還浄された御門徒様の学び跡 |
つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。
<中略>
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。
この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 大信釈 嘆徳出願
平成十二年の五月、早島鏡正先生が還浄された。先生の著わされた書物を初めて学ばさせていただいたのは、本願寺教学シリーズbV『大無量寿経の現代的意義』である。何度もなんども読み返したつもりであるが、読むごとに新たである。わたしにとって、ご開山聖人のみ教えを学ぶ上で、「こういう学び方がありますよ」というか、「ここが肝心なところですよ」というか、そうしたものを示唆していただき指南していただいた書物である。
そのなかで
また、
要するに、仏智の世界とは何であるか。その仏智の世界をいただく私になるということはどういうことなのか。それが『大経』の説法を通じて私に受け止められるならば、『大経』の現代的意義はおのずからともなうことであります。それでは、水子の問題や靖国の問題はどうするのかといえば、現代のそのような問題にぶつかりながら、私自身が、私自身の頭と身体で努力し創意工夫するしかないのであります。われわれの創意工夫すべきことまでも『大経』の中に解答を要求しようとするのならば、それこそご本願の心を知らない者であり、本願ぼこり、本願に甘えるものであるということになりかねません。
<中略>
およそ仏教は覚える教えではなく、目覚めの教えである。
<中略>
浄土はさとりの世界、わたしをして目覚めさせる世界、それが浄土であります。ですから、ただ南無阿弥陀仏と称えれば、それが念仏生活であるというものではなくて、ご本願に触れ念仏の称えられる生活を営むなかで、私が私に目覚める、すなはち仏智のはたらきによって目覚めさせて頂いたことに、気付かせてもらうのが念仏生活なのであります
親鸞聖人は、教行信証 信文類にこう示されている。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 大信釈 嘆徳出願
▼意訳(現代語版)
ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続ける衆生は、この上ないさとりを開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。
また、「大信心」は、
この信心は第十八願 「念仏往生の願」に誓われている。すなはち「十方の衆生が心から信じ喜び私の国に生れたいと願いたとえ十回でも念仏してもし生れることが出来なかったら私は決してさとりを開かない」と誓われた阿弥陀さま、その阿弥陀仏の凡夫に回向された真実の心(至心)によって、私たちが心から信じ喜ぶことがかなう(信楽)のである。それは浄土に生れる因果をいただくことなのである。
衆生が仏願の生起本末を聞いて疑いの心のないすがたが「聞」であると大経にとかれているように、阿弥陀如来の超世の願のおいわれを無量寿経に学ばせていただくことが、阿弥陀さまに回施いただいた信心をいただく近道でありましょう。
早島鏡正先生は、
親鸞聖人が『大経』によって仏教を語られたように、私どもも『大経』の意味を問い続けることによって、初めて南無阿弥陀仏とは何であるかが知らされのであります。これまで、なぜ私が『大経』に問うことをしなかったのか。親鸞聖人は一生の間、『大経』に問い続けてこられたのではなかったか。この点をひとつ反省させていただきたいものであります。
といわれている。まこと阿弥陀仏を、ご開山聖人をほれぼれと仰ぎ見、憶念される先生の姿が目の当たりにみえるような思いである。
『仏教は念仏』なのである
この早島鏡正先生言葉は、
「念仏は仏教の内のひとつの教えではなく、『仏教=仏になる教え』とは念仏そのものなのである」
と示されていることである。
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