還浄された御門徒様の学び跡 |
一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし
難中の難とときたまひ 無過此難とのべたまふ浄土和讃(七〇)
現代語訳
・ 善人も悪人も、どのような凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を聞き信じれば、仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであると称え、汚れのない白い蓮の華のような人とおほめになる。
・ 阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、僑りたかぶる自力のものが、信じ保つことは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。
「一切善悪凡夫人」…・・文字通り「すべての善人も悪人も」とのべられている。ここでは阿弥陀仏のめあては「凡夫人」であるが、先には「凡聖逆謗」と示されている。重ねて阿弥陀仏の救済の真意は凡夫・聖人の別なく、また悪逆・謗法の者も包含したすべての一切衆生なのであると親鸞聖人はお示しになっているのである。
弘誓は弥陀の本願名号、仏言は釈迦の眞言、他力の信心広大なるさまをたたえ、その信心を獲得するものは、広大殊勝なる法門を領解する人であり、「勝解者」といい、それはインドにおいて、白蓮華をもって華の中の王とすることを引き、念仏の行者は希有・最勝の人であることをほめたたえられている。
その上でさらに、「阿弥陀仏の本願を信楽受持することは難の中の難としてこれに過ぎるものはない」といわれている。はじめに挙げた和讃のおこころはそのことをお示しになっている。
無量寿経 巻下(原典版一〇三頁)には
仏語弥勒 如来興世 難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸波羅密 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難 若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難 是故我法 如是作 如是説 如是教 応当信受 如法修行
とあります。
ここでは如来・諸仏・菩薩・善知識に遇うことの難を説き、無量寿経に説かれている本願を信じ保つことの難を示し、ゆえにわが教えを信じ教えのままに修行することを弥勒菩薩に説き示されている。
そのお心を親鸞聖人は「弥陀仏本願念仏 邪見僑慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」の四句にあらわされたことである。
浄土和讃(六八)
善知識に遇ふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし
浄土和讃(六九)
「難中之難無過斯」「信ずることもなほかたし」と聞くと、一般に言う「難行道」と同じ意味か、との誤解が生じますので少し註を加えます。
これは『十住毘婆沙論』と『往生論註』にも書きましたが、大乗仏教の覚りは声聞・縁覚に比べて、<この二乗の人よりも、億倍して精進すべし>と言われるほど難しい覚りであり、難しさの内容は浄土真宗も同じなのです。この難しい内容を日常において楽しく得、お育ていただく道を念仏は示しているのです。
なぜこのようなことが可能なのかというと、<名を称するはすなはち徳を称するなり>と法位師のいわれるように、「南無阿弥陀仏」の名には阿弥陀仏の徳が込められているのであり、名をたたえればそれは仏徳をたたえることになり、たたえることで衆生はおのずと<仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし>と親鸞聖人の言われるように阿弥陀仏の徳の内容をうかがい知ることにつながり、うかがい知ることが自ずと阿弥陀如来のはたらきが衆生に至り届くことになり、真心の歴史の軸が私の生活の軸となっていく(南無)からなのです。
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