還浄された御門徒様の学び跡 |
手だてをつくして十悪五逆のものの臨終に際し、善知識の勧める念仏は、仏の名号を称するが故に、念々は億劫の罪業を消滅し、浄土に往生することのできるなかま(正定聚)として退転することがないのである。
五逆のものより謗法のものの罪は重い。五逆のものは先に聴聞したように、善知識に遇い救われて行く。がしかし謗法のものはどうなるのであろうか。救われるのであろうか。
謗法は、仏あることを信じない、正法すなはち仏法あることを信じず、聞こうとしない、その無明のものに仏の願い、仏の説法が届くのであろうか。
このことについて善導大師は「観経疏」 《散善義》下品下生釈において「未造業」「抑止門」の考え方を示された。
「問うていう。『無量寿経』の四十八願の中に、五逆の罪を犯すものと正しい法を謗るものとが除かれるとあり、往生を許されていない。しかし、この『観無量寿経』の下品下生の文には、謗法のものだけを除いて、五逆の罪のものを摂め取るとある。それは、どのような意味であろうか」
「答えていう。このことは、如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。
四十八願の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、この二つの行いは、きわめて重いからである。衆生が若しこの罪を犯せば、ただちに無間地獄に墮ち、限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。
そこで如来は、この二つの罪を犯すことをおそれ、慈悲の心から抑え止めて《五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない》と仰せになったのである。
摂め取らないというのではない。
また下品下生の文に、五逆の者を摂め取って謗法のものを除くとするのは、五逆の罪はもうすでに犯しているのであり、その罪人を見捨てて、迷いの世界に生まれ変わり死に変わりし続けさせてはならないと、さらに慈悲をおこし、摂め取ってくださるのである。
しかし謗法の罪はまだ犯していないから、《もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない》と止められるのである。(抑止門)
此れはまだ犯していない罪のことと理解される。(未造業)
若し犯したなら、またこのものを摂め取って往生させてくださるのである」
「ただし浄土に往生することができても、蓮の花の中に包まれて、非常に長い間その中から出ることはできない。
<中略>よく知るがよい。花の中につつまれていて、非常に長い間その花が開かないといっても、無間地獄の中で限りなく長い間さまざまな苦しみを受けるのに比べたなら、はるかにすぐれている。以上のように、このことはまだ犯していない罪を抑え止める意味と理解することができた」(蓮の花の中というのは、真の報土往生ではなく《胎生》の世界である。)
『法事讃』(善導著)
「浄土では永久に、謗り嫌われるようなことがなく、平等で憂い悩むことは何もない。善いものも悪いものもみな往生することができ、浄土に往生すれば平等のさとりを開き、二度と迷いの世界に退くことはない。<中略>この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださる。謗法のものや一闡提であっても、心を翻して如来の本願を信ずれば、みな往生することができる」
*原文
即起悲智之心広弘四十八願以仏願力五逆之与十悪罪滅得生謗法闡提廻心皆往
*読み下し文
すなはち悲智の心広弘の四十八願を起したまふ。仏願力をもつて五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提と回心してみな往くによる
(すなはち悲智の心を起して広く四十八願を弘めたまふによりてなり。仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く)
懺悔・回心こそ謗法のものの救われる条件である。それ以外に救われるすべはないが、早く気づいてくれよとの阿弥陀如来の願いは常に十方衆生,一切のものの上に降り注いでいることである。
『尊号真像銘文』(親鸞聖人著)
「『唯除五逆誹謗正法』といふは、『唯除』といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」
正信偈に
本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如實言
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗再回入 如衆水入海一味
摂取心光常照護
と示されています。
法蔵菩薩は、はるかな昔 世自在王仏如来のみもと、五劫もの長き間思惟をかさね、「世のなかのあらゆる苦悩を消滅し衆生を安穏の清らかな大涅槃の境地に生まれさせずば」と四十八の願をたてて、安楽浄土を調えるための行を選び取られた。そしてその願を成就され、いますでに西の方ここを去ること十万億の仏国土を過ぎたところ、安楽国土におられて、今現に教えを説いておられる。
阿弥陀仏の本願は、心からわが国に生まれたいという衆生は必ずその願いを遂げさせますと誓われて、いまその誓は成就されているのである。至心信楽願為因 成等覚証大涅槃とは、第十八願の真実の信心を得れば正定聚の位に住し、その上に等正覚にいたり大涅槃を証することであり、そのことは、必至滅度願成就すなはち必至滅度の願が既に成就されているからである。
「法を謗るもの」「五逆の罪のもの」と「正法を信じず快楽を求め、さとりを開く心を起こさない一闡提のもの」は三つの難治のものとされているが、その難治の病の者にも弥陀の大慈悲は常に降り注いでいる。だからこそその者が求めなくとも仏の大悲の光はあきることなく常に照らされ、そのものが回心するのである。凡聖逆謗再回入 如衆水入海一味、回心すれば即、一味平等の世界に生まれさせてもらうことができる。
凡夫も、五逆の悪人も、謗法・闡提のものもひとしく浄土に往生することこそ、まことに不可思議な仏の、本願のはたらきなのであると正信偈には説かれている。
「大行とは無碍光如来の御名を称するなり」
「大信心とは阿弥陀仏が選び取られ回向してくださった真如にかなった信心である」
「信心を頂くことができるのは、如来の加威力・大悲廣慧の力による」
藤澤信照先生が次のようにお話しくださいました。
「阿弥陀様の世界は、『尽十方无碍なる世界』、《つまりほとりのない(ここまでが浄土で、ここからは浄土でないという境界線がない)世界》です。
『浄土に往生する』ということは『阿弥陀仏の世界に生まれる』ことです。また『阿弥陀仏と同じさとりを開く』ということは、『自他一如の世界が開かれる』ということです。一切がわたしであり、わたしが一切であるような世界に生まれることであって、他人というものがない。つまり、クリスチャンや他の信心をした人たちをも包み込んでいくような世界が浄土である。そのような心の視野を開くことがさとりなのです」 と。 (行信教校 藤澤信照先生)
阿弥陀佛は、尽十方无碍光如来とも讃嘆されます。十方無量の世界を照らし尽くしてなお遮るもののない大悲廣慧のほとけ様であります。
大慈・大悲の十二光は背を向ける五逆・謗法のものをも包みこみ、既に犯した罪人も、これから犯すかもしれない罪人にも、やさしく、厳しく、罪を抑え止めて、苦悩の衆生を必ず救うと仰せ出されていることであります。
善導大師の御釈は、十八願の「唯除五逆 誹謗正法」の文を「阿弥陀さまの本当のお心はそこにあるんだよ」と「未造業」「抑止門」の御釈にお示しいただいていることでありましょう。
この御釈なければ人の世のはじめよりこの方、十方微塵世界の無量の衆生はいまだに六道生死の世界を輪廻していることになることでしょう。
まことに佛・菩薩・善知識おわさずば救われぬわが身が、いますくわれて行くこの身のありがたさを心から佛恩感謝することであります。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんと思いたつ心のおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」
まことにそのお言葉通りであります。
なもあみだぶつ なもあみだぶつ
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