還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 27

慈悲

【浄土真宗の教え】

 慈悲

「苦を抜くを慈」といい、「楽を与えるを悲」という。すなはち「慈悲」とは「抜苦与楽」である。(一説には逆の解釈がある)

 〈二つには慈悲門によれり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。苦を抜くを〈慈〉といふ。楽を与ふるを〈悲〉といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに無安衆生心を遠離せり。

『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 還相回向釈 引文 より

意訳▼(現代語版 より)
 また『浄土論』に、<二つには、慈悲によって、すべての衆生の苦しみを除き、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れることである>と述べられている。苦しみを除くのを<慈>といい、楽しみを与えるのを<悲>という。慈によるからすべての衆生の苦しみを除き、悲によるから衆生を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。


一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。

『歎異抄』(4)

意訳▼(現代語版 より)
 慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。
 聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。
 一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。
 この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。
 このように聖人は仰せになりました。

仏教思想辞典によれば、慈悲の原語は次のようであります。

慈(mitri)
マイトリーは、ミトラ(mitra)より派生し友情・友誼を意味する。
一切の人々に対する平等の友情
悲(karuna)
カルナーは原意「うめき」「痛む」「苦しむ」で、人生の苦に対する人間の呻き声、その自分の中にある同苦のおもいが他の苦を癒さずにはおれないという救済の思いとなって働く、それが悲である。

要するに慈悲とは、人々の苦悩に同感し、痛みを共感しながら人々の真実のしあわせを、わがこととして願い求めて行く心を言う。

梯實圓和上 聖典セミナーV異抄H より

 歎異抄第四章の「存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ」のご開山聖人の仰せは、殊に心にずっしりとひびくものがある。
「この慈悲始終なし」の「この慈悲」は、聖道門の自力を励み、自らの上に大慈大悲を実現せんとするもので、だからこそ「始終なし」(終始一貫しない、不確かなもの)と仰せになっていることではなかろうか。

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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