還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第三集 9

弥陀の光明は……

【浄土真宗の教え】

 弥陀の光明は常にわが身を照護したまいて

 摂取心光常照護 己能雖破無明闇
 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
 獲信見敬大慶喜 即横超絶五悪趣

現代語訳
・ 阿弥陀仏の光明はいつも衆生を攝めとってお護りくださる。すでに無明の闇ははれても、貪りや瞋りの雲や霧は、いつもまことの信心の空を覆っている。  しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇が無いのと同じである。信を得て大いに喜び敬う人は、ただちに本願力によって迷いの世界の絆が断ちきられる。

*無明の闇
・「無明」はもともと梵語アヴィドャー(avidya)の漢訳。「真理に暗く、道理事象を明らかに理解できない精神状態をいう。最も根本的な煩悩。迷いの根源。
 浄土真宗では、本願を疑い仏智を明らかに信じないことを言う場合もある。(註釈版一三八二頁)
・「十住毘婆沙論 十方十仏章」(七祖篇十二頁)に「智慧の光無量にして、よく無明の闇を破したまへば、衆生に憂悩なし。」とある。
・ 釈尊は入滅に際して、諸弟子のために最後の教えとして法身の常住、世間の無常を説き、戒を保ち努力して早く解脱を得、智慧の光明によって無明の闇をのぞくことを教えられた。(遺教経)
・「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」
ご開山聖人はこの二句を釈されて「われらが貪愛瞋憎を雲・霧にたとへて、つねに信心の天を覆えるなりと知るべし。」と示されている。煩悩は《貪り、瞋り[いかり]、おろかさ、邪見、怨み[うらみ]嫉み[そねみ]諂い[へつらい]、たぶらかし、誑かし、おごり、侮り[あなどり]、不真面目、その他色々のの煩悩》とあるようにあらゆる姿をとって私たちをとらえ、覆い尽くしている。
逃れようとすればするほど煩悩の業火はわが身に迫ってくる。それが無明の闇である。その私たちに、
「獲信見敬大慶喜 即横超絶五悪趣」
《信心得ておほきに慶び敬う人》は、《信心をえつればすなはち横に五悪趣を切るなりとしるべし》《信を得る人はときをへず日をへだてずして正定聚の位に定まるを〈即〉と言うなり。
〈横〉はよこさまという。如来の願力なり。他力ともうすなり。〈超〉はこえてという。生死の大海をやすく よこさまに越えて無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、『他力には義のなきをもって義とす』と本師聖人(法然)の仰せごとなり。〈義〉というは行者のおのおののはからうこころなり。このゆえにおのおののはからうこころをもたるほどおば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。》 (尊号眞像銘文 末 註釈版六七二〜三頁)とお示しになり、すべてのはからいを捨て去り、ただ阿弥陀如来の本願にうちまかせることのみ煩悩具足の凡夫の救われて行く道であると説かれている。

註「横超・竪超」
横超[おうちょう]…・他力のはたらきによりよこさまにさとりに至る。(浄土真宗)
横出[おうしゅつ]…・出は漸教、他力によりながらもなお自力心が残っている。 (第十九願・第二十願)
竪超[しゅちょう]…・自力をもって直ちにさとりを開く。(天台宗・真言宗・禅宗)
竪出[しゅしゅつ]…・自力をもって永い時間をかけて漸次にさとりを開く。(三論宗)
蓮如上人は「即横超絶五悪趣」は「一念慶喜の心おこれば、願力不思議のゆえに、すなはち、よこさまに自然として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のきづなを載るといえるこころなり」と説かれている。
 註「五悪趣」 地獄・餓鬼・畜生・人・天の五道をいう。

不思議の仏智を信ずるを
 報土の因としたまへり
信心の正因うることは
 かたきがなかになほかたし

 正像末和讃(四八)

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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