還浄された御門徒様の学び跡 |
(1) 仏教用語としての「方便(upaya)」は、ほとけさまが衆生を導くたくみな手だて、方法をいう。
(2) 浄土真宗における用法
『浄土真宗聖典 註釈版』 691頁には、以下のとおり出ています。
一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。
『一念多念証文』18 より
意訳▼(現代語版)
一実真如というのはこの上なくすぐれた大いなる涅槃のことである。涅槃とはすなわち法性である。法性とはすなわち如来である。宝海というのは、どのような衆生も除き捨てることなく、何ものにもさまたげられることなく、何ものも分け隔てることなく、すべてのものを導いてくださることを、大海がどの川の水も分け隔てなく受け入れることにたとえておられるのである。
この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、法蔵菩薩と名乗られて、何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、阿弥陀仏のことを報身如来というのである。この如来を、世親菩薩は尽十方無碍光仏とお名づけ申しあげられたのである。この如来を南無不可思議光仏ともいう。そしてこの如来を方便法身というのである。方便というのは、すがたをあらわし、み名を示して、衆生にお知らせくださることをいうのである。すなわちそれが阿弥陀仏なのである。この如来は光明である。光明は智慧である。如来の智慧は光というすがたをとるのである。智慧はまた、すがたにとらわれないから、この如来を不可思議光仏というのである。この如来は、すべての数限りない世界に満ちみちておられるから、無辺光仏という。このようなことから、世親菩薩は尽十方無碍光如来とお名づけ申しあげられたのである。
また『浄土真宗聖典 註釈版』 412〜413頁に宗祖の三願転入の経緯が出ています。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 三願転入 より
意訳▼(現代語版)
このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師などの祖師方の導きにより、久しく、さまざまな行や善を修める方便の要門を出て、永く、双樹林下往生から離れ去り、自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心をおこした。しかしいまや、その方便の真門からも出て、選択本願の大海に入ることができた。速やかに難思往生を願う自力の心を離れ、難思議往生を遂げようとするのである。必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をおたてになったのは、まことに意味深いことである。
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。
[←back] | [next→] |