還浄された御門徒様の学び跡 |
噫、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、憶劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
(教行信証 総序)
高校生の頃の恩師(礒貝正先生)は、殊に親鸞聖人を憶念され、お目にかかると総序のこのくだりを諳んじてわたしたちに語りかけられたものであった。いまその恩師も還浄され、その謦咳に接することはできないが、宿縁をいただくことを喜ばさせていただく今、「噫、弘誓の…」と語りだされる老師の声が今も耳に懐かしく響いている。
晩年、お訪ねすると、「数多くある卒業生の中でも榮ちゃんだけや。こうやって親鸞聖人の教えをいっしょに喜ばさせてもらうのは…ありがたい、ありがたい。なんまんだぶ なんまんだぶ」といってわたしを励ましてくださったものである。
ご開山聖人の「噫」と感動をあらわされたこの言葉は、そのまま先生の「値遇の感動」の「噫」ではなかったかと思うところであります。
今、遇い難くしてこの教えに遇い、聞きがたくしてこの経に遇い、如来の教えに値遇することができ救われてゆくこの身のありがたさ、不可思議さ。この慶びの凝縮が「噫」ではなかったでしょうか。
「噫、弘誓の
なぜ「強縁」なのでしょうか。
善導大師は「観経疏」《定善義》に次のように説かれています。
「問うて曰く。つぶさに衆行を修し、ただよく回向すれば皆往生を得る。何をもってか仏光あまねく照らすに、ただ、念仏の者のみを攝するは、何の意ありや」
「答えて曰く。此れに三つの義あり。
一つには親縁を明かす。衆生行を起こして、口に仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまう。
身常に仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば仏すなはちこれを知りたまう。衆生常に仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此相捨離せず。故に此れを親縁と名付く。
二つには近縁を明かす。衆生仏を見んと観ずれば、仏即ち念に応じ現じて眼の前にまします。故に近縁となづくるなり。
三つには増上縁を明かす。衆生称念すれば、即ち多劫の罪を除く。命終わらんと欲するとき仏聖衆とともに自ら乗りて迎接したまう。諸邪業繋も能くさえぎるものなし。故に増上縁と名づくるなり」 と。
この「増上」とは「力強い」とか「すぐれた」意味を持ち、増上縁は文字通り力強い縁として、ある事柄を成立させることを助ける意味があります。ここでは念仏する衆生を摂取して捨てないことを強く示し、「強縁」とは増上縁のことでありましょう。
曇鸞大師は「本願」が衆生の浄土往生の増上縁であると釈されています。
「まことにその本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁とす。<中略>およそ是・彼の浄土に生まるると、及び彼の菩薩・人・天の所起の諸行は、みな阿弥陀如来の本願力に縁るが故なり」
「言うところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と今日の阿弥陀如来の自在神通力とによるなり。願以って力を成ず。力以って願に就く。願徒念ならず。力虚説ならず。力願相俟って畢竟して違わざる故に成就という」
このように「噫、弘誓の強縁、多生にも値いがたく」と仰せになったのは、阿弥陀如来のご本願にこころから信順され憶念される慶びの発露でありましょう。
「佛願の生起本末を聞く」とは南無阿弥陀仏のおいわれを大経を軸に聴聞することであります。難値難見 難得難聞であるかもしれないが繰り返し聞く、何度も何度も聴聞する、一生の聴聞がなもあみだぶつでありましょう。
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり
讃阿弥陀佛偈和讃
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