還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 23

必至滅度

【浄土真宗の教え】
[釈勝榮/門徒推進委員]

 必至滅度

 真実の証は、「煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、如来より回向された信と行を得ると、即、大乗の正定聚の位に入る。正定聚の位にあるから必ずさとりに至る」ことと宗祖は明らかにされている。そして『如来会』の文「浄土に往生する人々はみなすべて正定聚のものであり、必ずこの上ないさとりをきわめ、涅槃に至るであろう。なぜなら、邪定聚や不定聚のものは、仏が浄土に往生する因を設けたのを知らないので、往生することができないのである」をひかれています。
 さきに挙げたように、「信」は「第十八願…至心・信楽・欲生」であり、「行」は、「第十七願…大悲の願…」「無碍光如来の御名を称名する」ことである。
 こころから阿弥陀如来の悲願を信楽し、そのお心を憶念し、信順し、ほとけのみ名を称することである。

 そしてまた、その念仏は、「妙声功徳荘厳成就」すなはち清らかなさとりの声は実に奥深くすぐれていて、すべての世界に響き渡るのであり、みなほとけ様の衆生へのはたらきかけによるものである。
 まこと不可思議のはたらきなのである。

 必至滅度とは常楽我浄の徳をそなえること。

 常楽我浄とは、涅槃の四種の徳を言い、すなはち、
(常)・永遠不変の徳、
(楽)・苦悩のない徳、
(我)・自在の力の徳、
(浄)・煩悩のけがれのない徳
を言い、煩悩を滅し尽くした境地、寂滅に住することである。

 寂滅とは、無上涅槃である。

 無上涅槃は生滅変化を超えた真実そのもの、すなはち無為法身である。

 無為法身はすべてのものの真実のすがた、すなはち実相である。
 実相はすなはち法性である。
 法性はすべての絶対究極のあり方、すなはち真如である。

 真如は、相を超えた絶対の一、すなはち一如である。

 阿弥陀如来は一如のかたより形をあらわして、報身、応身、化身などのさまざまなすがたを示してくださる。

(教行信証 証文類)

*一如
一は絶対不二の意味、如は真如。
衆生の虚妄分別を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すべての存在の本性は、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることを示す。


 編集註

 浄土真宗聖典 註釈版には、以下のとおり書き下し文が出ています。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 大証釈 果体出願 証果徳相 より

 また、[ご本願を味わう 第十一願 必至滅度の願] も参考に学んでみて下さい。

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