還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 16

さるべき業縁のもよほさば

【浄土真宗の教え】
『歎異抄』(13)/『観経疏』散善義・上輩観・上品上生釈・深心釈・二種深心(5・6)/『高僧和讃』 善導讃(73)

 さるべき業縁のもよほさば

 太平洋戦争が終わり、日本には進駐軍とともにさまざまな米国文化がなだれのように押し寄せてきた。わたしは今でも少年期に見たジョンウェインの演じる西部の勇者を描く古典的な西部劇が大好きである。そのシーンの中に必ずといってよいほどに登場するのが教会である。日曜には馬車を駆って家族で教会に礼拝に行く開拓者たち、ガンを吊り下げながら神の前で許しを乞う荒くれ男の姿は、まばゆいばかりのアメリカさんとともに脳裏に焼き付いている。

 いま思い返して見れば、アメリカという国は神に許しを乞いながら、片一方の手で銃を取って人を殺していたようなものだ。だからその信仰にいのちの尊さが裏打ちされているのかどうかは疑わしい。戦争のもたらした狂気の結末を考えれば、もちろんわたしたち日本人だって同じ穴のむじな、いやそれ以上の悪業を背負っている。

 でもそのころの映画には勧善懲悪が生きていた。決して意味のない殺人は演じられなかったように思う。ただし先住民(インディアン)との戦いは今にして思えば無意味な、白人優位の理由のない殺戮だった。

 今の世相を見ると、何ともやりきれないものがこみ上げてくる。朝や午後のテレビ番組は正に殺人事件のためのチャンネルのようである。毎日まいにち、いのちの尊さが紙切れのように切り裂かれ、へいり弊履のように捨てられてゆく。

 歎異抄第十三条にはこのようにしるされている。

故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。

(うさぎや羊の細い毛のさきについているちりほどの、ほんのわずかな罪とがでも、宿業のむくいの結果でないものは一つもない。
 業縁がととのはないから人を害することがないのだ。決して自分の心がよいから人を殺さないということはない。調えば百人でも千人でもころすであろう。人間とは、自分とはそもそもそうするはずの因縁がもよおせばどんなことでもする存在である。)と歎異抄には説かれている。

 山折哲雄先生は著書「悪と往生」のなかで、親鸞聖人が唯円にいわれた歎異抄第十三条の言葉について、
「気がついてしまったとき、すでに人を殺してしまっていた因縁が、現実に存在する。そのようにいくら殺そうにも殺し得ないでいる因縁も現実に存在する。その殺と不殺とのあいだに横たわるあいまいな境界を、人間の知ははたして識別することができるのか。そういう根本的な問いを親鸞は我々につきつけていたのである。そのような危機的な場面で触発される究極の知、すなはち智慧は、もともと人間の側から用意されるものではない。それはただ仏(阿弥陀如来)の側からわれわれにめぐまれるものだとわたしは思う」と述べられている。

 私たちはそうした不条理をからだじゅうにみなぎらせて、今を生きている存在である。いかに身をつつしみ、いかに身を極限において努力しても、さるべき業縁のもよおせば、即、身・口・意の悪業をしてしまう愚かな存在でしかない。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
<中略>
仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

と善導大師は『観経疏』散善義・上輩観・上品上生釈・深心釈・二種深心にこのように仰せになっている。

 善導大師の仰せのそのままに、人間は生まれてこの方、生死流転の中に沈没し、ほとけの慈悲をいただかずば、この闇の中から逃れるすべはないのである。仏の慈悲は南無阿弥陀仏である。仏の御名を称することは「大行」であると親鸞聖人は教行信証に仰せになっている。
 その仏の本願のはたらきにより、名号のおいわれを聞いて浄土往生を願うものはすべてかの国に往生し、おのずから不退転の位に住する。(第十七願成就文)第十八願「若不生者」の誓いはすでに成就されているのである。

煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ

『高僧和讃』 善導讃(七三)

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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