黙作々に、常にこの念をもって胸のなかに在[お]くこと、飢して食を念[おも]ふがごとくし、渇して水を追ふがごとくせよ。」と、「念」のあるべきかたちを「食べ物を欠き飢えに苦しむ時食をおも念ふがごとく、また水無くして渇きに苦しみ求めて水を追ふがごとく」と示されている。

註 語黙作々
「歩く・とどまる・すわる・臥す・話す・黙る、如何なる場合にも」の意

弥陀の報土をねがふひと 
外儀のすがたはことなりと 
本願名号信受して 
寤寐[ごび]にわするることなかれ

高僧和讃 源信章(九六)

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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