還浄された御門徒様の学び跡 |
生因三願 (衆生が浄土に往生する因として)
生因とは衆生が浄土に生れさせてもらう因(たね或いはもと)をいい、その願いかたによって生因は、
の三種類ある事を示し、また、その浄土にも真実の浄土(報土)、方便としての浄土(化土)があることを教行信証 真仏土、化身土の二巻にあきらかにされている。
浄土三部経と生因三願の関係は次のとおりとされています。
では、同じ無量寿仏の御名を称えるのに、そこに自力・他力の差異がなぜ現れるのでしょうか。
第十八願は
至心信楽 欲生我国 乃至十念
「心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して」
とのみあり、そこにはわずかばかりも修徳修善は求められておりません。
第十九願には
修諸功徳 至心発願 欲生我国また、第二十願は
「さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら」
係念我国 植諸徳本 至心回向
「さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら」
とあります。ともに自分が功徳を積み、善徳をつんでその力、はたらきで浄土に生れたいという人々のねがいである。つまり自力でということである。
阿弥陀如来は、因位のとき、誓われて願をたて、その願を成就された今、至心(真実の心)で「衆生を必ず浄土に生れさせる」と働きかけていてくださいます。
そして、四十八の誓願の根本は第十八願でありますから、如来の大悲の願をそのままにいただくことが出来れば、何の修善、積善が要りましょうか。
では、なぜ十九願があり、二十願あるのでしょうか。
そこに、真実と方便があり、真仏土、化身土が示されていることを正しく学ぶ必要があると思います。
ご開山聖人は、化身土文類のはじめに、こうしめされている。
つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 総釈
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 要門釈 説意出願
▼意訳(現代語版)
つつしんで、方便の仏と浄土を顕せば、仏は『無量寿仏観経』に説かれている真身観の仏であり、浄土は『観無量寿経』に説かれている浄土である。また、『菩薩処胎経』などに説かれている懈慢界である。また『無量寿経』に説かれている疑城胎宮である。
さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。すなはち、慈悲の心からおこしてくださった第十九の願がある。
この願を修徳功徳の願と名づけ、
また臨終現前の願と名づけ、
また現前導生の願と名づけ、
また来迎引接の願と名づける。
また至心発願の願と名づけることができる。
設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
▼意訳(現代語版)
わたしが仏になったとき、すべての人々がさとりを求める心をおこして、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしは多くの聖者たちとともにその人の前に現れよう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。
▼意訳(現代語版)
すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心(至心=真実心)をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れようと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。
人々が心から阿弥陀如来の本願に信楽し、信順することである。その信もまた阿弥陀さまのお与えくださった信である。無条件のすくいである。
『無量寿経』で弥勒菩薩が釈尊におたずねした。
このように、弥陀の本願力に信順しおまかせする心がなく、自らの積善の努力をもって浄土に生れようとしても、真実の浄土には往生はできない。が、その者が過ちに気付くことがあり、阿弥陀仏に信順するこころがおこり、念仏申すならば、ただちに真実報土に生れさせていただくことが出来る。
親鸞聖人は、『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本)三経隠顕(註釈版381頁・現代語版484頁)で、以下のように仰せになっている。
ところで、『無量寿経』によると、阿弥陀仏は他力念仏が説かれた真実の願すなわち第十八願と、往生のためのさまざまな善が説かれた方便の願すなはち第十九願・第二十願とをおこされている。また『観無量寿経』には、釈尊が定善・散善の方便の教えを外に顕わされ、他力念仏の真実の教えを内に顕わされている。『阿弥陀経』には、ただ真門の念仏が説かれているだけで、方便の善は説かれていない。このようなわけで、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』に説かれる真実の教えは、第十八願をかなめとするのである。また、この三経に説かれる方便の教えは、さまざまな善根を修めることをかなめとするのである。
これらのことから方便の願を考えると、そこには方便と真実とがある。また行と信とがある。その(方便の)願とは臨終現前の願(第十九願)である。その(方便の)行とは定善・散善のさまざまな善根功徳を修めることである。その信とは至心・発願・欲生の自力の三心である。この第十九願の行と信をよりどころとして、釈尊は『観無量寿経』に、浄土の要門すなはち方便である仮の教えを顕わされた。この要門の教えに正定業と助業と雑行の三つの行が示されている。その正定業と助業について専修と雑修とがある。これらの行を修めるものに二種ある。一つには定善を修めるものであり、二つには散善を修めるものである。また二種の三心があり、二種の往生がある。二種の三心とは、一つには定善の三心であり、二つには散善の三心である。この定善・散善を修める心は、一人一人異なる自力の心である。二種の往生とは、一つには即往生であり、二つには便往生である。便往生とは、胎生であり、辺地への往生であり、双樹林下往生(※)である。即往生とは、真実報土への化生である。
また、『観無量寿経』の中には真実がある。すなわち金剛の信心を説いて、他力念仏の行者を摂め取って決して捨てないという本願のはたらきを明らかにしようとされるのである。このようなわけで、五濁の世ですべての衆生を導かれる釈尊は、至心信楽の願(第十八願)のおこころをお説きになったのである。報土に往生するまことの因は、まさしく第十八願の信楽であり、これを正因とするからである。そこで『無量寿経』には「信楽(しんぎょう)」と説かれている。阿弥陀仏の誓願には疑いがまじらないから、信といわれるのである。『観無量寿経』には「深心(じんしん)」と説かれている。それぞれの衆生がおこす自力の信が浅いことに対するから、深といわれるのである。『阿弥陀経』には「一心」と説かれている。念仏以外の他の行がまじらないから、一といわれるのである。また、この一心について深い一心と浅い一心とがある。深い一心とは他力回向の真実の心であり、浅い一心とは定善・散善を修める自力の一心である。
『仏説観無量寿経』 正宗分 散善 上上品、には以下のように説かれている。
もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
▼意訳(現代語版)
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。
▼意訳(現代語版)
もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。
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