還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 25

ひびき

【浄土真宗の教え】

 ひびき

親鸞聖人の宗教は聞名の宗教であります。
称名とはみ名を聞くことであります。
念仏とはみ名を聞くことであります。
称名念仏とは、口を動かして懸命になって努力している心に価値があるのではなく、謹んでみ名において打ちあけられてある如来の御心を聞くことであります。
称えるのではなく如来の真実の、自己を喚びさましてくださる御声を、そのまんまに聞くところに浄土真宗の全体があり、親鸞聖人の宗教のありたけがあります。
この真実に自分を喚びさましてくださる御声をみ名において聞くだけであります。このほかに別に不思議も神秘も秘密もないのであります。

足利浄円師『一樹の蔭』 (同朋舎親鸞に出遭った人々より抜粋)

みほとけの み名をとなうるわが声は
 わが声ながら たふとかりかりけり

いわもあり 木の根もあれど さらさらと
 たださらさらと 水のながるる

甲斐和里子『新修 草かご』

 幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺[ふ]くんでいるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを託[たく]しきって、何の不安も感じないほど、遍満している母性愛の尊きめぐみに、跪[ひざまず]かずにはおれない。
  いだかれて ありとも知らず おろかにも
    われ反抗す 大いなるみ手に
 しかも多くの人々は、何故にみずから悩み、みずから悲しむのであろう。すくいの輝かしいひかりの中に、われら小さきものもまた、幼児の素純なこころをもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまま、ひたすらに久遠の命を育みたい。――大いなるめぐみのなかに、すべてを託し得るのは、美しき信の世界である。

 信仰を特異の存在であるかのように思っている人たちは、みずからの欲するままに、慰安の光が輝くように思う。
 しかしながら、信仰はひとつの奇跡ではない。宗教はまた気休めのための力なき慰めでもない。信仰はみずからに荷せられた悩みを逃避するのではなく悩みの肯定のうちに、すくいのひかりに導かれるのである。
 信仰の篤いことは尊ぶべきことである。しかし、みずからの迷える信念の満足のために祈り、みずから安んじているのは、悲しいことである。

九条武子『無憂華』

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

善導大師『散善義』

[釈勝榮/門徒推進委員]


 編集註

 紹介されている善導大師『散善義』の文につきましては、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本)・大信釈 に引文されてみえますが、現代語版よりその意訳を紹介します。

また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧[かえり]みず、疑いなく仏が説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを、釈尊の教えにしたがい、仏がたの意にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである。

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