還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 26

般若波羅蜜多心経のこと

【浄土真宗の教え】

 般若波羅蜜多心経のこと

 浄土真宗では般若経あるいは般若波羅蜜多心経を読誦しません。
 なぜ浄土真宗は般若心経を読誦しないのでしょう。

 般若とは智慧を言いますが、仏教では、一切事物の平等なることを証する「慧」(prajna)をいいます。「智」は平等の中に差別を見るはたらきをいい、(jnana)として区別されている。
 波羅蜜(paramita)は仏教で最高の徳である智慧をいう。智慧の内容は完全な空、完全な無執着であり、一切のとらわれを否定するものである。その智慧の完成によってさとりの彼岸に到ることを説くものである。この波羅蜜の完成は菩薩道の完遂によって得られるものされる。
 六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)は「智慧=般若」を第一とする。
 般若心経の心は心臓・核心の意味で多くの般若経群の中心である「空」に凝縮し、末尾に悟りの彼岸に到達をたたえる真言(マントラmantra)を付している。

 浄土真宗は、阿弥陀仏の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、浄土で真のさとりに到る、それがみ教えであります。本願力とは、絶対他力であります。
 絶対他力とは、すべての自力の絶対否定であると思います。
 自らの持戒・精進等により菩薩道を完成させ彼岸に到ることは、心を乱すことなく一点に集中して行う「行=善」・定善・自力であり、凡夫には到底不可能な行であります。
 ここに、般若心経を真宗では読誦しないという基本があると思います
 因みに、他宗では、心経を書写することで、苦悩を逃れ、善を積み、心の安穏をえることを勧めてもいます。心を静かに、経を書写することは良いことでしょう。たとえひとときでも世の中の苦しみ、雑念からはなれ、集中して書写することは、とても良いことでしょう。しかし、自力をはなれず、阿弥陀仏のご本願にうちまかすことのない者にとっては、そのような善は何の役にも立たぬことでありましょう。
 そうした善は、散善として真実の浄土には往生できぬ(第十九願・第二十願)としめされています。

[釈勝榮/門徒推進委員]

 編集註

 以下「般若波羅蜜」に関連する文を少し紹介しますが、「信心について説けば、すべてその中に収まってしまう」ということが肝要となるでしょう。

『十住毘婆沙論』(入初地品)にいはく、「ある人のいはく、〈般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず〉と。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助菩提』のなかに説くがごとし。〈般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ず〉と。家に過咎なければ家清浄なり。ゆゑに清浄とは六波羅蜜・四功徳処なり。方便・般若波羅蜜は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして過あることなし。ゆゑに家清浄と名づく。この菩薩、この諸法をもつて家とするがゆゑに、過咎あることなし。世間道を転じて出世上道に入るものなり。世間道をすなはちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文 より

意訳▼(現代語版 より)
『十住毘婆沙論』にいわれている(入初地品・地相品)。
「ある人の説には、〈般舟三昧と大いなる慈悲を仏がたの家と名づける。この二法から多くの仏がたが生れるからである〉といわれる。この中では、般舟三昧を父とし、大いなる慈悲を母としている。また次に、〈般舟三昧は父で無生法忍は母である〉ともいわれる。
『菩提資糧論』の中、〈般舟三昧は父、大いなる慈悲と無生法忍は母であり、すべての仏がたはこの父母から生れる〉と、説かれている通りである。
 家にあやまちがなければ、家は清浄なのである。だから、清浄とは、六波羅蜜の行と四功徳処であり、方便と智慧(般若波羅蜜)を善慧というのであって、般舟三昧と大いなる慈悲と諸忍、これらの法は、みな清浄であって、あやまりがないのである。だから、仏がたの家が清浄といわれるのである。初地の菩薩は、このような清浄の法を家としているから、あやまちがないのである。
 それは世間の道を転じて出世間の上道に入るものである。世間の道とは凡夫の行じる道である。転じるとは、その道を進むのをやめることをいう。凡夫の道は、どのように努めても、結局のところ、さとりに至ることはできない。いつまでも迷いの世界をさまようから、これを凡夫の道というのである。出世間とは、この世間の道をもとにして迷いの世界を離れることができるから、それを出世間の道というのである。上とは、この道がすぐれた道であるから、上というのである。入るというのは、まさしくその道を修行するから入るというのである。この心で初地の位に入るのを歓喜地というのである。


『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。
大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。以上

 またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ」と。以上

 またのたまはく(同・迦葉品)、「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」と。以上抄出

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈 より

意訳▼(現代語版 より)
 『涅槃経』に説かれている。
「善良なるものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形につきしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生ことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。
 また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。
 また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であるり、仏性はそのまま如来である。
 また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」

 また次のように説かれている(涅槃経)。「この上ないさとりについて説くなら、それは信心を因とする。さとりに至る因も数限りなくあるけれども、ただ信心について説けば、すべてその中に収まってしまうのである」

 また次のように説かれている(涅槃経)。「信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。また信には二種がある。一つには、たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、二つには、その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない」

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